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脱原発神話 番外4 ・・・『はだしのゲン』騒ぎから [2013/09/05]

背筋がもぞもぞする教育マンガ

わたしは『はだしのゲン』を読んだことがない。本を手に取ったこともない。今後も見ることはないだろう。あの、いかにもな劇画タッチが読む気をそぐ理由の第一だ。それから、テーマがあまりにくそ真面目すぎて、黙って通り過ぎたくなる。それが理由の第二。マンガは面白くないとダメに決まっている。我慢して、正座して読むものでもない。まして、平和教育のために、などと言われると背筋がもぞもぞしてくる。その前に、わたしはマンガを読むような歳か?。

参考1:石井孝明:『はだしのゲン』騒動のばからしさ

参考2:武田肇・朝日新聞記者:松江市教委が、漫画「はだしのゲン」小中学校での閲覧制限問題

じつは、松江生まれのわたしは小学6年の修学旅行が広島だった。昭和39年だったか。生徒代表で慰霊碑に花を捧げた。とうぜん原爆資料館も見学した。しかし”衝撃”は受けた憶えがない。8時15分を指したまま止まった時計とか、勤労女学生の焦げたかすりの衣服とか、御影石に焼き付いた人の影とか・・。もちろん、わたしがショックを受けなかったのは単に感受性の鈍い子供だったからなのだろう。原爆の恐ろしさや悲惨さを感じ取れなかったのは、子供としては良くないことだったのだろう。

あえて理屈づけるとすれば、昭和30年代の日本というのはまだ高度経済成長が始まったばかりで、それほど豊かさに満ちていたわけでなかった。戦争もそう遠い過去ではなく、”傷痍軍人”さんが白装束で松葉杖をつきつつアコーディオンを弾いているような世界だった。父親は戦争に行って死なずに帰ってきた。そういう世界に生きていた子供は、焼けただれた原爆遺品を見ても日常と特別ちがったものには見えなかったのだ。たとえ原爆だろうと、そういうものだろうなあという程度でしかなかったと思う。

ついでに、中学校の修学旅行がこれまた九州で長崎がコースに入っていた。この年頃になると、修学旅行はもう色気づいてきているから、真面目に学習するやつもいなくはないが、たいていが関心は異性にしかない。修学旅行とはたいていそんなものだろう。

『ゲン』は原爆の悲惨を自分の体験から生々しく描いているという。作者の中沢啓治氏が、怒りでもって描いたのか、哀しみでもって描いたのか、鎮魂の祈りとして描いたのか、反戦の主張として描いたのか、政治的立場から描いたのか、読んでないわたしには分からない。だから、小中学校がこどもの自由な閲覧を制限することの是非についても、語る資格はわたしにない。それは勘弁してくださいな。ここで書きたいのは、そのことではない。

本当に「平和」の役に立ってきたのか

日本では、いろんな立場の人がいろんな場面でいろんな方法手段で原爆の悲惨を口にしてきた。何度も何度も。広島、長崎、そしてビキニの水爆実験と第五福竜丸事件。核兵器廃絶運動の歴史がつづられてきた。

しかし改めて問いたい。核兵器の悲惨を強調することは本当に平和の役に立ってきたのだろうか。人を幸福にしてきたのだろうか。

たしかに、朝鮮戦争以後の世界では、核保有国家の指導者に対して不用意に核兵器をもちいることを思いとどまらせる抑止力にはなったかも知れない。一発の破壊力が大きすぎた。一発でも実戦で使ってしまうと、もう歯止めがきかなくなるのは火を見るより明らかだった。だから核戦争は起きなくて済んだ。けれども、核兵器開発競争を止める力にはならなかったし、核武装国家が増えるのを抑える力にもならなかった。

ましてや、通常の非核兵器を使った戦争は何度でも起き、何万、何十万の一般市民が犠牲になることを止めることはできなかった。つまり核兵器以外の兵器でも無差別大量殺人は可能だったのだ。もとより、原爆を他の兵器とならべて、悲惨さの度合いを比べて競い合っても仕方ない。しかし、原爆はほかのどんな兵器よりも非人間的で非人道的だ、原爆の被害は特別だ、核を廃絶せよ、と日本人が叫んでいるあいだにも、世界では通常爆弾が数限りなく炸裂して、非人道的に、人は死んでいった。

核兵器抜きで、通常兵器だけを使った戦争が途絶えることなく続いているこの世界で、半世紀以上にわたって核廃絶を優雅に唱えつづけている国民とはいったい何者だろうか。1945年8月から、日本人の思考は停止しているのだろうか。1954年のビキニ以来、日本人の戦争と平和についての思考は停止してしまったのだろうか。

周辺諸国との対立・緊張にさらされて、核兵器の威力を知る政治指導者は、技術能力さえあれば自国の核開発に密かな意欲を燃やすことになる。日本人が悲惨と恐怖を語れば語るほど、核の威力は強められた。核を持つことの政治的、外交的重みは増した。力を求める人々にとって、核の威力を語ることは核開発を進めようとする力にはなっても、核開発を放棄する力にはならなかった。

核の悲惨は「抑止力」という新しい力を生みだした。その力は目に見えないものだった。それは物理的な力を超えた超政治的な力だった。物理的な破壊力と放射能という特殊なイメージが相手にあまねく知れ渡ることで、相手に対する抑止力は機能する。怖さを知らない相手に脅しは通用しない。日本人は大いに原爆の威力と被害を世界に向けて宣伝した。その結果は、核武装を止めることにはつながらず、威力の宣伝はむしろ核の抑止力を間接的に強化する役割を果たすことになった。核の存在意義を側面から補強した。これは言い過ぎだろうか。

核の悲惨は核を持つもの同士の戦争を抑止した。しかし、核を持つものが持たないものにけしかける戦争はまったく止められなかった。持たないもの同士の戦争、持たない国の内戦もなくならなかった。この両極端の事実をどう受け止めたらいいのか。核は世界大戦を抑止した。核がなければ、今ごろ世界は壊滅していたかも知れない。ベトナム戦争も中東戦争もユーゴ内戦もアフガン内戦も湾岸戦争もイラク戦争もアラブの春も、大国をすべて巻き込んだ世界戦争の引き金になっただろう。もし核兵器がこの世になければ・・・。

関連:核のない暗黒世界 ・・・オバマ・プラハ演説の意味を考える [2009/8/10]

オサマ・ビンラディンは、アフガンの山岳アジトで広島長崎の悲惨を語り、東アジアの島国に同情を寄せながらアメリカを呪った。悲惨の強調は平和主義をもたらすとは限らない。非暴力につながるとは限らない。悲惨の強調は激しい憎悪をもたらすこともあれば、力による報復へと人を向かわせることもある。やられたらやりかえせ。

核を必要とする国家、核を必要とする指導者がいる限り、世界の核を廃絶できるとは思えない。いつでも戦争状態が起こりうる世界で、ある種の兵器だけを特定してなくそうというのが核廃絶のスローガンだ。そのスローガンが仮に実現できたとして、それで世界は平和になるのか。。ならない。

”被爆2世”の誕生

悲惨さの強調は、繰りかえせば繰りかえすほど、時間とともにマンネリ化して、訴求力を失っていく。いわゆる「風化」「忘却」だ。そうすると、訴えを印象づけるためにより一層、悲惨さの強調を求められるようになる。まるで薬物中毒患者のようにもっと強い刺激が欲しくなる。もっと悲惨な原爆、もっともっと悲惨な原爆、本当の原爆はもっとひどかった・・・と拡張バイアスがいつまでもかかってくる。世の中は原爆に限りない悲惨さを期待しているからだ。原爆経験者は悲惨さを求める世の中の期待に応えなければならなくなる。”初めて牛を見たカエルの寓話”だ。

原爆が他の通常兵器とちがうのは、被害が一瞬で終わらないことだった。晩発性の障害つまりがんや白血病が発生する恐れがあることだった。そのうえに、遺伝的な悪影響の可能性がつけ加えられて、原爆の見えないおそろしさとして世の中に広がることになった。「被爆2世」ということばはそうして生まれてきた。戦後の日本人がそのことばを使った途端、そこに遺伝的な障害発生の可能性を認めることにもなった。暗いニュアンスを貼り付けることになったのだ。次世代への遺伝という発想が頭に無ければ、こんな新しいことばは絶体に生まれてこない。生まれて一気に日本社会に広まって、そして定着してしまったという事実は重い。これは誰がどう見ようと差別性と偏見をふくんでいる。だれがこんな差別的用語を創り出したのか。だれが広めたのか。

たぶん、だれも、差別のため、悪意を込めて、このことばを使い始めたのではなかっただろう。そんな日本人はいなかったと信じよう。むしろ善意のつもりで、原爆の悪影響という想像と不安をふくらました結果としてこのことばが広まったのだろう。長くつづく原爆被害の強調のためにも、被爆2世という、新種の、核被害特有の犠牲者が必要だった。このことばのもつ独特の響き。それによって原爆はより凶暴なものに仕立てられることになった。世代を超えて悪い影響がつづいていくというイメージを日本人の心に刻み込んだ。

次の世代まで健康に影響が出るかもしれない。そうした科学的、医学・疫学的に根拠のないことまで、原爆の被害として関連づけて語られてきた。それは妄想と言ってもいいものだった。それは日本人、世界の人々にすり込まれ、恐ろしさと不安を心にしみこませてきた。こういう漠然としたイメージ、頭よりも心に訴えかけるようなイメージというものは、しばしば客観的なデータ、科学的な思考を覆い隠してしまう。ムードや「空気」だけで世の中を動かしてしまう。真実はそれとはまったく違っていたにもかかわらず。

広島、長崎の原爆被爆者を追跡調査してきた結果は、次世代に医学的悪影響は出ないという事実だった。その事実を今の日本人はどれだけ理解しているのだろうか。

もうひとつ。悲惨さの強調で、さらにいつまでも被爆の影響を終わらなくさせてきたのが、被爆者認定訴訟だった。これは、あえて言わなくてはならない。要するに、何でもかんでも被爆のせいにしようという運動だった。認定されるとどうなるのかは、以下の法律についてのリンクを参照。被爆した位置などから推定される線量から見て影響が出るような水準でないにもかかわらず、しかも放射線によって起きる症状と認められていない病気にもかかわらず、すべて原爆の影響だと。被爆認定があたかも正義で、認めない行政が悪であるかのような風潮は、裁判所の判断にすら影響を及ぼしてきた。

原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律
ウィキペディア:原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律

原爆の犠牲者は、死者のほとんどが爆発後2ヶ月ほどのあいだに集中していた。その数は広島14万人、長崎7万人、合わせれば21万人とされる。まず、およそ19万人(全体の9割)の人々が、一瞬にして数千度の高熱に焼かれ爆風で叩きつぶされ即死、または重い熱傷と高い放射線量を浴びたことが主原因で2週間以内に死亡した。そのつぎは爆発3週間目から8週間以内に亜急性の放射線障害いわゆる敗血症、免疫抵抗力の低下を起こすなどして死んでいったおよそ2万人(全体の1割)。つまり、被爆犠牲者のほとんどがここまでの範囲に含まれる。原爆の犠牲は大部分が爆死、熱傷死であり、放射線だけが原因の死者はいなかったと言っていい。原爆の恐ろしさの本質は一瞬の巨大な破壊力、猛烈な爆風と高熱による無差別大量殺人という点にあった。


爆心からの距離と白血病
『被爆者の実相と被爆者の実情』(1977 NGO被爆問題シンポジウム報告書)より
もちろん、それで終わりではない。1950年前後から1960年代にかけて、白血病やがんを発症して死亡することになった人。この晩発性障害の、例えば白血病のばあいでは、人口当たりの死亡率は日本人平均のおよそ4倍から10倍と高率(爆心からの距離にもよる)だったが、死亡者の実数そのものは合計で数十人から百人規模と、原爆犠牲者全体から見ればわずかなものだった。がん死亡率についても、日本人平均よりやや多いという数字(数%)だった。

この項は『広島・長崎の原爆災害』(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会編:1979年刊)、および『被爆者の実相と被爆者の実情』(1977 NGO被爆問題シンポジウム報告書)を参考にしました。単位がラド、レムといった現在では使われなくなったものですが、基本データに影響するものではないのでそのまま引用しました。

また最新の考え方に基づく被爆の健康影響分析については次のページが参考になります。原子力百科事典 ATOMICA「原爆放射線による人体への影響」

「唯一の被爆国」の恥ずかしい国民的無知

広島と長崎で、生き残った人たちに起きた放射線被曝が原因と思われる晩発性障害の絶対数はわずかなものだった。犠牲者全体の1%にも遠く及ばない少ないものだった。わずかなもの、という表現は語弊があるかも知れない。数が少なくても原爆症は原爆症だ。しかし、被爆、即、白血病・がん死、という世間のイメージは現実をあまりにも誇張したものだった。大多数の人がふつうの人と同じ健康状態で戦後を生き抜いてきた。そのことを見ないで、ごく一部の病例がすべてであるかのように言うのはまちがっている。すべての被爆者が悲惨な人生を送ったと言うのはまちがっている。


被曝量と白血病
『被爆者の実相と被爆者の実情』(1977 NGO被爆問題シンポジウム報告書)より
しかし、『黒い雨』に象徴されるように、原爆の被爆者はまるでみんな何年何十年か後にがんや白血病を発症してじわじわと悲劇的な死を迎える、かのようなイメージが日本人の多くに染みこんでいる。原爆犠牲者はすべて放射線障害による死者だという思いこみが日本人のなかに深く染みこんでいる。これは戦後日本人のあまりにもお粗末な、そして有害な誤解だった。「唯一の被爆国」の国民として恥ずかしいほどの科学的無知だっただろう。

その国民的な無知が、けっきょく福島原発事故後のこの国のバカげた騒ぎにつながることになった。何万人もがんで死ぬだの、髪が抜けるは鼻血が出るはの騒ぎ。福島県民がみんなヒバクシャにされてしまうやら、瓦礫拒否やら、奇形児が生まれるやら、あることないことデマの大安売りになっていった。

改めて書くまでもないが、一口に被爆者と言っても浴びた放射線量は人それぞれちがっていた。じっさいの健康にはっきりした影響を受けたのは、被曝量の高かった一部の人たちに限られていた。まして、福島の原発事故で一般の人が環境から受ける被曝量など原爆とはケタがちがいすぎる。くらべるのもバカバカしい。

PTSD という精神的ショックなどを除けば、ほんとうに医学的に原爆の影響を受けたのはそこまでだ。それから先は、ない。そこから先、原爆の影響をどうこう訴えることに正当な価値はない。原爆の生死に関わるほど深刻な影響を受けてしまった人は、みんなかなり早くに死んでしまった。それ以外のほとんどの、わずかな放射線を浴びただけの被爆者は時間とともに健康を恢復していった。半世紀以上も生きてきて、新たに原爆の健康影響を認めろと言うのは、自然に考えてあまりに無理筋だ。自分を「被爆者」だ、被爆者認定を広げろという主張の意図を疑う。タカリは本当の原爆犠牲者に対する冒涜だ。これについては、脱原発神話第5章「科学者の社会的責任、文学者の社会的責任」に引用したとおり。松井一実広島市長の発言はまったくもって当然のものだと思う。

「怖い、いやだ、無くしてしまえ」という教育

平和教育は、だれでもがかんたんに言える「戦争反対」「核廃絶」というスローガンで象徴できる。だれも戦争で人を殺すことは好まないし殺されたいとも思わない。学校で教育として取り上げるのも難しいことではないだろう。とりわけ夏休みの宿題で原爆問題をテーマにすることもこの季節の恒例行事だろう。広島や長崎を訪れて被爆者の話を聞く、というのも決まり切ったパターンだ。「核廃絶」というスローガン、それはしかし世界の平和には何の役にも立たないお経でしかなかった。日本のように、アメリカの核の傘の下で、なおかつ日米安全保障条約で軍事的な安定が保たれている国にあって、切迫した戦争の危険から遠いところに暮らしている(と思っている)わたしたちが、いったい何を平和教育として語れるのだろうか。核廃絶は、そういう温室のなかにある国の、ぬるい理想論でしかない。廃絶のための具体策、緻密で合理的な方法論がろくに語られないことでもそれは分かる。ただのスローガンでしかなかった。

その一方で、学校教育でまったくなおざりにされてきたのが放射線教育だった。平和教育がこどものころから悲惨さのイメージを心にしみこませようとしたのと比べると、こどもに対する科学的な教育、客観的な事実の啓蒙はほとんど何もされてこなかった。わたし自身、そういう勉強を学校でやった記憶がまったくない。だから、わたしの知識は今でもかなりあいまいで怪しい。

もっとかんたんに言えば、核の危険性を大声で叫ぶのはいいとして、それと同時に、ここまでなら大丈夫だとか、こうしておけば放射線については安心だとか、こうやって防げとか、そういう実際上の知識を教え、実践的な対処方法を伝える作業が欠かせないということだった。放射線や核エネルギーを発見した人類にとって、それについての必要最低限の知識をもつことの大切さ。放射線がまったく飛んでない世界は地球上のどこにもないこと。それは原子力施設があるなしとは何の関係もないこと。そのことに無知であったり、フタをしたり、避けて通ったり、闇雲に怖がっているだけでは自分の身を守ることはできないこと。車にひかれるのが怖いから子供を家から外には一歩も出さない、というのでは困る。この現代で、事故や被害を避けるための知識や技術を学ぶことからのみ、人間は前に踏み出していくことができる。そういう現実的な知識こそが大切なのだ。

幸か不幸か、日本人は原爆を直接、間接に体験させられた。そして、被爆の厖大な研究データが蓄積されてきた。その知見は日本人の生活にどれだけ還元されてきたのだろうか。ふつうの日本人の生活に必要な知識として、どれだけ啓蒙教育に役立てられてきたのだろうか。たぶん、何も教育されてこなかった。放射線や放射性物質について、恐ろしいというイメージはイヤと言うほどくり返し流されてきた。しかしそれ以外は何ひとつ、ふつうの日本人は理解してこなかった。それが、福島第一原発事故のあとの大混乱と不安、偏見、風評の大爆発につながっていく。根拠のない危険デマが乱れ飛ぶことになる。無意味な”自主避難”が大量にでることになる。

わたしは、あの程度の放射線量や放射性物質の濃度で何であんな大騒ぎするのだろう、と思った。世の中にはもっと遙かに危険なことがゴロゴロしているというのに・・。

学校現場での具体的、実際的な放射線教育とエネルギー教育が必要だと誰かが主張すれば、これは核兵器の存在を認めてしまうことだとか、原子力発電を前提にするのかとか、そういう反対論が出てくるのがこれまでの日本だっただろう。入り口でシャットアウトしてしまう。複雑でやっかいな問題からは逃げる。これもすべてかゼロかという幼児思考の典型。見えなくしておけば良いという発想でこれからこの世界を生きていけるわけでもない。小中学生に『はだしのゲン』を見せないのはけしからんと言うのであれば、それ以上に、現代を生きる人間として、こどもの発達段階に応じた放射線と原子力の教育にも力を注ぐべきだろう。

原爆の悲惨、放射能の恐怖だけを強調してきた「平和教育」や「文学」は、こどもの思考力を豊かにするのではなく、合理的な思考力を妨げ、曇らせ、ゆがめてきた。データに基づいて科学的にものごとを考えるという態度を育ててこなかった。広く多様な現実を見えなくしてきた。このことは、米ソの対立時代によく行われてきた悲惨と恐怖だけをあおる情緒的マスコミ報道の影響も大きかった。善意の皮をかぶって、正義の旗を振り回して、結果は、放射線とその影響についての完全な無知と誤解、差別と偏見を世の中にばらまいてきたのだった。NHK もそうした過ちをくり返しつづけてきた報道機関の代表でもある。

NHK 平和アーカイブス:核・平和をめぐる動き

ここに「フクシマ」やチェルノブイリを紛れ込ませて、NHKはいったい何を言いたいのか。

”唯一の被爆国”を自称するのは愚かしい。しかし、百歩譲って、もし被爆国の国民を名乗るのであれば、善悪のスローガンではなく、放射線の知識ぐらい常識として話せるような日本人であって欲しい。ほんとうに必要なのは、平和教育という道徳や精神論でなく、放射線教育やエネルギー教育という具体論だ。日常の生き方に直結した教育だ。


補足追加:福島の事故を受けて教育指導要領が見直され、2012年度から中学校理科で放射線教育がほぼ30年ぶりに復活したそうだ。裏返せば、30年もの長いあいだ科学的な教育はされていなかったということ。まったく驚くべきことだね。とぎれた理由が何だったのか不明だが、ろくでもないものだったにちがいない。こどもたちに科学的な見方を教える必要はないと、いったい誰が言ったのか。それはともかく、わたし自身は中身をよく読んでいないが、以下の副読本が出されている。

参考:文部科学省・放射線等に関する副読本