脱原発神話 第4章 ・・・福島はなぜ「人災」に仕立て上げられたのか [2011/9/18]

この章は、東京電力擁護の章なので読みたくない方はご遠慮ください。もちろん東電に事故についての責任があることは明らかですが、アタマから犯罪人扱いしてバッシングするだけでは客観的、合理的な議論のさまたげになるだけだと思います。


今さら言ってもしようもない話なのだが、東京電力福島第一原子力発電所の事故を「人災」にしてしまったのが、最大の過ちだったと思う。過ちは意図的に作り上げられた。

ことばの大爆発

環境問題にリスク評価を導入して「環境リスク学」という分野を切り開いた第一人者・中西準子氏はこう書いている。(『環境リスク学』2004年日本評論社刊)

「思想派」と「事実派」とに仮に人を分けるとすれば、さしずめ私は「事実派」の末席をけがす人間だろう。思想を語る資格もないし、語る必要もないような気がする。

ファクト(事実)へのこだわり、これが私の35年に及ぶ大学での研究生活を支えた背骨のようなものです。それはたぶん、言葉への不信感、言葉の無力さ、思想というものへの強い不信感から来ていると思います。

原発事故は「事実」で示すのがむずかしい。なぜなら、一般の人は、発電所内部を見ることはできないし、水素爆発で建屋が吹き飛んだり自衛隊が放水する映像くらいしか、目にすることはできなかった。もちろん、広島や長崎とちがって死傷者がごろごろしているわけでもなかった。海に魚がプカプカ浮いたわけでもなかった。付近の住民のなかで、急性放射線障害で髪の毛が抜けたり下痢が止まらなかったり皮下出血をおこしたりという患者は出なかった。

しかも、原子炉内部の状態がじっさいにどうなっているかを、現場の発電所運転員も正確に把握できなかった。炉心溶融がおきたことは確実だったとしても、その証拠を事実として見せることはそもそもできない。状況証拠はあっても炉心そのものを見ることなど不可能だからだ。どうしても想像の範囲を超えられない。想像したことを事実として発表することは技術屋としてはできないだろう。それは、マスコミや野次馬がはやしたてる「事故隠し」とはぜんぜんちがう。

それから、放射線障害は高い線量を浴びたときに起きる急性障害をのぞけば、ほとんどあるかないか分からないほど低い確率の、しかも何年も何十年も先の可能性の話だった。枝野官房長官の「ただちに影響が出るレベルではない」というコメントが繰り返された。

だから、原発事故はほとんどがわずかな「事実」と膨大な「言葉」で伝えられた。格納容器とか炉心溶融とか再臨界とか言われても原子炉の構造すら想像がつかなかった。言葉の中には「科学的データ」ももちろん含まれていた。何ベクレルとか何シーベルトとかいうやつだ。聞いたこともない異国語と同じ言葉があふれかえることになった。テレビでも新聞でも。そこが、原子力発電所事故の核心だとわたしは思う。目に見えない放射性物質が問題だったのではなしに、目に見えない「言葉」こそが事故の核心だった。言葉が爆発して全国に飛散した。

言葉は見えないし、形も大きさもない。言葉は本当もありウソもあり、伝聞、想像、憶測、デマ、誇張、妄想、さまざまなものが満載されていた。それは超巨大なモンスターに成長した。言葉のモンスターは二つ生まれた。ひとつは「事故の原因とその責任」というモンスター。もうひとつは「放射能の健康影響」というモンスター。この章では事故の原因と責任について書く。

「貞観大津波」という虚構

事故原因のポイントは、大津波と全電源喪失だ。この2点は、想定外の大津波が来たので想定外の全電源喪失が起きて、その結果、原子炉が制御不能になったという流れにある。

全電源喪失は、ヽ杏電源(東北電力の送電)が大地震でストップ、内部の非常用電源が大津波で破壊 のふたつが同時に発生しために起きた。どちらか一方だけだったなら炉心冷却用電源は確保される。地域一帯が大停電してしまうような大地震と発電所の内部電源を破壊する巨大津波の両方が来なければ、全電源喪失は起きていない。これが事実だ。非常用の内部電源は2系統以上設置するよう義務づけられているが、そのすべてが津波で破壊された。

東京電力は過去にあった大津波の事例を無視して安全対策を怠ってきた、事故が発生してからそういう論調がずっと流されてきた。その西暦869年の貞観大地震が起きたとき、ほんとうに大津波は福島海岸にも押し寄せたのか。調べてみた。仙台平野の大津波が文献に記録されているという話は見つかるが、福島の海岸に大津波が来たという記録は見つからなかった。文献には記録がなくても、地質を調べれば津波の痕跡が見つかるかもしれない。しかし、ただ津波の痕跡があるというだけでは十分でない。数メートルでなく10数メートルの大津波がリアス式海岸でない福島の海岸線を襲った、という過去の事実が証拠立てられる必要がある。しかし、文献上も、地質学上も、それを見つけることはできなかった。

次の文献が今の時点でいちばん正確な事実を示しているだろう。
貞観地震に関する成果報告,報道等(産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター)
>> http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/press.html

追加補足資料:女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策(東北電力) ここでは仙台平野の津波高さについて貞観津波は2.5〜3メートル、慶長津波は6〜8メートルとしている。

貞観大地震を無視した東京電力、というストーリーは以上の事実によって成り立たない。今回の津波は有史以来、日本人が経験したことのない最大規模のものだった。千年に一度の大震災どころか、数千年に一度あるいはそれ以上の数万年に一度の大津波だった可能性がつよい。しかし、この国では事実を事実として客観的に見ようという意識はないらしい。マスメディアは、意図的に、「想定しなかったのは過失」「歴史を無視した犯罪」を言うために、1000年ちょっと前の大地震を誇張して報道した。事実の一部だけをとりあげて他を捨ててしまうのは、科学的精神ではない。こうして、原発事故はじゅうぶん予期できたのに対策を怠った人災、になった。予期できない天災だったという声を完全に封じ込めた。

事実をちゃんと検証しないまま、誰かを悪人に祭り上げて責任は全部そっちにあったことにして一件落着、というストーリーは日本でかつて大々的に展開されたことがある。もっとも典型的なのは大東亜戦争、そして8月15日を境にして逆さまになった世の中。とつぜん「平和国家」に生まれ変わったニッポンだった。悪はすべて軍部の暴走になすりつけられた。自分たちは東条にだまされた被害者、ということにした。

天災だろうと人災だろうとどっちでもいいじゃないか。事故が起きたことは起きたのだから、そこを問題にするのはおかしい。とにかく原発は危険だ、危険な原発を作った東京電力は許されない加害者だ、という考えもあるだろう。わたしは、それは事実をゆがめる行為、合理的な思考を捨てさる、虚構の始まりだと思う。悪魔の東京電力、無責任な東京電力、ウソつき東京電力、討つべし。世論はそっちへ傾いた。佐藤福島県知事は東京電力社長の面会申し込みを蹴り続け、怒りと憤り、と言って見せた。不安のはけ口を誰かに向けてうっぷんを晴らす。関東大震災ではそうして風評を立てて朝鮮人が虐殺された。

安全対策が結果として足りなかった。全電源喪失を防ぎきれなかった。それは事実だろう。ああしていれば、こうしていれば、と反省することは重要だ。技術屋なら他人に言われなくても反省する。けれども、誰が、東京電力を問答無用で非難することができるのだろうか。ある特定の感情が「世論」となって、時代の「空気」になって、何だかよく分からないままに世の中がそれに流されていくことの危険を、もっと自覚したほうがいいと思う。

人災にした方が断然、面白い

「人災」説を強力に広めたのはもちろん新聞・テレビだった。

マスコミは「人災」にしたほうがいくらでも面白おかしく記事が書ける。人間の話には尾ひれをつけやすい。これが天災なら記事にならない。相手が大自然ではケチのつけようがない。あるいは、原子力発電所の工学的問題なら世間の注目を得られない。科学や工学の話は地味で面白くない。だから、誰か悪いやつ、魔女狩りのための魔女が必要だった。いくら叩いても文句を言わないサンドバッグが必要だった。人災にすれば、とうぜん悪いやつ、加害者がそこにいることになる。そこには丁度うまい具合に世界の東京電力株式会社があった。願ってもない大物だ。そして、ひたすら加害者と被害者を対立させ、あおりたてることに新聞とテレビは熱中することになる。

けっきょく原発報道は政府・東電記者会見生中継だけで十分だっただろう。その一方で、新聞やテレビの記者やジャーナリストは、とつぜんの事故に面食らってふだんの不勉強を暴露した。そして自分たちの無知を東電広報の説明が悪いせいにした。情報を隠していると騒いだ。国内国外メディアを問わずそうだった。事故が発生して危険な状態が連続するなかで、原子力に不勉強なマスコミができたのは、原発事故の中身を冷静に的確に分析・報道することではなくて、事故をネタにして東電の本社・経営陣と菅政権・経済産業省原子力保安院をたたく、与太記事を書きまくることだった。マスコミは本質的にこういうのが大好きだ。事故収拾よりも事故拡大を歓迎した。お祭りワッショイ、だ。

こうして、バイアスのかかった報道をもとに「事故は人災」という空気が作られていった。

マスコミ人だけでなく文系人間は、事故を「人災」にしたくてしようがなかっただろう。工学的知識も放射線医学の知識もなくて、本来なら何も発言できないはずの人たちも大活躍した。言葉遊びが大好きだから、文学的な表現を使って原発事故を「悲劇」仕立てにするのも得意だし、事故を「事件」にしたてて犯人捜しをするのも文系人間がよくやることだ。もっと端的に言えば、人災にしたほうがゼニになった。物書きは原稿料が稼げた。もっともらしいことを書けば、事故対策には何の役にもたたない戯れ言でも通った。現場の工学的問題や医学疫学こそが重要なのに、机上の文学や社会学にしてしまった。悠長に、組織論のうんちくその他を語る評論家・学者も出た。

たとえば、『内田樹の研究室』2011年3月アーカイブ には福島に関連する文章がいくつかつづられている。(一つ一つリンクするのは面倒なのでアーカイブにまとめてリンクを張った。)まあ、ご高説には耳を傾けてみるべきだろう。わたしはあまり価値があるとは思わないが。この「文系人間の社会的責任」については、第5章で書く。

海外メディアがこう伝えている、IAEA 国際原子力機関がこう発表した、アメリカ原子力規制委員会 NRC が避難範囲をこう指示した、そういう報道もいっぱいあった。だから日本政府はおかしい、嘘をついているという話に持って行った「ジャーナリスト」も少なくなかった。たとえばネットでは有名な自由報道協会の上杉隆氏が典型。昔ニューヨークタイムズの仕事をしたことがあるのをいつも自慢している人だ。これもあまりに見慣れた舶来信仰の愚かしさだった。日本のジャーナリズムはこうなのだ。自分で価値判断ができず、外国人に判断してもらう。

それから、これもまた日本的なあまりに日本的な現象だが、カタカナ言葉が新聞紙面におどった。メルトダウン、チェルノブイリ、プルトニウム、レベル7・・分けの分からない言葉遊びに終始した。いかにもおどろおどろしい言葉。ふつうの人には想像できないような大事故のイメージを言葉がさらに膨らませることになった。

2万に上る犠牲者が出て家もビルも車も船も破壊しつくされたからといって、それを市町村や県の行政が間違っていたせいだと言って非難する人がいたらそれは頭がおかしい。南三陸町の骨だけになった防災ビルを指さして、町長の責任を問う人はいない。津波に流されてしまった人に向かって、こんなところに家を建てたあんたが悪いと言う人はいない。津波のすべてが想定の範囲内だったら、亡くなった人々は浮かばれないだろう。だれも想定しないことが起きたから、多くの人命が奪われた。

それに比べて福島原発は津波にめちゃめちゃにされながらも一人の犠牲者も出さないできた。もちろん、津波にのまれて若い運転員が二人亡くなった。が、それは津波の犠牲者であって原発の犠牲者ではない。放射線被曝が原因の死者は出なかった。この事実は大きい。犠牲者が出ない大事故。何か不思議な感覚にならないだろうか。後世の人はこの「大事故」をどういうふうに見るのだろうか。

吹っ飛んだ原子力損害賠償法

原子力事故の補償問題を語るなら、日本の原子力損害賠償制度をよく勉強してからにした方が良い。

原賠法第2章第3条

(無過失責任、責任の集中等)
第3条 原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係わる原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない。

ちょっと長くなるが、科学技術庁原子力局(当時)による「原子力事業者の免責事由」についての解説を引用する。『原子力損害賠償制度』(科学技術庁原子力局監修:1980年刊)より。

無過失責任を課し、さらに責任を排他的に集中しているので、原子力損害はすべて原子力事業者が賠償しなければならないことになり、危険責任の考え方にもとづく責任としては酷に過ぎる場合もあり得る。例えば、戦争のような状況の中で原子炉が破壊され、核分裂生成物が大気中に放出されたような場合に、その被害を原子力事業者に賠償させるのは行き過ぎであり、そもそも民事賠償の問題ではないと考えられる。(中略)

日本の歴史上あまり例のみられない大地震、大噴火、大風水災等をいう。例えば、関東大震災は巨大ではあっても異常に巨大なものとはいえず、これを相当程度上まわるものであることを要する。

社会的動乱も、質的、量的に異常に巨大な天災地変に相当する社会的事件であることを要する。戦争、海外からの武力攻撃、内乱等がこれに該当するが、局地的な暴動、蜂起等はこれに含まれないと考えられる。

これらの事由による原子力損害については、原子力事業者は免責となり、(中略)原子力損害について賠償を行う者が存在しないことになる。しかしながら、このような場合には、原子力損害というよりはむしろ社会的、国家的災害であり、政府が被害者の救助および被害の拡大の防止につとめるべきことは当然で、(後略)。

要するに基本は、過失があろうが無かろうが東京電力に損害賠償の全責任があるが、今回の場合は法制度的にいえば免責されると解釈するのが自然だった。最初から政府が責任をもつべきと考えるのが正しい解釈だっただろう。東日本大震災が「異常に巨大な天災」ではないとすれば、いったい異常に巨大な天災とはどういうものを指すのか。(関東大震災はマグニチュード7.9、今回の大震災は最大9.0規模の地震が連続して複数回起きた。津波の巨大さは改めて言うまでもない。)

しかし、菅政権は東京電力を免責しないことに決めた。異常な天災ではないことにした。いつでも起こるようなふつうの災害と解釈した。

マスコミがあおった東電バッシング。世の中の風、空気に政府は迎合した。これは菅直人という人物の特性とも絡んでいるだろう。故市川房枝が経団連に乗り込んだように、市川房枝を師とあおいでいる菅首相も怒鳴り込みパフォーマンスを実行した。菅直人氏は薬害エイズ事件の手柄話をもちだすことで知られている。自分はサラリーマンの息子、を強調する「市民派」の菅直人氏。尖閣諸島事件でも見られたが、責任を自分ではかぶらず他に、子分に転嫁する習性がみられる菅直人氏だった。

帝京大学医学部教授・安部英医師の裁判を記録した『薬害エイズ事件の真実』 を読むと、菅直人という人物像が見えてくる。厚生大臣として初入閣した菅直人氏が厚生省に乗り込んでいく逸話。東京電力本社に乗り込んでいった総理大臣菅直人の姿とかんぜんにダブるだろう。この本は冤罪というものが生まれる構図を考えるうえでなかなか面白いので、おすすめしておこう。また、櫻井よしこ、毎日新聞、NHKスペシャル、TBSニュース23、筑紫哲也・・。安部医師を極悪人に仕立て上げていったマスメディア、ジャーナリスト、世論の空気を作りだしたメディアを名指しでつよく批判している。

誰かを汚い側、自分をきれいな側に置いて世界を見るところから多くの不幸が始まる。犯人を引きずり出せムードがこの国で高まるとき、よく思い出すのが、かつて京都で起きた鳥インフルエンザ「事件」。感染の被害者だった養鶏農家の老夫婦をあたかも地域社会に悪をまき散らした犯罪者・加害者であるかのように「正義のマスコミ」が責め立てて、ついに自殺に追い込んだ。あの事件だ。養鶏家には自己弁護さえ許さないで、盗っ人猛々しいなどと平気で書きまくった。老夫婦寄り添っての首つりという痛ましさだった。

「世論」はどうも反対らしいが、少なくとも東京電力は津波の被災者だった。その被災者を加害者に仕立てていく世論は完成した。誰でも自由に叩いていいサンドバッグが出来た。さあ、叩け。

人災キャンペーンが完成したことで、損害はぜんぶ「犯罪者」の東京電力に賠償させるのが当たり前になった。いわば、津波の被災者にむかって、がれきはお前らが出したのだからがれきの受け入れ処理費用を払え、と言うようなものだ。がれきはお前らの家だったのだから処理費はお前らが払え、と言うようなものだ。東電ならカネはいくらでも出てきそうだ。この際、むしり取ってやれということになった。これが欧米の電力会社だったならば、こうも易々と事故の法的責任を認めただろうか。裁判にでも訴えて正当性、自己の無実を主張したのではないだろうか。今回の福島は、法的な判断よりも世論とか空気がものごとを決めてしまう、ニッポンという国の恐ろしさを示していた。それは、ニッポンという社会が法治国家ではなく非文明的なリンチ社会であることの露骨な証明でもあった。

【この項2012年6月追加補足】:

日本経済新聞:勝俣恒久・東京電力会長の退任インタビュー

(日経記者)東電は当初、3条ただし書きの免責条項を主張していましたが、徐々に触れなくなった印象があります。

(勝俣)「いや、何かあったわけじゃないけれど。弁護士さんたちも、基本的に3条ただし書きでやって(法的に)勝つ可能性はあると話していました。ただ、その裁判の相手が、国じゃなくて被災者になってしまう。例えば10万人の被災者の方がいたとして、何らかの格好で賠償を求めてくるのも裁判で扱って、そのときに『3条ただし書きだから我々は無罪。免責だよ』と主張して裁判をするとしましょう。そうすると、決着するには数年、どうやったって数年かかりますよね。要するに、被害を与えておいて、避難所にいる被災者の方相手に裁判して『我々は無罪だ』と主張することができるのか、と考えました」

(勝俣)「そういうことを続けてったら、社会的糾弾も激しいでしょ。銀行もカネ貸してくれなくなるかもしれない。だから、つぶれちゃうって可能性だって充分あるわけです」


発電所で最悪の事態が進んでいた3月14日深夜、東京電力の清水正孝社長は海江田経済産業相に「福島第一からの撤退」を口にしたという。翌日、東京電力本社に乗り込んだ菅首相は東京電力幹部を怒鳴りつけたという。「撤退したら東電は100パーセントつぶれるぞ」。「撤退は許さない」。これは首相が一般国民に向かって言うセリフでないことは誰でも分かるだろう。司令官が兵士に向かって言う種類の言葉、つまり命令であって、広く言えば国家公務員に対してだけ首相はそれは使っていい。一民間企業としての東京電力とその関連企業の役員・社員にむかって怒鳴りつけるような言葉ではない。むしろ首相のほうが東京電力に頼む場面だった。お願いする場面だった。

もし東京電力社長が「撤退させてくれ」と政府に申し入れたとしても、それをとがめる権利は総理大臣といえども無かった。ふつうの民間企業の社員が命がけで作業している。社員には逃げる権利はある。東電の社長は社員やメーカーなど関連企業の社員に生命の犠牲を強いることはできない。もし、首相がほんとうに「撤退は許さん」と言ったとすればそのほうが許されない暴言だったといえる。民主主義社会ではこうした専制君主のような言葉はみとめないものだろうからね。

補足1:池田信夫さんが東電は救済するなと言い続けている。池田信夫blog。その論理は分からなくもないが、げんざいまでの原子力損害賠償法制度と事故の原因とを合理的に考えた場合、東京電力にすべての責任をかぶせるのは正当とは考えない。わたしが書いてきたのは次元がちょっとちがう話。

補足2:枝野幸男官房長官は退任の際、菅直人首相の原発事故にたいする乱暴な姿勢を容認していたから、彼もまた暴君的な政治手法が好きなタイプなのだろう。どうも民主党には、政治家が官僚や民間人より上に立つことを政治主導と勘違いしている”ええかっこしい”の男が多いのではないか。いわゆる革命家気取りの・・。

信頼は失われたのか?

原発事故で日本の原子力の信頼は失われた、という声が当たり前のように聞こえる。けれども、わたしは逆だ。まったく反対に信頼感はむしろたかまった。圧倒的に、彼らは信頼できる。そう思うようになった。なぜなら、事故発生から数日間、わたしは最悪の事態が来るかも知れないと感じていたからだ。

これだけ広い範囲が汚染された、今が最悪の事態だろう、という意見が来るだろうが、最悪とはもっと凄まじい状態のことだ。圧力容器から核燃料が溶け出して、つづいて起こる水蒸気爆発で格納容器は大破壊、大気中に高く放射性物質が放出される。それも原子炉3基がつぎつぎと。かなりの上空まで吹き上げられた放射性物質が風に乗って広がる。核種も蒸気に解けやすいヨウ素やセシウムはもちろんだが、他の質量の重い核種もすべてが微粒子状になって放出されたことだろう。つまり放出量と放射能の質と広がり方は今の状態をはるかに上回っただろう。チェルノブイリ級の大放出かそれ以上になっただろう。

じっさい、もしそうなれば山形県内も安全圏とは言えなくなる可能性があった。福島サイトから我が家までは90キロ。まさかそこまでは行かないだろうとは思っていたものの、そういう事態が絶対に起きないと確信することはできなかった。それが、事故発生から数日間のわたしの本音だった。春先はたいてい西風が優先するからいい。しかし日本海を低気圧が進むようなときは南寄りの風が吹きあがってくる。万一そうなれば、いつでも家族を乗せてワゴン車で逃げること。ガソリンは十分あった。米沢から小国街道を抜けて新潟側へ脱出して、日本海側を西に向かって走るか・・・と。9割方は冗談、残り1割本気でそう考えていた。

しかし、格納容器は大破壊することもなく、周辺への放射性物質の放出は、一部の地域を除けばかなり限定的なものとなった。発電所の運転員、事故収束作業にあたってきた作業員の被曝には将来にわたって注意が必要だが、周辺住民の被曝はまったく問題になるレベルでなかった。大げさに騒ぐ人はいるが、ただの騒ぎ屋にすぎない。

いま、東京電力バッシングは当たり前のこの国で、東京電力擁護論を書いているのは気が滅入る。被害者のこと、被害の大きさを考えたことがあるのか、と非難されるかも知れない。けれども、この経過を見てきて、わたしは福島で働いた運転員、原子炉メーカー、現場作業員は全員、賞賛に値すると思うとだけは言っておきたい。「原発反対派」には失礼だが、原子力発電所の怖さを本当に知っているのは原発を作って運転している核心部の人たちだ、今、改めてそう思う。

事故後にマスメディアを中心に大々的にくり広げられた「人災」キャンペーンは、加害者と被害者を分けるために使われた。あいつが悪い奴だ、と決めつけるためにのみ使われた。加害者は法的な責任を負うことになる。法的責任を言いかえると、損害賠償責任のことだ。つまり、だれが金を払わねばならないかを決める儀式だった。「人災」論はそれ以上の意味を何も持たない。

しかし、事故の原因を科学的に検証するのが最も優先すべきで、それがあってこ今後の教訓と対策がありうる。そのばあい、事故が天災だったか人災だったかは二の次の問題にすぎない。というより、事故は人的要因と自然現象要因とが混ざり合って起きた。どちらか一方のことだけが原因なのではない。天災だったら何も対策を取らなくていいという話にはならないし、だれも責任がないという話にもならない。人災だったら大津波は事故原因と関係ないし自然現象を検証する必要もない、という話にはならない。これからのことを考えるうえでは、天災か人災かを決めることに価値はないのだ。

これまで見られたように過剰に人災論に流れると、ほんらい科学的合理的に検証していくべき原子力発電所事故の原因究明と対策がおざなりになってしまうだろう。今回の事故は、一次的には、全電源喪失を防げなかったことが最大のポイント。事故発生後の東京電力と政府の対応の問題は副次的な問題だ。つまり、今回の事故の本質は世間で騒がれてきた人災などではなく、あくまで工学的な問題として考えなければならない。まして「原子力村」の閉鎖性が事故を防げなかった原因だなどと言うのはとんちんかんも甚だしい。

「原子力村」ということばは、わたしが知る限り1970年代後半には使われていた。原子力船むつ騒動に象徴される社会的政治的混乱などもあった。ジャーナリズムにとって、原子力を一言でしかも皮肉をこめて批評するのに「原子力村」は便利なことばだった。村のなかでしか通用しないような、閉鎖的、排他的な理屈で原子力界は動いている。そう言って原子力関係者をさげすみたかったわけだ。

しかし、むしろそれはジャーナリスト自身の不勉強を示していただけのことだ。原子力は、他の産業と比べるとあまりに科学的、経済的、政治的、軍事的要素を複雑にかかえた巨大産業技術だったので、その全体を理解把握するにはたいへんな努力を必要とした。専門知識を何も身につけないまま、第三者が気まぐれに首を突っ込んで訳が分かる世界ではなかった。それを「村」のせいにしたのは、ジャーナリストの怠慢を責任転嫁しただけのことだった。

とにかく、福島では工学的問題こそが基本だ。技術屋ならば、まず前提条件を想定し、誤れば想定外だった点を認めて想定を立て直し、前に進む。それがなければ技術の進歩はない。でなければ、現在の文明社会はまったくありえなかっただろう。「想定外だった」と言うこと自体すら非難するのは、文系思考の傲慢さと無知以外の何ものでもない。あらゆることを想定した工学、そんなものがありえないことは、ちょっと考えれば中学生でも分かる。ある一定の条件を設定してそれに見合う材料、構造とシステムをつくりあげるのが工学の基本。それをはみ出して、雲をつかむような、想定外のことまで想定しろ、そんな無茶クチャな無限大の条件を要求するのはモノを作ったことがない人間の言うことだろう。

想定外のことが起きたのは、想定がまちがっていたからだ。それは工学の問題だ。倫理の問題ではない。倫理のまな板に載せてあれこれ非難すべき問題ではなく、どこまでも工学のテーブルに載せて評価、分析、反省、対応するべきものだ。

にもかかわらず、3月11日以後の日本では極端なゼロリスク絶対主義が正義になった。あらゆることを想定しないと許されないということになった。すべてが100パーセントでないとダメになった。そんな科学や工学技術がどこにあるのだろうか。常軌を逸しているとしか言いようがない。

参考までに、大前研一さんの分析と提案を紹介しておく。若干、極論の傾向はあると思う(絶対安全論に陥っている)が、考え方としてはその通りだろう。
>> 原発の再稼働を考える――「福島第一の教訓」が盛り込まれていないストレステストではダメだ

べつに原子力事故に限らない話だが、これはダイナミックな問題として考えて、ダイナミックに対処していくべき問題だ。安全か危険かのどちらか一つを選ぶような、スタティックな思考停止こそ最悪の選択だ。しかし極論から極論へ。「絶対」を求める原発安全神話の裏返しにすぎない原発ゼロ社会神話が、新しい宗教のようにある種の人たちの熱狂的な信仰を集めはじめている。



補足的追加:参考資料以下は大前研一さんをリーダーとする民間グループによる報告書(10月28日)。事故をあくまで工学的な視点を中心にして総括、対策を提案している。いわゆる人災論に偏らないで具体的な提案をしている点は高く評価するべきだろう。
報告書「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」




 

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