脱原発神話 第8章 ユートピア / 科学から空想へ(3) ・・・ランボオ、宮沢賢治 [2012/4/22]

こんなところでグダグダと原子力を論じていても無意味、という思いがいつも浮かんでくる。まあ、ただの自己満足なのは確か。本当は、養老孟司先生の『バカの壁』にひとり、落書きしているような気分なのだ。
なぜここでランボオや宮沢賢治なのか? それがわたしの原発問題へのアプローチだからだ。それだけのこと。

ランボオは「言葉の虚偽」と訣別した

前章で、宮沢賢治は農業で暮らしていこうと考えていたわけではない、と書いた。これには反論があるかも知れない。花巻農学校の教師を辞めてじぶんで耕作を始めた。農民同志をあつめた羅須地人協会をつくって農業技術の指導や文化の啓蒙活動を起こそうとした。肥料の設計や病害対策に東奔西走した・・・ではないかと。わたしに言わせれば、それは農民としての生き方とは似て非なるものだった。

農業はまちがいなくリアリズムだ。何ならクソを頭につけてもいい。いわゆる有機ね(笑)。リアリズムは持続する必要がある。一発芸は必要ない。まさしく一年一年が植物と季節のリサイクル、その繰り返し。たとえ平凡、単調だろうと自分で食っていくために人は働く。それが生業(なりわい)というものだ。宮沢賢治のそれはあえて言えば詩的な農業、または倫理的な農業だっただろう。もちろん彼は、あたらしい科学的な考えを農業に取り入れることに積極的だったという意味で、たんなる空想的な農業を思い描いていたわけではない。しかし、どこか理想主義的で、ユートピア風で、まったく図々しさ、しぶとさに欠ける農業だったようにしか見えない。

吉本鰐世蓮惶楝賢治』のなかで、賢治の手紙や作品を読み解きながらつぎのように書いている。

宮沢賢治にいちばん影響をあたえ、生涯を統御したのは、日蓮と日蓮をとおしてつかまれた法華経の理念だった。まずはじめに田中智学の日蓮宗の改革運動にふれて、国柱会をとおして解釈された日蓮の思想と法華経に憑かれていった。のちには田中智学の日蓮主義をとおすのをやめて、じかに日蓮をとおして法華経の理念を体現するモチーフに移ったとおもえる。そしていちばんおわりには、じかに法華経の理念をじぶんでこなす場所にでてゆく。それをかれは宗教と科学とが一致できる場所のようにかんがえた。

グスコーブドリや銀河鉄道、賢治が書いた作品の根底を流れるといわれる「自己犠牲」のこころ。人のために働くのはけっこうだが、すぐに身体をこわしてしまうような生き方は農業とは言わない。宮沢賢治はどこまで行っても詩人であって、詩人でしかなかった。詩人の農業が挫折するのは、冷たい言い方だが当たり前なのだ。

念のため繰りかえしておくけど、宮沢賢治は文学的には永遠の天才だとわたしは思っている。詩をのぞいてわたしから見た最高傑作は文句なしに『なめとこ山の熊』。グスコーブドリや銀河のような自己犠牲もの、抹香臭いもの、お説教っぽい話はつまらない。グスコーブドリはあの詩情のこぼれるような前半にくらべて後半の安っぽさは何だろう。あまりにマンガチックな展開に失望させられたものだった。(これは余談です。)

ランボオは違っていた。アルチュール・ランボオは、天才詩人としてではなくアデン・アラビアの商人として死んだ。詩をすべて捨てて、ヨーロッパを歩き回って、生きて、最後はただの商人として死んだ。1891年37歳。小林秀雄はこう書いている。ランボオ『地獄の季節』 訳者後記より。

一八八六年の一月、タジュラーで隊商を編成し、アビシニヤの奥地に行こうとしているランボオの、家族宛の手紙のなかにこんな文句がある、「人生は辛い辛いといつも繰りかえしているような連中は、この辺に来て、しばらく暮らしてみるがいいのだ。哲学を学ぶためにね」 (中略)

ともあれ、書簡に現れた事実と書簡の文体とは、言葉の虚偽に別れ、「ざらざらした現実」(la realite rugueuse)を抱きしめる事だけが自分に残されたと信じた人間のものである事を、明らかに示している。

ランボオが訣別した「言葉の虚偽」。宮沢賢治はそうでなかった。農民の芸術生活にもこだわった。死ぬまで詩人、文学者としてのじぶんを手放さなかった。それ以外の人生はなかった。奇しくもランボオと同じ37歳で生涯を終えたが、ランボオとはまったく対照的に、終生、文学から離れることはできなかった。彼の手帳に書き留められた『雨ニモマケズ』は宮沢賢治の、ついにほんとうの「農民」になりきれなかった自分自身へのレクイエムだ、わたしはそう思う。『マケズ』は、負けないぞという意志の表れでなく、もはや「ざらざらした現実」に負けてしまった自分への切ない鎮魂歌だ。

宮沢賢治の反原発

ここまで書いてきて、さてと、買ってあった高木仁三郎著『宮澤賢治をめぐる冒険』ざっと読み通してみた。高木さんは反原発運動のシンボル的存在の核科学者だった。2000年に亡くなったが、多くの著書があるので読んだ人も少なくないだろう。反原発の必読書にかならず1冊は入っているだろう。

彼は、『雨ニモマケズ』の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」を批判する中村稔氏のことば(1955年)を引用しながら、賢治を擁護してこう語っている。

中村氏はこの二行は、羅須地人協会の理想主義の敗北宣言と決めつけます。

私は、これは違う、まるっきり違うと思うのです。たしかに、憂悶と悔恨はあったでしょう。しかし、敗北感とか「羅須地人協会からの全面退却」というのとはまったく違う、と私は思うのです。

高木氏の科学者・宮沢賢治にたいする解釈、つよい思い入れは、いかにも市民科学者を自称する反原発の論理的、思想的指導者らしい。しかし、どう弁護しようとも、賢治は負けたのだ。痛ましく。ただし、その敗北とは、高木氏が弁護したような、賢治の科学的努力が冷害や干ばつに負けたという点にあるのではない。そんな表面的なことではなくて、賢治自身の生き方、あり方そのものとしての敗北感なのだ。だから、よりいっそう痛ましいのだ。ほんとうの農民になれず。デクノボーにもなれず。ソウイウモノにも、ついになれなかった。

教師を辞めて羅須地人協会をひらいた1926年、賢治が高らかにうたったつぎの文章の、何と空疎に響くことだろうか。

宮沢賢治 農民芸術概論綱領 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

倫理や理念にとらわれた空想的「イーハトーブ」の地で、ざらざらした現実からは見放されることになった宮沢賢治もまた、典型的なユートピアンだったといえるだろう。宮沢賢治の、あのよく知られた写真、山高帽をかぶって、外套を着て、うつむき加減に歩いている姿。あれこそ、彼がほんとうの農民にはなりえなかった理由を象徴している。あれは地べたを這うようにいきている農民の歩く姿ではない。知識人の宿命的な錯誤。それは例えば、社会主義やトルストイの農民主義の影響をまじめに受け止めてしまった、有島武郎の破綻などにも共通するだろう。

宮沢賢治をエコロジーで解釈しようという考え方がある。前の章で触れた中沢新一氏もそのひとりだったが、彼については省略する。高木仁三郎さんの宮澤賢治本も、賢治の作品にエコロジーを見つけ出そうとする。わたしから見るとなんとくだらない、文学の政治利用か、愚かしい、と思う。なぜなら、エコロジーとは政治的な立場をあらわす言葉だ。政治的という言い方が大げさに聞こえるかも知れないが、じっさいエコロジーは政治運動としての歴史を持っている。反核をかかげるドイツ「緑の党」が代表な例だ。多かれ少なかれ反近代という性質をもっている。アンナ・ブラムウェル著『エコロジー 起源とその展開』にそれはくわしい。ただの自然賛美や自然愛好趣味ではない。

エコロジーとは、西欧の価値観や宗教、歴史環境からうまれてきた。西洋近代の、産業革命を経た都市化と田園の喪失という時代背景があってはじめて、エコロジーという発想が出てくる。意味を持ってくる。しかもエコロジストとされるのは皆、中産階級以上の知識人だった。すくなくとも宮沢賢治が生きていた昭和初期の東北地方が、都市化、工業化の産物であるエコロジー思想を生み出すはずがないだろう。農本主義がそれに近いものだったが、賢治が農本主義に傾倒したという話はない。そして、宮沢賢治はあたらしい科学技術を否定もしなかった。むしろ農業に積極的に取り入れようとする方だっただろう。

ちょっと個人的な話になるが、わたしが原子力に関わる仕事をやめて農業に転じたころ、原子力資料情報室で『反原発新聞』をやっていた西尾貘さんがある会合でわたしに向かってちらっとこう言った。「理想的な生き方ですね」と。西尾さんは当時から高木仁三郎さんの補佐役的な存在、実働部隊の責任者だった。仕事でときどき西新橋のアジトに立ち寄って話を伺うこともあったとはいえ、わたしがなぜ農業に転職したのかを西尾さんは知るよしもなかったから、彼は一般的な印象を語ったにすぎない。つまり、原子力のような危うい世界よりも農業の世界の方が人間としては理想的な道だろう、と。そのイメージが彼にそういう言葉を言わせたのだと思う。わたし自身は、それほど高級な理由で農業に転じたわけではなかったのだが・・・(笑)。何が言いたいかといえば、「農業」というもののイメージには、それだけ特別な意味や価値を込められがちだということだ、幸か不幸か。

宮沢賢治が生きていた時代はこうだった。

1917年21歳 ロシア革命
1918年22歳 家業の質屋店番を始める 米騒動、第一次世界大戦終結
1919年23歳 物価高騰、スト多発
1921年25歳 郡立稗貫農学校(のちの花巻農学校)の教諭に
1922年26歳 妹トシ死去 伊ムッソリーニ組閣 ソビエト連邦設立 日本共産党結成
1926年30歳 花巻農学校を依願退職 羅須地人協会。天候不順で岩手コメ不作 日本労農党結成 ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳で刊行
1927年31歳 金融恐慌
1928年32歳 農家への技術指導などで疲労困憊し病床に
1929年33歳 世界恐慌
1931年35歳 病状やや回復 東北砕石工場の嘱託技師となるが、ふたたび発熱し病臥 「雨ニモマケズ」を手帳に 不況、コメ不作 満州事変勃発
1932年36歳 上海事変 満州国建国 5.15事件 独選挙でナチスが第一党に
1933年37歳 死去 ヒットラー独首相就任

賢治はこういう日本と世界の空気のなかで生きていた。5.15事件、2.26事件と、軍事クーデタで昭和維新をかかげる陸海軍将校ら、彼らのなかに多くの東北出身者がいた、彼ら青年将校を突き動かしていたのは、東北農民の悲惨な状況だったといわれる。昭和の恐慌の波をいちばん強く受けたのは産業基盤のよわい東北地方の農村地帯だった。それから、満州国に”王道楽土”を夢見た関東軍参謀にして異端の論客だった石原莞爾、彼は山形出身だ。東北地方からも多くの人々が満州の開拓に向かった。国際的な孤立と経済恐慌のなかで、満州の大地に楽園を描いた帝国陸軍のユートピアンたち。2.26事件で死刑となった国家社会主義者の北一輝(新潟県佐渡島出身)は、宮沢賢治もつよく傾倒した日蓮の狂信的信者だった。石原莞爾も日蓮信者だったこともふくめて、不思議な共通項だ。
Wikipedia:石原莞爾  Wikipedia:北一輝

前の章でもふれたとおり、軍事クーデタの思想的な背景には、北一輝の国家社会主義とならんで橘孝三郎らの農本主義があった。若い宮沢賢治は日蓮宗に没頭したが、農本主義や国家社会主義に傾いてもおかしくない時代だったのだ。

東北というフィクション

賢治がいた頃の東北農村は、いまは存在しない。凶作で苦しむ農家はいない。むしろすべての労苦から解放されて農作物はなにもかも生産過剰にある。農業は「近代化」した。重労働からは解放された。人手がどんどん不要になった。農家数は減少する一方だ。宮沢賢治のような自己犠牲をまったく必要としない世界がいま東北地方に広がっている。近代化で失われたものもあっただろうが、得られたものの方が圧倒的に多かったはずだ。結果的に農業人口が減ったとしても、やめた農家はやめることの利益が上まわったからこそ次々とやめた。

『なめとこ山』の淵沢小十郎も消えた。狩猟免許を持つハンター人口は減り続けている。しかも農業者と同じく超高齢化だ。狩猟免許所有者のうち60歳以上は60%、50歳未満で言うとわずかに14%(2008年実績)。1970年は50歳以上が22%しかいなかったことをみても、もう年寄りハンターばかりの世界になったことが分かる。童話に描かれた美しく哀しい世界はいまやどこにもない。それを止める力は誰にもないのだ。

無垢の自然としての東北というフィクション。それは日本人一般が東北地方にたいしていだくイメージだっただろう。

それは今日では根拠の失われたフィクションなのだが、いまだに東北は日本の美しいふるさと、素朴な、しかし貧しい田舎なのだった。千昌夫とか吉幾三、おしん。「東北」ということばに「農村」ということばが不思議に似合う。他の地方にはないニュアンスが「東北」ということばに含まれている。福島県はその東北の一地域だった。そこに原子力発電所があるということ自体が、原子力を否定的にみる人々にとって、不自然な違和感をかかえていた。その不自然な存在がとつぜん大事故を起こした。それは自然なる東北地方のイメージを根っこから破壊する魔物、侵略者として、わたしたちの目の前に現れてきたというわけだ。

脱原発は緑、エコロジーとつながっている。放射能が緑の大地を汚した、というイメージ。神聖にして冒すべからざる自然が汚された。そういうイメージは脱原発主義者を逆上させることになった。けれども、ふつうの農家なら分かっていることだが、農地は無垢の自然でもないしけがれ無き処女でもない。農業は自然を改変することで成り立っていること、それを否定しては農業は終わりになる。科学技術の進歩とその成果をつねに新しく取り入れてくることで日本の農業は変化してきた。生き延びてきた。汚れのない田園地帯としての”素朴、純朴な東北”というのは、今やイメージのなかにだけあるフィクションだ。虚像と言ってもいい。

東日本大震災が起きたとき、自然なる東北地方は大きな痛手を被った。沿岸の漁業は壊滅した。農地は海水をかぶった。放射性セシウムが野に山に降った。農林水産業は手痛い打撃を受けた。しかし、それ以上にわたしたちを意外に思わせた事実があった。それは工業地帯としての東北だった。さまざまな電子部品、金属加工品、素材企業の一大生産拠点がじつは東北地方に広がっていたのだった。その生産拠点が破壊された影響は、震災に遭わなかった関東以西、中部や西日本の工場地帯への部品供給が止まるというかたちで鮮烈に現れた。それこそ、”自然なる東北”、”田園地帯としての東北”、がまったく虚像であることの証明だった。原子力発電所もまた、そういう東北地方の現代的世界の一画をかたちづくる重要なユニットだったのだ。

高木仁三郎さんの『いま自然をどうみるか』(白水社刊)という本は、脱原発をかかげる著者のエコロジスト宣言ともいえる力作だ。

しかし、わたしには彼の主張はやはり知に走りすぎた観念論でしかないと思える。ざんねんながら、「ナチュラル」な生き方、これもユートピア。永遠にどこにもない、頭の中のユートピアだと。たしかに、自然と人間のあり方を見直そうという哲学は美しい。過去にはそういう主義主張がごまんと唱えられてきた。目の前のつまらない現実、汚いカネの話、ささいな物的欲望を忘れさせてくれるという意味で、ユートピアはつねに美しいものだから。で、それでどうなんだ? どうしろって言うんだ? という疑問、その自然って具体的にはどういうものなんだ? ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ・・・。なのか。

わたしから見れば、高木さんは科学者としての王道を行ったように見えて、じつは現実世界から遠ざかることばかりしてきたのではないかと思う。ものごとに純粋さを求めるのは素晴らしい。が、彼は何かあるとそこから、不純さから、逃げた。勤めた企業・日本原子力事業を辞め、東京大学の原子核研究所を辞め、都立大学の助教授を辞めた。そして純粋な反原発運動家、身を清めて「市民のための科学者」になった。不純な世界と縁を切った。裏を返せば当事者そのものであることを放棄した。アウトサイダーになった。しかし人間の大半は高木さんのような聖人君子ではない、ということを彼は見すえていたのだろうか。ふつうの人は俗の世界に生きる俗物だ。汚れにまみれて生きている。そこでしか生きようがない。水清ければ魚棲まず。

酷な言い方を承知で書いているが、高木仁三郎さんは、結局、エリート意識にとらわれつづけた科学者だとわたしは思っている。全国模試でいつもトップクラスにあった群馬の秀才時代から始まって、将来の地位も約束されるようなエリート・コースを。そしてその道を自らなげうって、「市民のための科学者」であろうとした。そういう反エリート主義みたいな生き方はとても立派なことかも知れない。けれども、わたしには、それはそのままエリート主義の裏返しでしかなかったと思える。あえて「市民」を名乗ること自体に、なにかエリート臭さを感じてしまう。

彼は過去のエリート意識を断ち切ろうとして、結局、その意識を引きづりつづけていたのだと思う。ただの凡人科学者であろうとはしなかった。「市民」を接頭語につけるとそれだけで正義の側のイメージになる。市民科学者を名乗ることで逆説的に特別な科学者になった。市民のなかの科学者という立ち位置は、まったく宮沢賢治が農民のなかの教師であろうとした姿、法華経のこころを実践しようとした姿とかさなる。それはエリート意識、ある種の前衛意識の残りかすでもあっただろう。

それに、市民科学者ってどういう仕事で、何で食っている人なのか、具体的な意味内容がよく分からない。たんに、「反原発」というどぎつさを「市民」という柔らかなことばでカムフラージュしただけにも見えてしまう。

また個人的な話になるが、高木さんとは個人的つきあいはなかったものの、直にことばを交わしたことはある。初めはわたしが20代の前半、原子力について個人的に勉強を始めたころ、高木さんがゲスト講師の勉強会に2、3回顔を出したことがあった。仕事として原子力に関わっていた時期には、「原子力を推進する側の人との対話」を高木さんに提案したことがあって、彼に拒否された思い出がある。そのときの彼の頑なな印象はいまも消えない。それから、農業を始めた直後に出席した「エントロピー学会」でわたしの発表について、彼から食ってかかられたこともあった。部屋の後ろの席からの発言で、どういう内容だったか忘れたが、ただの言いがかり的なものだったように記憶している。だから個人的にいわせてもらうと、世間での高木さんへの高い評価とはまったくべつの評価をわたしは持っている。

なぜ、わたしがエネルギー問題とは縁もゆかりもないランボオをこの章で持ち出したか、もう一度言っておこう。それにはそれなりの、わたしにとって重要な意味が含まれているのだ。勘のいい人は第6章以降を読んできてもう分かっているかも知れない。

夢見るころを過ぎても

ユートピアは歴史にくり返し浮かんできて、そして消えていく。なかでも共産主義社会というユートピアほど無惨な歴史をたどった幻想はなかった。

一つの怪物がヨーロッパをうろついている-----共産主義の怪物が。旧いヨーロッパのすべての権力は、この怪物の神聖な討伐のために同盟している。

(マルクス エンゲルス『共産党宣言』岩波文庫版・塩田庄兵兵衛訳)

かの有名な『共産党宣言』の冒頭の一節、1872年のことだった。その怪物はその後、世界を暴れ回った。空想から科学へ。万国の労働者よ、団結せよ。

1890年に書かれたウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は、革命が成功したあとの、21世紀のうるわしいイギリス社会を描いてみせた。モリスは詩人、工芸家で、ロバート・オーウェンやカール・マルクスの影響をつよくうけたイギリスの「戦闘的マルクス主義者」だったといわれている。ジョン・ラスキンと並び称される19世紀後半のイギリス社会思想家だった。二人ともに美術や工芸の素養が深かった。

『ユートピアだより』は、ある男がふと眠り込んだ夢のなかで見てきた、革命後の未来社会を語る話だ。夢に落ちて不思議な世界に迷い込むという話の仕立て方は、文学でよく使われる。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がすぐに思い浮かぶだろう。それが根拠かどうか知らないが、宮沢賢治はモリスを読んでいたのではないかという説もあるようだ。わたしはルイス・キャロルの影響だと思っているけれど。アリスやジョバンニがそうだったようにモリスの主人公も、ある日、夢のなかで21世紀のイギリスにさまよい込む。そしてそこで暮らす人々に出会って、語り合う。ほんものの21世紀に生きるわたしらが今読むと、ばかばかしく思えるくらいの美しい世界と人々。平和で、健康長寿で、幸福に満ちた、私有財産のない、貨幣のない、競争のない世の中がそこにあった。

モリスが純真な思いで構想した、革命と戦争のはてに得られる理想社会。共産主義社会を夢想した人々が住んでいたのは、資本主義の進んだ英仏独などの西欧諸国だった。けれども、それらの国で共産主義革命は起こらず、皮肉にも近代化も資本主義もほとんど未発達の周辺の国ロシアや中国で革命は起きた。

『ユートピアだより』から100年が過ぎ去った1991年、その理想に近づくはずだったソビエトは崩壊。東欧の共産主義国家が雪崩をうって自由主義国家化した。19世紀ヨーロッパの社会主義者やアナーキストたちがさまざまに描いて見せた希望にあふれるユートピア。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ユートピアの実現が近づいてきたと、共産主義社会がもうすぐ到来すると、いのちがけで信じた人々が世界には数限りなくいた。今ふり返れば、そう信じた人が現実にいたことがまったくウソのようにさえ思える。どれくらいの人々のいのちと生活が、この信じたユートピアのための犠牲になったのか。

共産主義社会は暴力的にしか作り出せなかった。マルクスやエンゲルスが歴史的必然だと言ったとしても、資本主義社会は自動的に共産主義社会を生み出すことはなかった。そして意図的に、ほとんど強引に、ボリシェビキの革命権力の元でつくられたソビエト連邦は、スターリンによって奇怪な全体主義国家として完成したあと70年あまりで自壊した。科学的、経済的な合理性にみちびかれて成立したはずの体制は、じっさいはアタマの中の理念と軍事力でもってつくられた国家体制だった。それははとうぜんの結果として自己崩壊した。イデオロギー国家というものはそういうものなのだろう。ある種の狂気に近い「理想」にもとづいて作られた社会は、かならず「現実」に負ける。

19世紀、20世紀と、あれだけ真剣に語られ、多くの人々を魅了し動かした「思想」「理念」。それは共産主義だけの話ではなく、ナチス・ドイツの壮大なアーリア民族主義と第三帝国、わたしたちの国の大東亜共栄圏という神話も、ユートピアの一変種だっただろう。この手のユートピア妄想が人を幸せにしたためしがどこかにあっただろうか。

で、昨今、この国の偉い先生方の言うには、21世紀の日本では、これからは脱原発の時代なのだそうだ。


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ちょっと考えがまとまらなくなってきたので、ここで本章をいったん切って改めて章をたてます。

安冨歩先生の”何とか話法”についても次章で突っ込みを入れるかもしれません。ページをぱらっと見た途端、書きぶりがあまりに幼稚な感じがしたので、読む意欲をうしなっていまだに店ざらしのまま放置中ですが(笑)。



 

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