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核のない暗黒世界 ・・・オバマ・プラハ演説の意味を考える [2009/8/10]

核廃絶のお祭りの季節がきた。

言うまでもなく、核武装論者はたんなる狂人だから論外というべきだろう。それなら、核廃絶論者はいったい何になるのか。
まず、現実を見ることからすべては始まる。

殺し合いをする生き物

1945年8月に2発の核兵器が使われた。それ以後、64年間一度も使われたことはない。1945年の以前に戦争のため死んだ人は地球上で何人いたか。そして、原爆後の64年間、地球上で戦争のために死んだ人は何人いたか。

>> 世界の主な戦争および大規模武力紛争の犠牲者数

1945年から後、世界大戦が起きなくなったのは、大国が核兵器を持ったからであることは誰にも否定できないだろう。

1945年から後の戦争は、核兵器を持たない国同士の戦争か、あるいは核兵器を持つ国が持たない国に侵攻侵略していった戦争、もしくは内戦の3種類しかない。しかも、とうぜんのこと、核を持たない国はいわゆる通常兵器で殺し合いをした。核を持つ国も核兵器を使わずに(使えずに)非核兵器で相手を殺した。核を持たない国が核保有国に侵攻していった例はない。あたりまえだね。つまり、どんな場合でも、核を持たない国々が戦場になった。核を持つ国が空爆された例はない * 。

* 注:特殊例外として、湾岸戦争時にイラクがイスラエルにスカッド・ミサイルを撃ち込もうとしたことがあるが、イスラエルは「公式」には核保有国でない。
* 注2:アルゼンチンとイギリス間の南米フォークランド(マルビナス)諸島領有をめぐる戦争もあったが、これも英国本土に対する戦争行為ではまったくない。また、中国とベトナムとの国境でも一時、軍事衝突があったが、これも戦争まで発展することはなかった。

核兵器が非人道的兵器であって、その他の兵器は人道的な兵器だった、とでも言うのだろうか。第一次世界大戦や広島長崎以外の第二次世界大戦の死者は人道的に殺されたとでも言うのだろうか。朝鮮戦争、ベトナム戦争の死者よりも広島長崎の死者の命ほうが尊かった、とでも言うのだろうか。イラクやアフガニスタンで殺された人は普通の兵器で殺されたのだから、珍しくも何ともないとでも言うのだろうか。

ようするに、核がないと人間はどこまでも殺し合いをする生き物だという現実を、核廃絶論者は否定できるのか。

主な都市爆撃による犠牲者(前田哲男著『戦略爆撃の思想』などによる)

この100年間で通常兵器の戦争によって殺された人間は1億人にもなる。そして、この今でも、世界のどこかで普通の爆弾をつかって人が人を殺している。アフガニスタンへ行って「核廃絶」を叫ぶことを想像してもらいたい。パレスチナへ行って「核なき世界」を叫ぶことを想像してもらいたい。

20世紀の過去も、21世紀の今日も、世界で人が核兵器によって殺される確率は限りなくゼロに近い。いっぽうで通常兵器で殺される確率はけた違いに大きい。しかも、戦争で殺される確率は、核兵器を持つ国の国民では限りなくゼロに近く、核兵器を持たない国の国民が殺される確率のほうが圧倒的に高い。これは、決定的な現実だ。世界全体で、過去100年の戦争犠牲者の国籍と顔と名前をひとりひとり思い出してもらいたい。あまりに多すぎて気が遠くなるだろう。そのうち核以外の死者が99パーセント以上を占める。

現実を見れば見るほど、人は口が重くなるだろう。核廃絶という言葉が出なくなるだろう。核は水平拡散した方が世界から戦争の危険を減らす。戦争犠牲者を減らす。これが、真実だ。

核兵器の話は気が重くなるだけで、何の御利益もない。たんじゅんに「核廃絶!」と叫んでいるのが一番楽ちんだ。

オバマ、「核のない世界」を語る

バラク・オバマは、チェコのプラハで、「核のない世界」を語った。

>> オバマ米国大統領のプラハ演説/2009年4月5日(在日米国大使館仮訳)

なぜ、プラハで、なのか。なぜ広島や長崎でなかったのか。そのことを日本人はよくよく考えた方がいい。オバマ演説にはその答えがある。

オバマ演説で注目されたのは、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国」として「行動する道義的責任がある」というくだりだった。

読み間違っていけないのは、これから行動する道義的責任があるということであって、過去に核を使用したことの道義的責任があると言っているのではないことだ。オバマを含めてアメリカ大統領がもし広島長崎に行けば、過去の核兵器使用の「道義的責任」について何か言わねばならなくなる。それは出来ない。下手な発言をすれば、ブッシュがバグダッドで顔に靴を投げつけられたように、オバマも下駄を投げつけられるだろう。

オバマ演説の骨子は、

  1. あらたな米ロ核兵器削減交渉の開始と、他の核兵器国にたいする削減参加の呼びかけ
  2. 核不拡散条約を強化(核エネルギーの平和利用促進と規則違反国への制裁)=北朝鮮制裁
  3. イランの核兵器製造の阻止と、イランの脅威に対するミサイル防衛システムをチェコ、ポーランド等に配備
  4. テロリストが核兵器、核物質を入手できなくするための措置

見ての通り、プラハで核兵器について演説したのは、チェコ国内へのミサイル防衛システムの配備を宣伝するのが大きな目的だったからだ。 Copyright(C) Watanabe Tatsuro

補足:この演説の数ヶ月後、オバマはロシアとの新条約交渉と引き替えにチェコ配備を中止した。プラハでの演説がいかに戦術的な計算に基づいてなされたかがこれで分かるだろう。イランの脅威という名目の陰で、じっさいはロシアを強く意識したプラハ演説だったのだ。

オバマ演説の主眼は、「核のない世界を目指す」という美辞麗句にあるのではない。具体的に何をするかだ。しかし、内容として特に目新しいものは何もなかった。今まで言われてきたことの焼き直しだけだ。

よく知られているように、オバマ演説の元原稿ともいえるのが、キッシンジャー元国務長官たちの論文だ。

>> 『核のない世界へ』(2007年1月4日)「ウォールストリート・ジャーナル」

オバマのプラハ演説はこれらのパクリだから、目新しさがあるはずもない。

「核廃絶」は大量殺人を正当化する

オバマはアメリカ合衆国の大統領だ。とうぜんながら、彼の演説はすべてアメリカ国民の利益、アメリカの国益の上に語られている。全世界のことを語るときも、人類全体のことを語るときも、アメリカの国益に反することばが語られることは絶対にない。かんたんに言って、アメリカ大統領が口にする言葉は、アメリカは世界でいちばん正しい国である、世界には悪い国がある、世界には悪いテロリストがいる、ゆえにアメリカは先頭に立って悪と戦う、という論法に基づいている。この基本論法はブッシュであろうとオバマであろうと、まったく同じだ。

核の脅威をもたらしているのは、イランや北朝鮮という悪の国家であり、アルカイダである、と断定する。アメリカ国民はテロリストの恐怖におびえている。核の脅威にさらされている。そこでは、まるでアメリカ国民が世界でいちばんの被害者、か弱く心優しい子羊であるかのようだ。世界の善意と正義をアメリカ大統領が代表しているかのようだ。自分たちは邪悪なものの最大の被害者だ、と思わせるやり方は、大衆を扇動するペテン師がよく使う手だ。「抵抗勢力」をでっちあげた小泉劇場を思い出せばいい。ブッシュの「テロとの戦い」を思い出せばいい。ヒトラーの「わが闘争」を思い出せばいい。

そういえば、自民公明政権は、イラク戦争支持についてとうとう一度も反省謝罪しないままで終わるわけだね。サル以下のはずかしい政権だった。ありもしない大量破壊兵器が「ある」と言って、侵略戦争を始めたブッシュとチェイニー。それが、北朝鮮やイランを挑発することになった。核を持たないサダム・フセインのイラクに爆弾の雨が降った。こんにちの北朝鮮やイランの核開発をあおったのが、あのイラク侵攻だったことは明らかだ。核を持たない国はアメリカに攻撃されてぶっ壊されるという、現実をつきつけられたのだから。

コイズミ政権のイラク戦争支持。あの行動で、自公政権は最大級の国益損失を日本人にもたらした。開戦直前の国連安保理。大島国連大使の露骨な従米演説を思い出す。あのとき、IAEA(国際原子力機関)事務局長を務めたことのある国際連合監視検証査察委員会委員長のハンス・ブリックスは、イラクの原子力施設の査察継続を主張していた。しかし、軍事行動を避けようとするこうした国際的な動きを無視した日本政府は、アメリカの独断的なイラク侵略を断固支持する側にまわった。いわば、IAEAにとっては裏切り者なのだよ、日本は。それを忘れるな。(『IAEA事務局長選挙で見えた「唯一の被爆国」の信用度』[2009/3/28] より)

ブッシュ政権はサダムが核を持っていないことを知っていながら、核を隠しているという大嘘のプロパガンダを世界に展開した。ほんとうに核を持っている国をアメリカがどうして攻撃できるのか。ほんとうに持っているなら攻撃できなかっただろう。そんな簡単な疑問さえ分からない日本の偉い方々が、アメリカのイラク戦争を断固支持した。「核を拡散させない」という大義名分でアメリカとその同盟国はイラクに侵攻した。イラク人を何万人と殺した。「核廃絶」は大量殺人を正当化するという、いい例だ。じつに出来の悪いブラックユーモア。

核による脅しが通用しなくなった

さて、オバマ演説の本質は何か。

国際社会にあって核による脅しが通用しづらくなったことの反映がオバマ演説だ。核大国の世界支配がほころびはじめていることの危機感が、彼らアメリカ人たちの似非「核廃絶」運動の出発点であり原動力になっている。

第一に、核兵器国がだんだん増えていくことで核大国が非核保有国に軍事的圧力をかけにくくなったこと。つまり核大国としての既得権益がうしなわれつつあること。

 → オバマ演説の骨子にある第2、第3項目がこれに基づく政策

第二に、マンハッタンの旅客機テロのように国家的でない攻撃をアメリカが恐れるようになったこと。非国家勢力いわゆる国家を持たないテロ集団による攻撃にたいしては、核の脅しがまったく通用しない。

 → オバマ演説骨子の第4がこれに基づく政策
Copyright(C) Watanabe Tatsuro

オバマ演説は「核廃絶」演説ではない。「核管理」演説だ。このことを全然分かってない人たちが、オバマ、オバマと騒いだ。核兵器の「廃絶」と「管理」とは同じことではない。ぜんぜん別のことだ。なくすことと、あるものの管理を強化することは、別のことだ。トラを殺してしまうことと、トラを頑丈な檻に入れることは別のことだ。そして、世界の核をコントロールする既得権力をぜったいに失うわけにいかない、というアメリカの強い意志のあらわれたのがプラハ演説なのだ。野蛮人に核を渡してはいけない、核を持つにふさわしいのは我々神の子の住まう国のみだ。アメリカ大統領は言下にこう言っている。

いうまでもなく、広島長崎以降、アメリカは核兵器以外の兵器をとことん高性能化してきた。実戦で使えない核兵器に代わって、どこでも自由に使える殺傷兵器の見事なラインアップだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て兵器はどんどん進化した。それら最新の非核兵器群を投入したのがイラク戦争だった。実戦で人を殺すのに核兵器はいらない。だから、アメリカもロシアも、核兵器を削減してもちっとも困ることはない。心配いらない。核大国を名乗れる程度の核を持っていさえすればいい。

こういう真の意味がこめられたオバマ演説を、日本で高く評価する人たちはいったいどういうアタマをしているのか。日本では、なぜ、どこから、オバマ万歳が出てくるのか。まったく理解できない。小泉劇場を愛した国民は、オバマ劇場に拍手を送るのも大好きな国民といえるかもしれない。

「唯一の被爆国」という自己満足

わたしは前から「"唯一の被爆国"なんてものはない」と言ってきた。あるのは「唯一の核使用国」だけだ、と言ってきた。だから、オバマの口から「核を使用した唯一の国」という言葉が出たのは当たり前のことだと思う。

しかし、「唯一の被爆国」という日本語は世界ではまったく通用しない、自己満足だけの言葉だ。そんなものは、この世にありはしないからだ。いまでも、「唯一の被爆国として・・」という言葉を決まり文句のように使う日本人がそこいらじゅうにいるが、くだらない人間だ。60何年ものあいだ悲劇の被害国家をよく演じ続けていられるものだ、と感心して、呆れる。

いつまでも被害者でいたい、という心理。つまり、被害者には何の責任も問われない。無責任でいられる。そういう安心感。核を持たず作らず持ち込ませず、という、偽装された非核武装国家ニッポン。実質的にアメリカの核兵器に依存していながら、自分は手を汚さずに非核三原則とうそぶいていられる安直さ。この ぬくぬくした布団から日本は出なくてもいいのだ。

在日米軍基地は世界最大級の基地群。これは東アジアの最大の軍事拠点だ。アメリカの強大な核軍事力の傘のしたで、脳天気に平和国家を演じてきたのが日本だった。その自覚がないのは当の日本人だけではないか。だから北朝鮮は脅威だ脅威だと騒ぎ立てる。自分たちが相手に与えている脅威のことはまるで意識がない。日本の空を覆いつくしている「核の傘」。見上げたら、見えませんかね。

最後に。

核廃絶はできる。話は簡単だ。アメリカ合衆国が核を放棄することを開始すればいい。他の国が核武装していようと何だろうと、アメリカが単独ででも核兵器を全廃すればいい。じつに簡単。イエス・ユー・キャン。それ以外にはない。オバマも、他の国に義務だの規則だの制裁だのを押しつける前に、まず自分の国が過去を反省して、間違いがあれば謝罪したらどうなのか。

東洋には「まず隗より始めよ」という故事ことわざがある。これをバラク・オバマに捧げよう。



補足:「核のない世界」の逆説

逆説的に考えよう。核兵器保有国はもっと多い方がよい。核はもっと水平拡散して核保有国が増える必要がある。そのことによって、現代世界の核保有国は既得権益をうしなう。核保有の戦略的価値は相対的に低下する。そこで初めて、核廃絶のための協議をはじめる国際的な前提条件がそろうのだ。そうでなければ、つまり少数の国家による核保有の既得権益が守られたままの世界に、核廃絶の日はぜったいに訪れない。