脱原発神話 第14章 エコロジー(前編)・・・餓死する牛たち [2013/2/18]

いわゆる「有機農業」と「脱原発」は、顔も性格もそっくりな双子の兄弟のようだ。エコな両親から生まれた双子の兄弟。有機食品が良いわねと言うような人はたいてい原発は要らないよと言うような人と友だちだろう。脱原発を唱えている先生方で有機とか無農薬を礼賛している人も少なくない。というわけで、農業の問題を見ていくと、エネルギー問題も見えてくる。エコな生活というもののウソっぽさを見るうえで欠かせないので、あえて農業について詳しく書いてみた。

東京電力福島第一の原発事故で飼育を放棄された肉牛や乳牛は、飢えてさまよい、そしてつぎつぎ餓死に追いこまれていった。避難の指定を受けた地域に畜産農家が多くあった。牛は野山の草を食べて生きているわけではない。人工的にエサを与えてやらなければ生きていけない。そのエサはどこからやってきていたのか?

コメの自給が吹っ飛び、肉が食卓から消える

農水省によると、2011年度の食料自給率は、カロリーベースでは前年度と同率で39%、生産額ベースでは前年度から4ポイント低下し66%という。野菜のようにカロリーはなくても必要な食料はいくらでもあるので、カロリーベースで自給率を測るのは不十分だ。かといって生産額ベースのばあいも、国産品は価格が一般に高いので輸入食料と同じ土俵で集計するのは正しくない。自給率がじっさいより大きい数字になる。要するに、食料自給率という数字そのものには大して意味はない。より正確に言おうとすれば、重量をベースにして穀物の自給率、野菜の自給率、肉の自給率・・というふうな数字のまとめ方が必要になるだろう。

平成22年度 農水省食料需給表から作成

このグラフをまずじっくり眺めてほしい。

コメ 日本のコメは自給率100%だ。輸入は少しあるが、足りないから輸入しているわけではない。作ろうと思えば必要以上に作れるので、作らないようにしてきた。減反政策だ。

しかし、自給しているとはいっても、このコメを作るためには田植え、除草、病害虫防除、収穫、脱穀・精米まで、化学肥料と化学合成農薬を使っていることはもちろん、各プロセスにはかならず動力機械がからんでいる。トラクター、耕耘機、田植機、防除機械、コンバイン。石油無しには農作業ができなくなる。手で田植え、鎌で刈り取りなどやっているのは、天皇家か、美しい棚田保存の会か、それに小学校のコメ作り体験学習くらいなものだろう。つまり石油の輸入が長期にわたって止まれば、コメの”自給”は吹っ飛ぶ運命にある。チッソ肥料の原材料はすべて輸入。それに作物の生育に欠かせないリン酸肥料、カリ肥料も100%海外依存だ。そういう意味で、日本はコメひとつ自給できていない国だ。コメのうわべ100%の自給率は、砂上の楼閣とさえ言える。

農水省:肥料及び肥料原料をめぐる事情 http://www.maff.go.jp/j/seisan/sien/sizai/s_hiryo/senryaku_kaigi/pdf/01_siryo3.pdf

日本がコメをほんとうの意味で自給していたと言えるのは、昭和30年代くらいまでのこと。その自給とは多大な人力、牛馬の力、有機肥料(人の糞尿、山林の落ち葉、雑草などの運び込み)によって支えられていた。とうぜん農業人口は日本人の半分を超えるほど、つまり二人に一人は百姓でなければならなかったし、それだけの農家がいてさえ今ほどの1億を超えるような人口を食わせる収量を上げることなどとてもできなかった。労働力の大量動員と重労働によってどうにかコメは作られていた。

そればかりか、自給と飢えは紙一重だった。現在のコメの標準収量が10アール当たり500キロとすれば、いま化学肥料をいっさい投入しなければチッソ不足で収量は半減すると考えられている。それは1900年頃(明治の終わり頃)の日本の収量に相当する。なんと、コメが今の半分しか穫れなくなるとしたら、腹が減ったどころでは済まない。飢餓状態になる。日本全体が伝統的な有機農法の時代だったころの真実がこれだ。

小麦 これはパンや麺類だが、国産はほとんどゼロ。しかもコメの消費量に近づきつつある。

野菜 野菜の自給率は8割を超えるので、まず問題なさそうに思える。しかし、もちろん化学肥料無しに野菜はない。農薬無しに野菜はない。肥料についても農薬についても、畑作物はこれらへの依存度がコメに比べてはるかに高い。コメの方が病害虫にはずっと強い。それに今の野菜は旬を無くしている。年中手に入る。ハウス栽培が徹底的に野菜の流通消費スタイルを変えてきたからだ。露地物で自然の天候のままに育った野菜はそう多くはない。当然ながら温度管理のためにビニル資材や石油燃料の消費などが欠かせない。製品の低温貯蔵にももちろんエネルギーを使う。これもこうしたエネルギー源が絶たれるとアウトになる。

畜産品 日本での畜産品の自給というばあい、二つのことを考える必要がある。ひとつは文字通り、肉などの製品輸入量がどれくらいかという点、もう一つは国産品であってもその家畜飼育に多くの輸入飼料が使われているという点。

日本飼料工業会のデータによると飼料穀物輸入量は年間で、

トウモロコシ12,000,000トン
こうりゃん1,100,000トン
大麦1,140,000トン
小麦90,000トン
大豆かす1,600,000トン

農水省のデータに基づいて概算すると、畜産用の飼料穀物をすべて合計すると国産飼料の供給率が25%程度だ。75%を輸入でまかなっている。上の「食糧消費量と自給率」グラフで示した輸入トウモロコシは、その70%以上が家畜飼料に回される。厖大なエサ輸入量に驚かされる。全国民の食べるコメよりも家畜のエサの方がはるかに多い。したがって国産豚、和牛、ブロイラーやらの肉、それに卵、牛乳は、うわべは国産と言っても事実上4分の3が海外製の原料(エサ)で作られているわけだ。もちろん、いわゆる食糧作物ではなく牧草なども飼料にするので、上の数字だけで考えるのは不正確だ。たとえば牛の飼料に使われるイネ科のワラ(ストロー)は大量に輸入されていて、主要な輸出元のアメリカ・オレゴン州からだけでも年間40万トンといわれている。また同じく乾燥飼料のアルファルファもアメリカから毎月3万〜5万トンが輸入されている。 つまり、これだけでも合計すれば年間100万トン近い牧草を輸入しているわけだ。

参考1:農研機構「エンドファイト中毒」
参考2:全酪連「輸入粗飼料情勢」

ほんとうの意味での畜産物の完全自給には、国内で大量の飼料穀物や牧草を作らねばならなくなる。飼料をつくるためには畑作面積の増大が欠かせない。そうすると、国産の飼料は割高なので飼育コストを大幅にあげて、今でも輸入食肉より高いのがさらに高価格な畜産製品になる。

いや、そもそも国内で飼料作物を生産しようとすれば、人間が直接食べる穀類や野菜類を植え付ける畑が足りなくなる。上のグラフのとおりトウモロコシだけでもすさまじい量が必要だ。家畜のエサはまかなえても人間のエサがまかなえない。人間が食べていくのと同時には家畜は飼えない。これは昭和30年以前の日本だ。つまり、日常の暮らしで牛肉豚肉はほとんど食卓に上らない。肉は基本的に魚だけ、ときたまニワトリの卵、という食生活への逆戻りを意味する。伝統的な日本の農業、食糧環境にあっては、今のように豊富な肉食生活はありえないのだった。

飼料穀物を輸入して牛豚を飼うという構図は、化石燃料を輸入して電力や熱を得るという構図とかさなる。これは、現代日本の畜産がいわゆる農業ではなくむしろ工業に近いものだということを表している。つまり輸入原料を家畜の口をとおすことで肉や卵、乳製品のかたちに転換加工している、れっきとした加工業だ。海外からの原料が途絶すれば、畜産品生産工業は破産する。

こんなふうに、日本国内の食糧の生産供給は化学肥料、農薬、輸入した化石燃料、輸入飼料などによって成り立っている。農村地帯へ外からの資源エネルギー投入が途絶えれば、日本の食糧生産地帯はガラガラと音をたてて崩壊する。

世界の飢餓を救ったもの

国連食糧農業機関 FAO の数字によると、1970年から2000年にかけて世界人口は65%も伸びた。同じ期間に世界全体の耕地面積は6%しか伸びなかった。にもかかわらず、不思議にも世界で食糧不足による深刻な飢餓はおこらなかった。一時、投機的な買い占めで穀物相場が高騰したこともあるが、それは部分的な過不足でしかない。世界全体の流れとしては、同じ耕地からとれる食糧の収穫量が大幅に増えたことが危機を回避できた原因だ。農業技術の進歩や水利土木の成果、化成肥料の投入が、こういう単位面積当たりの収穫量増をもたらした。

もちろん、近代農法が手放しに有効で文句のつけようがない、というわけではない。いわゆる有機農業、オーガニック農法が価値のないことだとは思わない。化学肥料の過剰施肥と農薬漬けの農業の弊害を批判するという意味で、行き過ぎを正すという意味で、有機農業という考え方に意義があることは認めよう。しかし、もし、有機農業こそ理想という道を世界が選んでいたなら、そして開発途上国に対しても化学肥料や合成農薬の使用をおさえこんで伝統農業のままに止まることを要求していたなら、まちがいなく世界は危機に陥っただろう。世界人口の増加は食べ物が増えたから起きたことではない。衛生・医療レベルが上がって途上国の乳幼児死亡率が劇的に改善されたからだ。だから、もしも食糧増産に失敗していれば、世界の危機は現実のものになったことだろう。おそろしい飢餓だ。

西尾道徳氏(農水省農業環境技術研究所所長・当時)はこう書いている。

21世紀の中ごろにはほぼ2倍に増加する世界人口に応えて食料を大増産するには、有機物の再利用に加えて化学肥料も必要である。そのため、有機農業は食料の増産の必要性が乏しく、食品の安全性や環境の保全が相対的により重要な国や地域で展開されるべきものといえよう。(『有機栽培の基礎知識』 農文協1997年刊)

遺伝子組み換え作物をめぐる最近の話題に以下のようなものもあった。有機農業、オーガニック農業への徹底した批判だ。

オックスフォード農業会議の衝撃〜環境活動家はなぜ転向したのか(上)
オックスフォード農業会議の衝撃〜環境活動家はなぜ転向したのか(下)

高い、量が出ない、生産が不安定

有機農作物が慣行栽培の農作物より安いなら話はかんたんだが、実際はぐんと高い。生産コストで見れば、市販の有機肥料は化学肥料の倍以上の価格だ。しかもそうした肥料の多くが中国からの輸入品で占められている。もちろん、国内の畜産業から出てくる牛糞堆肥や豚糞堆肥、鶏糞などは割と安いが、それらの家畜がエサとしているのは上に書いたとおりほとんど輸入した飼料だ。輸入で成り立つ有機農業ってそもそも何なのだろうか。有機栽培は人の手間、人件費の増大もともなう。だから、高いことが当たり前かのようにさえ思われている。安心安全のための付加価値が高いからそうなのだ、と。では、そういう高い食品を庶民は買えるのか。それでみんなが暮らしていけるのか。食えるだけの量が確保できるのか。

これは脱原発の話とそっくりだと思う。脱原発を唱える人の主張と同じ理屈でもあり、脱原発のもたらすデメリットと同じでもある、最近の再生可能エネルギー礼賛の裏にある問題とそっくりだ。高い!。量が出ない!。生産が不安定!。これがそのすべてだ。

何年か前、わが家のウェブサイトを見た人から届いたメールを紹介する。

とてもこだわりのあるサイトで大変興味深く拝見させていただきました。現在の我が家はちょっと余裕がないのですが、そのうち余裕ができたらぜひ一度注文してみたいと思いました。参考のため、およその価格を教えていただけないでしょうか。これからですと王林ですか。ちなみに我が家は大地で食料の一部を購入しています(高いのですべてというわけにはいきませんが、本物の味を忘れないためにできる範囲で続けています)。よろしくお願いします。

「大地」とは「大地を守る会」のことだろう。「高い」「本物の味」ということばに注目。

有機農産物とか自然農法で作ったとかいった謳い文句をかかげる農家の、販売価格の驚くほどの高さは何だろうといつも思う。非常識な値段でも買ってくれる金持ちのお客がいっぱいいるのだろうか。

たとえば、この「大地を守る会」。超有名な直販組織、有機野菜や自然食品を販売する全国組織。加藤登紀子さんの顔も思い浮かぶ。まあ、全共闘世代の生んだひとつの果実だろう、美味しい果実かどうかは知らない。

その会のウェブショップを見る。ある年の秋の時点でふじ1キロ¥824。年明けの時点でふじ1キロ¥757、王林800グラム¥658。これを10キロ詰めのリンゴ箱として単純に換算すれば、以下の表になる。

リンゴ1箱の価格(送料込み)
ふじ王林
**の会(秋) / 10キロに換算¥8,240-
**の会(年明け)/ 10キロに換算¥7,570¥8,225
わが家 / 贈答用11キロ¥6,000¥5,500
わが家 / 家庭用11キロ¥5,000¥4,500

わが家と比較しよう。送料は送り先が関西のばあいを例に挙げた。わが家のおおまかな標準的値段は、上の表のとおりとなる。11キロとしてあるのは10キロ箱に詰めても正味は11キロ以上入るからだ。

比べてもらえば歴然としているだろう。ウェブショップの方は贈答用の高品質りんごを売っているとは思えないから、事実上、この差はもっと大きいはずだ。会の年明けふじが少し安くなっているのは品質の問題だろう。ちなみにわが家のふじリンゴは、贈答用も家庭用も完熟蜜入りをモットーに買ってもらっている。

もちろん、ウェブショップの方は1箱売りでなく数個売りという小さい単位なので1箱売りより割高になるのは分かる。しかし、そもそも果物や野菜の数個売りを直販でやろうとすること自体、経済的には非常に非効率なことが分かりきっている。そして運送などのエネルギー多消費、包装資材などの資源浪費という反環境的な行為につながることも分かりきっている。宅配運送業者は売り上げが増えて喜ぶだろうがそれだけのことだ。数個買うだけなら客がスーパーに行って買えばいいのだ。これは第13章に書いたとおり。数個をインターネットで注文して届けさせるなんて生活スタイルは贅沢の極みだ。これがエコなスタイルなのか。

安全とか環境とかを謳い文句にする販売組織は品物が高い。上記もそうだが、典型的なのが生協だ。生協にも色々あるが一般に単価が高い。ひとりの生産者として見ていると、暴利じゃないのと思うことさえある。たいてい、生産農家自身が高く売り込んでいるのではないか。わたしは営業妨害する気はないので、ここらで止めておく。

奇跡のりんご、無農薬幻想

去年2012年の秋、こんなツイートを目にした。

これがホンモノの”奇跡のりんご”だとすれば、口からご飯が噴き出すだろう。何かのまちがいであることを祈りたい。アーメン。イワシの頭も信心からとも言う・・。

脳科学者の茂木健一郎さんとか、反原発の旗振り役、金子勝慶応大学教授とか、”奇跡のりんご”の絶賛家も少なくないが、この偉い先生たちも大丈夫か?。

リンゴ園の四季便り 木村興農社【木村秋則オフィシャルホームページ】

この”奇跡のりんご”が実っているという果樹園の写真を見て、分かること気になることは大きく二つある。
1.葉っぱがない。
2.有袋栽培をしている。



わが家のふじ11月中旬撮影(2枚とも)
まず、葉っぱが付いてない件について。比較のために、わが家のふじリンゴ11月半ばの写真が右(クリックで拡大)。もう収穫適期で実は熟している。見てのとおり葉っぱは黄葉して落ち始めているが、それでも樹の向こうが全部透けて見えるようなことはない。樹全体が緑でそこに真っ赤なリンゴが成っている。地面には樹の陰もハッキリ写っている。これが健全なリンゴの収穫期の状態だ。

では、不健康な樹の状態はどんなものか。それが例えば左下の写真だ。作物を病気や害虫から守るため、殺菌剤と殺虫剤、殺ダニ剤を的確に使う。もし無農薬でリンゴを作ろうとすれば、左下の写真のような状況を覚悟せねばならない。これはある年の9月8日撮影のふじリンゴ成木で、近くの兼業農家が栽培していた樹だが、この年、農薬をほとんど散布しなかったためにこうなった。写真のとおり、9月初めの段階で葉っぱがみんな落ちてしまっている。斑点落葉病と褐斑病にまともにやられた結果だ。


無農薬ふじリンゴの無惨な姿(9月始め)
9月上旬といえばリンゴの樹は緑に覆われた姿でなければならない。それが、こんな風に果実だけがぶら下がった状態になってしまうと、11月に収穫するはずのふじリンゴはもはや赤くならないし味も付かない。葉っぱこそ果実を美味しくする大切な働きをしてくれる。これでは、とても食べられたものではない。しかも、夏の終わりに葉っぱを失ったリンゴの木は、翌春大きくきれいな花を咲かせるための芽(花芽)に養分が貯められないから、ダメージは次の年まで及んでいく。貧弱な花しか咲かなければ貧弱な果実しか実らない。

さて、”奇跡のりんご”の公式ホームページにある写真をもう一度見てみよう。なぜ葉っぱが付いていないのか、果実しかぶら下がっていないのか、という疑問にぶち当たってしまうだろう。無理矢理、葉っぱを手で全部むしり取ったのか、そんなことはやろうとしても不可能だし、やる意味もない。そうでないとすれば、葉っぱの病気で早々と散ってしまったのか。葉っぱが早く散ってしまって、これでほんとうに美味いリンゴになるのか・・・・。

下のページ。これがふつうのリンゴ農家が”奇跡のりんご”をどう見ているか、その代表例だ。まったく、この方が書いているとおり。素人はごまかせてもプロの目はごまかせない。

・「話題の“無農薬りんご”について」 工藤農園(青森) http://kudofarm.el2.jp/feature/apple/production/munouyaku/001/

・無農薬・無肥料栽培への私見 http://www.jomon.ne.jp/~kimura/munouyaku.htm

もうひとつの注目点、有袋栽培について。木村秋則氏の園地写真を見たら、有袋栽培だということが分かる。同氏の著書に袋かけのことは書いてなかったな、確か。有袋か無袋かがリンゴ農家にとってどれだけ大きい意味を持っているか、農家でない人に想像できるだろうか。

有袋栽培なら、シンクイムシなどの害虫をある程度防ぐことができるだろう。その分、殺虫剤を減らすことができる。有袋は「奇跡」でもなんでもない。昔はみんなが有袋栽培をしていた。リンゴを病虫害から守るため果実に紙袋をかぶせるというだけの栽培方法だ。有袋栽培の果実品質に及ぼすデメリットについては、リンゴ農家なら誰でも知っているから、ここではくわしく書かない。ひとこと言えば、無袋栽培のほうが有袋栽培よりもずっと「自然」に近いだろうということだ。有袋栽培は夏のあいだ中、実を紙袋で包んでいるわけで、2ヶ月ものあいだお日様にも雨風にも当たらない。まあ一種の箱入り娘だとも言える。大事に大事に育てているから、悪い虫も付かないはずだ(笑)。

しかし有袋栽培はもうかなり前から、リンゴ栽培の主流ではない。まずお日様に当たる時間が少ないから美味しくない。袋を果実1個1個にかけていく作業がハンパではない。たとえば”奇跡のりんご”農園の2町歩の畑でリンゴの袋かけを考えてみる。いったい、木村園では何人の労働力でリンゴを作っているのだろう。2町歩と言えば300から400本の木が植わっているだろう。リンゴの果実数にすると20万から30万個だ。袋かけには適期がある。早すぎても遅すぎても良くない。かけた袋は外すときも適期に一気に外さなければいけない。口で言うのはカンタン。やってみたら分かるだろう。家内労働だけでは不可能だ。人を雇わないととてもこなせない。その人件費はどうするのか。奇跡の園ではボランティアにでもやってもらっているのだろうか。熱烈な信者がいっぱいいるらしいから、無報酬で作業を手伝ってくれるのかもしれない。

ついでだから、農薬について一般の人がほとんど知らない事実。植物は無農薬状態にすると、植物自身のもつ防衛本能がはたらいて自分の体内に有毒成分を作り出す。この生体内農薬のメカニズムが研究されている。人間が農薬を使って植物を病気や虫から守ってやると、植物は自分で身を守る必要がなくなる。アメリカの「核の傘」に守られたニッポンみたいなものか(笑)。その反対に無農薬にすると、植物は自分で自分を守らねばならなくなる。結果として、無農薬の農作物の方が自己防衛のために体内自然農薬をふやすことになる。かんたんに言えば、無農薬の方が植物体内に含まれる有毒物質が多くなる、というパラドックスが起きる。そういうこともあるのだ。

生活がかかっている、家族を養わねばならない、そういうふつうの果樹農家の経営者として、わたしは”奇跡”でなくてもいい、”ふつうの美味しいリンゴ”さえ間違いなく収穫できればそれで満足だ。オカルト農業は必要ない。無農薬というと美しいイメージだが、要するに、病気になっても医者にかからないし薬も飲まない暮らしのことだ。どこかの宗教団体にそういうのがあったような気がする。ひとりでも子供を育てたことがある人なら、そんな奇跡の子育てや奇跡の健康法はとても考えられないだろう。

レイチェル・カーソン女史が『沈黙の春』で化学合成農薬を告発してから半世紀。現在の農業で、無農薬にしなければダメだという必然性はどこにもない。”奇跡”の木村秋則氏が化学農薬使用をやめたという1977年からみても35年。もうそのころの農薬と同じものは今ほとんど使われていない。この間に、農薬の質はさまざまな改良を経て大きく変わった。農薬の使用を少なくするに越したことはないが、だからといって無農薬にする必要もないだろう。道楽でやりたい人はやればいい。しかし、もし地域全域で農薬を全否定して作物栽培をやろうものなら、ほんとうに農村地域は大きな打撃を受けることになる。

”カネよりいのち”

雪の結晶は美しく繊細だ。しかしそれが無数に集まると人を呑み込み家を押しつぶす白い魔物になる。部分的に美しいことが全体としても美しいとは限らない。部分の合理性が全体の合理性でもあり得るかのような錯覚。部分的に正しいことを寄せ集めて総合すると正しい全体になるかのような錯覚。特定の条件の下でのみ成り立つことを一般化してしまう誤り。環境にやさしいプロセスに価値があるからといっても、結果に価値がなければそれは不幸だ。質の高い農作物を作るべきだと言っても、その量が満たされなければ人は飢える。

一部の農家が自然農法とか有機栽培で農作物を生産して、それを所得の比較的高い市民が購入する。そういう小規模でローカルな範囲の有機農業システムが動いているうちは結構だ。環境に優しいのかもしれない。だが、これを全国すべての農地で展開するとどういうことになるのか。ひとつは食糧の絶対量の不足が起きる。コメも畑作野菜も肉も、あらゆる食べ物の生産量が激減する。そして、量的不足だけでなく価格の高騰ももちろん伴う。

理由はかんたんだ。自然農法とか有機農業は、効率性とか経済性とかを軽蔑しているからだ。経済合理性を否定するところから生まれてきたものだからだ。生産量が落ちても高く買ってくれる客がいればいい。環境に良いことをしているのだから高くなるのは当たり前と言い逃れをすればいい。少々出来が悪くても安心安全なのだからいいじゃないと。そういう”カネよりいのち”の思想を全国規模に広めれば、全国規模の不経済が発生してしまうのは当然の成り行きだろう。

かつて『北の国から』というテレビ・ドラマがあった。たしか1980年代前半だった。さだまさし作曲のテーマメロディが今でも耳に残っている。

自給自足の田舎暮らしもいい。地産地消の小さな地域主義に理想の社会を夢見るのもいい。個人の自由だ。スモール・イズ・ビューティフル。知的生活を送る文化人は、心のどこかに牧歌的な暮らしへの憧れめいたものがあるのだろう。それは豊かでモノが満ちあふれた世の中ならではの道楽だ。

しかし、個人の趣味を通り越して、国民が皆いっしょになって明治時代以前の北海道開拓村のような暮らしに戻ることができるものかどうか。もしそれを実行しようとすれば、現在の人口を何らかの方法で半分くらい減らさなくてはならないだろう。多くの国民が農業にかかわって暮らしていく労働集約型の社会に回帰するだろう。同じ生産量に対して農業人口が増えればどうなるか。人件費が価格を押し上げる。でなければ、農民一人当たりの手取りが減る。

そこには、ロマンチックで牧歌的な世界とは真逆の悲惨な現実がやってくるだろう。いのちのないカネも無意味だが、カネのないいのちも悲惨なのだ。

エコロジーがもたらす飢え、高価な食べ物、重労働、貧しさ

エコロジーな素敵なイメージの農業について書いてきた。コメ、野菜、畜産物。そのすべてで地球環境に優しいエコな農業、有機栽培や無農薬栽培を追い求めたとき、それが行き着く果てには何があるのか。ロマンチックなユートピア?。それは、高い食糧、飢え、農家の重労働、肉体労働を強いられ、不健康で寿命も短く、貧しさに閉じこめられた社会だろう。それを回避しようとするなら、食糧の不足分を輸入する必要が出てくるだろう。そうすると安い輸入食料がどんどん入ってくる。はじめは有機農業、自給自足のエコな食生活に向かおうと考えていた国が、結果は食糧の輸入国になるというオチ。安心で安全なはずのエコな生活、心豊かなエコな生活。その願いとは裏腹の社会をつくり出してしまうことだろう。

農業食糧問題の最後に、これもわが家の果物を買ってくれるお客さんから届いたメールを紹介する。

こんにちは。ホームページの、農薬について書かれているのを、読ませていただきました。農作物を、ついつい工業製品と同じように考えてしまう都会育ちの消費者です。

主人の実家が、養鶏をしていたり、米や、野菜を作っていたりで、農家の暮らしが、少しわかるようになったのと、子供達の未来を考えた時に、少しでも安全な食品を、環境に、負担をかけない生活をと、考えた時期がありました。 合成洗剤を、石鹸に変えたり、添加物の少ない食品を選んだり、無農薬や、有機栽培に取り組まれている農家から直接、野菜やりんごを購入していたこともありました。

けれど、今は、もっと気楽にやっていこうと思っています。 正直なところ、精神的にも、経済的にも、しんどくなってきたからです。

石鹸は、食器を洗うには、どうしても使いづらい。虫が、ついている野菜は、安全な証拠と思ってみても、気持ち悪い。省エネと思ってみても、暑いと(関西は、ホント暑いのです。)エアコンを、つけてしまう。 安全だといわれる食品や、環境にいい商品は、高い。(古紙を使ったトイレットペーパーより、バージンパルプのもののほうが、安いんですものね。)

今、食に、関してだけを見ても様々な問題が、出ていますが、心有る生産者の方も、経営と、誇りの、ジレンマに陥っておられるのでしょうか?昔に、戻ることは、出来ませんし、それが、幸せだとも思いませんが、もう少し、真面目な人々が、報われる社会になって欲しいと、無力な母は願います。

自然エネルギーの島

さて、ようやくエネルギーの話をするところまで来た。と言っても、基本は食糧・農業問題とまったく同じだ。

『天国と地獄』でピーター・チャップマンは、ほぼ鎖国状態の島国を描いている。 地中海に浮かぶ架空の島国、”エルグ島の寓話”だ。

中編につづく。



 

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