脱原発神話 第 X 章 ・・・わたし自身の立ち位置 [2012/8/13] [2012/9/13,19 補足追加]

そろそろ書くネタが乏しくなってきた。まあ、書きたいことはだいたい書いたつもりだが、また新しい材料が出てくるかもしれない。

それはともかく、ここら辺で、そもそもわたしが原子力と関わるようになった理由を書かねばならない。そして原爆のことも。(とりあえず、まだメモ段階。と言いつつ後回し。)


この国の風に混じるにおい

去年からなぜわたしが脱原発や反原発を唱える日本人に敵意をもつようになったか、ここのところ、ずっとそれを考えていた。いったい、なぜなのだろうと。3月11日を境にして、わたしは急激に敵意を覚えるように変わった。とつぜん湧いて出てきたかのように、騒ぎ立てる人たちを見て気分が悪くなった。それは、かれらにイヤなにおいを感じたからだ。それが結論。においだよな。表現のしようがない微かな。自分のにおいは自分には分からない。かれらも自分が発しているにおいに気づかないだろう。

善良な市民として、人間として原発を無くすのは当然だという。福島を経験した今、脱原発はぜったいの正義だという。それ以外にはないのだと。

わたしは、そういう人こそがじつは差別の主役だったり、偏見にまみれていたり、排他的だったり、いちばん怖い存在にたちまち変身しそうな気がする。なぜなら、自分はいつも被害者だと思っているから。自分に非はないと思っているから。自分は汚れたくないと思っているから。魔女を見つけ出して火あぶりにしたがっているから。悪いのはヤツラだと叫んでいるから。自分はか弱く清らかでいい人だと言っているから。わたしは、そういう人がいちばん恐ろしい。

日本経済新聞の「こどもニュース」に以下のような記事が載っている(2011年6月27日付け)。

「風評被害」の加害者って誰?

「最近、よく『風評被害』っていう言葉を聞きますが、『被害』というなら加害者は誰なんでしょうか」。近所の大学生の疑問に、探偵の松田章司が首をかしげた。「確かによくわかりませんね」。小学生の伊野辺詩音と一緒に調査を始めた。

そして、いろいろな人に話を聞くと結論はこうだった。

「こうした状況は、買い手が正確な情報を得られるようになれば解決できます。食品の風評被害も、徹底した情報公開によって、消費者が安心できるようにすることが必要なのです」

「『風評被害』の犯人は『情報不足』だったのね」と詩音は納得。

これは一見もっともらしい解釈だ。けれども、ひとりの人間が自分で触れることのできる情報にはそもそも限度がある。もっと言えば、情報とか言われるようなものは、ふつうの暮らしのなかではほとんど意味を持っていない。どこに情報があるかさえ分からないし、何が重要な情報かさえ一般の人は判断できない。理解できない情報はただの騒音でしかない。それが現実というものだろう。冷静的確に情報を受け止める力がない人に情報をいくら垂れ流してみたところで効果はない。

それどころか、消化不良を起こして逆に不安を増幅したというのが今回の原発事故だったではないか。つぎつぎ流れてくるベクレルとかシーベルトとかいった科学的情報をすぐに取捨選択して理解できる人がこの世にどれだけいるというのか。人間、正しいかまちがっているかで情報を受け入れるのではなく、耳当たりが良いことば、単純で分かりやすいことばに飛びついてしまう。無数の情報のなかで、受け入れたいと思っていることしか受け入れない。

「徹底した情報公開」。そんなタテマエ論が現実の社会で通用するものなら、放射能の風評は最初から起きない。

風評被害は吹いている風が加害者ではない。原発が加害者ではもちろんない。人間のかたちをした加害者がどこかにいる。どこかにではなく、目の前にも隣にも、この世のそこら中にいる。みんな被害者ぶっているが、加害者は加害者だ。だからこそ、風評の風がそよそよと、いつまでも、日本全国あちこちで起きる。しかも、この加害者は誰からも責任を問われることがないので、毎日を優雅に暮らしている。風評で困る人が出ても、責任はみな東京電力に押しつけさえすればいいのだ。

ほんとうは自分が風評に加担しているのに、その風評被害を他人のせいにしている限り、風評は収まらない。しょせん人ごとだからだ。責任を感じなくていいからだ。被害者でもないくせに被害者ぶっている、自分には何の罪もないと言う、わたしは穢れなき子羊ですという顔をしている、もしくは自分こそ被害者の味方だと主張する、そういう人たちが風評という人災のほんとうの加害者だ。

ハッキリ言って、風評被害の損害賠償を東京電力にさせる、というのは根本的に誤っている。これは子供でも分かりそうな理屈なのだが、この国ではそうではない。被害が出て、商品が売れないとしたら、その補償は国家財政から負担するのがスジというものだ。なぜなら、福島近辺のたとえば農水産物が何の問題もないのに売れなくなったとすれば、その分、他の産地の農水産物が売れていることを意味する。観光地に人が来なくなったとすれば、他の地域の観光地が潤ったことを意味する(まあ、外国人が日本に来なくなった分は仕方ないけどね。)。つまるところ、他地域の人にとっては売り上げが増えたはずなのだ。もちろん薄く広くだろうが、もうかった。だから当然、日本人全体が風評被害の補償をみんなで負担すべき立場にある。ちがうかな?

論理的な考え方や科学的なデータに基づく思考ができない人たちが、風評の風をあおりつづけた主役だ。そういう意味で、論理性も科学性もないがしろにして被害感情だけを肥大化させて動く人たちが、脱原発のひとたちの人物像とダブってくる。わたしは、そう思う。彼らこそ、不安というあいまいな空気をふくらませ、漠然とした被害感情に訴えながら、日本全国に差別と偏見をまき散らしてきた。ある者は意識的に、ほとんどの人は善意で。まったく真面目に。どこか喜々として唱えている。あの福島を見ろ、と指さしながら。

漠然とした、あいまいな被害感情に流され動かされる社会は恐ろしい。世論調査では7〜8割が脱原発だという。ある日を境に風向きがガラリと変わる、そのことの不気味さ。悪いのはヤツラだ、自分たちは被害者だ、と。それが、わたしの言う「イヤなにおい」につながっている。この国を吹く風と空気に混じる微かなにおい。

わたし自身の立ち位置

わたしは30年近く前に原子力とは縁が切れた。それ以来、原子力については事実上、浦島太郎。原子力についての興味も関心もなかった。もともと、わたしは原子力開発に批判的だったが、いわゆる原子力絶対反対ではない。やめたほうがいいかなあとは思っていたが、それは危険だからとか、悪いやつだからとか、そういう情緒的な理由からではない。原子力発電に「絶対安全」がないのは当たり前だが、同時に、「絶対危険」もまたない。みな相対的な問題だ。絶対危険と絶対安全のあいだにはグラデーションがある。それがこの世というものだろう。人間はその間のどこかで折り合いをつける。折り合いがつけられない人のことを幼児と言う。この世が幼児だけの「純粋な世界」だったなら、この世は明日には消滅するだろう。

ダメだダメだと言うだけなら誰でもできる。原子力にはダメと言うための材料がゴロゴロしている。世の中の反原発主義者はそういう原子力の持つ負の要素を攻撃すればいいので、あまり努力は必要でない。しかし、否定だけしていてもしょうがないのね、この世の中は。ものごとのもつマイナス要因を減らすにはどうしたらいいかとか、それに代わる別の具体性のある選択肢を正しく提示するとか、それ抜きの主張に説得力はないし、現実には何の役にもたたない。あるものの否定と攻撃、それはオモチャ売り場でだだをこねている子供と同じだ。

わたしが原子力問題でいちばん重視していたのは核燃料サイクルだった。使用済み核燃料の再処理と燃料の再利用だった。しかも問題視していたのは安全性ではなくて、その経済的意味の方だった。かんたんに言ってしまうと、核燃料サイクルは国民経済的にあまりにも巨大な負担をもたらす。その一点。だから、しいて言えば、わたしは原子力を進めるというならリサイクルは止めてあくまでもワンス・スルーの、再処理はしない方向を選ぶべきだと考えていた。それは今でも基本的に変わらない。

1984年に『原子力王国の黄昏』で最終章に書いたとおり、21世紀には、太陽光発電が日本の電力需給構造つまり9電力会社の地域独占体制すら揺るがす時代が来るだろう、と、かつてわたしは想像していた。じつはあの本を書いているとき感じていたのは、原子力に未来がないとするならばそれに代わる未来の「希望」が何か無いとまずいなあ、ということだった。だから、最後の章に無理矢理、太陽のことを書いた。そう、あれはほとんど無理矢理そういうまとめに持って行くしかなかった。明るい夢として。それは、ことば通りの意味で希望的観測、夢にすぎないものだったが。

あれから30年近く経って、今、エネルギー開発の歴史と現状をふまえてものごとを客観的に見ると、わたしの「希望」がいかに妄想に近いものだったかが分かる。そのことは、この『脱原発神話』第1章、第2章あたりにも書いたような事実に基づいている。夢のような太陽や風力ほかの小規模分散電源による脱原発は、わたしにとっては30年前に終わった話なのだ。それを今ごろ主張する人がこの1年でどっと湧いて出てきたのを見ると、あんぐりしてしまう。かなりズレてんじゃないのと感じてしまう。時代錯誤だと思う。実質的に原子力を止めるには、化石燃料の消費を大幅に増やすしか方法はない。したがって、脱原発を進めれば、ほぼ完全に「化石燃料依存ニッポン」ができるだろう。

リンゴ産地の消滅

しかし、温室効果ガス排出の削減という大目標はいったいどこに消えてしまったのだろう。ふつうの人が日常生活の中でガソリンやガスの消費を削減していくのはかなりきつい。電気自動車や家庭内の全電化といった方法も、けっきょくどういう種類の発電施設に頼るかを抜きには考えられない話だ。どうしても、大量に炭酸ガスを発生放出している電力会社に脱化石燃料をお願いすることになるのではないか。ということで、とどのつまり電力会社になるべく多く原子力を活用してもらえないか、という最初のスタート地点に戻ってしまう。

我が家はリンゴとサクランボを作る農家なので、毎日の天気が生活に直結している。気象が変われば致命的な影響を受ける。リンゴ産地が暑くなればろくなリンゴはできなくなる。ミカンかマンゴーでも作るのか。温暖化は、ほぼ間違いなく伝染病や害虫の大発生をもたらす。植物も昆虫も細菌微生物も、気候には敏感だ。人間のようにエアコン使ったり、我慢したりはしてくれない。

一年の気象サイクルと作業の進め方やその結果としての農作物の出来不出来を、過去の経験から比べていろいろ判断することも多い。わたしの個人的経験で言えば、農業を始めた1984年以降、2メートル超の大雪が3回あった。そのすべてが2001年以後のことだ。逆に記録的に少ない積雪は2007年の30センチがあった。1メートルから1.5メートルが平年の積雪深だからこの少なさは異常だった。夏の暑さは記録を取っていないのでハッキリ言えないが、全国の一般的な傾向でも、記録的猛暑は今世紀に入ってから頻発しているはずだ。つまり、夏も冬も気候のぶれが大きくなっているように感じる。「記録的大雨」や竜巻・突風の頻発も気にかかる。毎年のように犠牲者もでている。

参考:気象庁地球環境情報 http://www.data.kishou.go.jp/climate/index.html

たんに夏暑くなるという話でないところが大きい。日本海の海水温が高くなると冬はドカ雪をもたらす。日本近海の海水温が高いと台風が猛烈に発達したまま上陸する。それはメキシコ湾の海水温がハリケーンを巨大化させるのと同じだ。ハリケーン・カトリーナ Wikipedia。都会生活者はさほど感じないかもしれないが、気象の変化はじつに恐ろしい。日々の暮らしを左右し、人の生命を翻弄する。

ゆでガエル

地球温暖化と炭酸ガスの放出のあいだに直接の因果関係はない、という主張があることも知っている。太陽黒点がどうのこうのとかも知っている。しかし、脱原発で起きてくる炭酸ガス放出量の増加は半端なものではない。放出した炭酸ガスは放出しっぱなし。未来世代への贈り物。これは日本だけの問題ではなくて、中国、インドをはじめとする国々のこれからのエネルギー消費増大を見込んだとき、これらの国々が原子力なしでやっていくことは可能なのか、ということだ。彼らにとって「原発ゼロ」などという選択肢は考えられないだろう。日本がアジアでひとり「原発ゼロ」と叫んで得意になっても、世界から原子力がなくなることはない。そういう現実の世界で、日本が化石燃料依存に逆戻りすることがそんなに素晴らしいことなのだろうか。

世界の新興国がエネルギー消費を増やしていく権利を認めること、それは先進国としての倫理的な義務でもある。中国やインドのエネルギー事情を見れば明らかなとおり、こういう新興国の電力をまかなうために厖大な化石燃料が消費されている。しかも急激な増え方でだ。その地球環境への恐るべき影響を思うと、気が遠くなってくるだろう。ここでこれらの国の原子力開発を否定したらどうなるか。化石燃料の消費に歯止めをかけなくなったら、どんな事態になるのか。

参考:気象庁:気候変動監視レポート2011・温室効果ガスの変動

ここで敢えて言っておこう。つまり原発推進派ふうに(笑)。新興国の原子力開発に日本こそ深く関わっていくべきだ。事故を経験したことが必ず役にたつだろう。それで商売としての利益を得ることはもちろんだが、日本にとってそれ以上のメリットがある。どう見てもアジアで増やさざるを得ない原子力発電の、安全確保への技術協力をとおしてひいては世界のエネルギー需給の安定に貢献すること、地球的な環境の安全保障に貢献すること、それだ。日本が脱原発を叫んでひとり縮こまっていっても、世界への貢献は何もない。引きこもりは有害でさえある。

いくら再生可能な「自然エネルギー」といっても、自然環境の改変無しにはエネルギーを得られない。日本国内、いたるところ、山の上や海上に風力発電が林立する。野原が太陽光発電所のパネルで覆いつくされる。つまりエネルギーを取り出そうとすることで人工物を自然界の真ん中に持ち込むことになる。風力も太陽も地熱も、エネルギー密度が低いから多数の施設を広い面積に持ち込まねばならない。日本の山々や海岸に発電施設が立ち並んだり送電鉄塔、送電線が張り巡らされたりする。何かぞっとするような光景だ。

原発はもし過酷な大事故が起きれば、周辺環境に放射性物質を放出する。世の中は大騒ぎをする。放射能は怖い!と。一方で、火力発電は事故が起きなくてもつねに二酸化炭素を環境放出しつづける。周辺環境ではなく地球環境に影響する。いつも静かに垂れ流しているので、世の中は大騒ぎしない。ゆでガエル状態の日本だ。マスメディアが大騒ぎすることが重大問題で、騒がないことは問題そのものがないことにしてしまう。まるで朝三暮四のサルたちみたいだ。そういう目先のものしか見ない思考こそ、ほんとうに深刻な危機をやがてもたらすことだろう。いい気持ちでお湯につかっているうちに、気がついたら自分が「ゆでガエル」になっていた。

原発は何か起これば電力会社や"原子力ムラ"が悪いせいにできる。他方、石油、石炭、天然ガスの消費で生じる温室効果ガスは悪者が見つけにくい。なぜなら、あなた自身が悪者だからだ。あなた自身が毎日、このガスを大気に放出して暮らしている。二酸化炭素はそれ自体に毒性がないから危機意識が起きにくい。ちょっと暑くてもクールビズで我慢すればいいよ、程度かもしれない。しかし、世界規模の気象異変が起きていくとき、気象災害の直接の犠牲者はもちろん、農業生産が狂う結果おきる飢餓、そして世界各地の難民の発生、海面上昇で国が亡くなる国・・・。これらは新たな地域紛争、戦争のきっかけにさえなるだろう。人の殺し合いにまでつながっていく。「そんなの、知ったことじゃない。脱原発こそが人間の最高の正義だ」と言ってみようか。

こんなふうに考えてくると、わたしは、原子力エネルギーの利用を完全否定する立場にはとても立てない。実現性に欠けるきれい事を言う気にならない。大震災で福島第一はめちゃめちゃになった。その一方で、東北電力女川原発の2基、東京電力福島第二の4基が地震と巨大津波の危機を乗り越えた。福島第一でも5号、6号は無傷だった。この乗り越えた方の事実をもっともっと評価しなくてはいけない。マイナスとプラス両方の事実を同じ重みで見る。それが科学的精神、合理的思考、というものだろう。そのバランス感覚をまったく忘れてしまったように見える日本に、まともな未来があるのだろうか。

清く貧しく美しいアジアの小国

脱原発社会では、そこでまかなえる人口を今よりはるかに少なくすることが求められるだろう。まず経済成長が著しく困難になる。輸出産業の没落、海外脱出で貿易収支の赤字がとまらなくなる。化石燃料代金の支払い増大で国富は外国へ流出しつづける。太陽などの高コスト電源に投入できる資金が減っていく。社会保障制度もじり貧になる。科学技術の基盤も弱体化する。エネルギー制約が拡大する。こういった日本で、これまで同様に高齢福祉社会を維持するのはもはや不可能になる。高福祉社会の底が抜ける現実がせまってきつつある。あきらかに衰退への道が目の前にある。現在の人口が食っていけるだけの国力水準は急速に失われるだろう。

工業製品はもちろん農作物、食糧をふくめて、国内でつくるという時代は完全に終わりを告げる。もう、貯えたカネを消耗しながらモノを輸入する、没落貴族のような太宰治まがいの『斜陽国家』、『斜陽社会』になっていくしかないのかもしれない。暗い。

日本社会の衰退はもちろんある意味で避けられない必然なのだろうが、それでも衰退が時間をかけてくれば痛みはやわらげられる。急激に来れば、はげしい社会不安に陥るだろう。社会が制御不能の暴走をはじめるかも知れない。原子力利用の完全放棄はそのアクセルをぐぐっと踏む可能性がある。わたしは、それを恐れる。原発事故の可能性よりもそちらの方がよほど危険な結果を招くはずだ。頭でっかちな脱原発主義。科学的、経済的実現可能性の軽視。社会の混乱。カルト的集団の勢力拡大。かつてワイマール民主制のもとで、ナチスがロマン主義、田園への郷愁を心理的背景に台頭したことを思わないわけにいかない。もし運良くおだやかに、衰退国家への道が国民的に合意の上で進んでいくなら、誰も文句を言う筋合いではない。まずそんなに日本人すべてが、喜んで出家生活に入るような出来た人たちばかりだとすれば、結構なことだろう・・・。

原発を無くせば世の中が良くなる。本気でそんなことを信じているのだろうか。

とことん脱原発をやっていけば、日本は清く貧しく美しいアジアの小国になるのかもしれない。今の日本がそこへ行き着くまでには社会の不安定化、人間同士の淘汰、予測不能で長い混乱と暴力の時代をくぐりぬけることになるだろう。そのなかで、まさか自分が淘汰されて消滅させられる側だとは思っていないだろう、自分が生き残るために誰かを蹴落とす側になるとも思っていないだろう。脱原発を叫んでいる人たちは、一人としてそのどちらかに自分が入っているとは予想だにしていないだろう。

どんな善良な人々でも、得られるパイが少ない状態に追い込まれると、人を蹴落としてでも自分だけ生き残ろうとする。そこで倫理はかんたんに失われる。

その敗残兵の悲惨さから「餓島」と呼ばれたガダルカナル島攻防戦。太平洋戦争のターニングポイントとして戦史に残る惨敗を喫した日本軍は、島からの敗走を撤退と呼ばず「転進」と称した。後退を「進」という前向きの文字で表した。黒も白に言いくるめる帝国陸海軍だった。

ガダルカナル島撤収作業は、昭和18年2月1日、4日、7日の三次に分けて毎回駆逐艦20隻で実施され、陸軍9800名、海軍830名の撤収に成功した。ガダルカナル島に投入された将兵は、約3万2000人であったが、そのうち戦死は1万2500余人、戦傷死は1900人余、行方不明は2500人にのぼった。(『失敗の本質〜日本軍の組織論的研究〜』ダイヤモンド社刊より)

この撤退は、味方の兵の足を引っぱり味方の兵の頭を踏み台にする、我先の乗船だったと、おぞましい人間の本性だったと、わたしは当の現場にいたある将校からそう聞いた。「蜘蛛の糸」、まさに。21世紀の日本、窮乏衰退していく世の中がそうならないことだけを祈ろう。

わたしと原子力の関わりについて

さて、と。



 

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