脱原発神話 雑編・・・反原発のきまじめさ [2013/8/23]

去る4月10日に東京で昔の仲間4人(わたしを入れて5人)と飲み会をした。昔の仲間とは、30年くらい前まで原子力に関わる仕事をいっしょにしていたメンバーで、なかには会社に数ヶ月しかいなかった人もいるし、このメンバーがすべて同じ時期に会社にいたわけでもない。しかし、なぜか今でも一声かければ集まってくれる仲間たちだ。年齢は50歳代と60歳代。福島に実家がある人もひとりいる。

このメンバーのなかのひとりに、現役の反原発運動家がいるところが面白い。久しぶりに、たぶん十数年ぶりに彼女(5人のなかで一番若い)に会いたくて、みんなに集まってもらった。彼女は若いころから高木仁三郎さんの下で動いていたメンバーだから、まあ言ってみれば反原発の本流に生きてきたといえるだろう。

その夜、彼女をふくめて女性ふたりからわたしは難詰された。難詰とはちょっと大げさだが。福島第一原発事故以後のわたしの言動が気に召さなかったということだ。かつて『黄昏』を書いた人間としては当然、3月11日以後は反原発を叫ばねばいけなかったらしい。そのこと自体、わたしは弁解するつもりもないし、あまり反論する気は起きなかった。

変な言い方だが、わたしは口での議論はいやなのだ。口での議論は論理性とは別のものに左右される。データや知識を客観的に共有した上での議論ならいいが、たいていは発言者それぞれ本人固有の知識を背景にしゃべるので話がかみ合わないことが多い。議論慣れした人間のばあい話術でごまかす部分がある。ぶっつけ本番なのでじっくりした論理より条件反射能力がまさる。感情が入りこみやすい。そもそも、飲み会で議論してもしょうがない。

わたしはウソが言えない性格(笑)なので、ずばり高木仁三郎批判をした。清らかな、純血主義に似たもの。推進側のいかがわしい”誘惑”に負けない高木仁三郎。そういうのはダメだ、と。

それにしても、反原発を標榜する人にあまり不真面目な人はいない。それはまちがいないだろう。とくに女性。しかし真面目だからいいのか? そんなことはない。オウム真理教は真面目さが原動力だった。穢れた世の中をきれいにしたい。そういう発想に潜んでいる魔物に、とりわけ女性信者は気をつけていただきたい。

わたしは自分が昔とまったく変わったとは思っていない。ただ、農業というものを生活の糧としておよそ30年やってきて、そのことがわたしを昔のわたしでなくしてきた部分があることを否定しない。それをどう評価するかは人それぞれだろうが、わたし自身は昔も今もありのままの自分だと思っている。これはこの連載の第8章とも深いところでつながる。ちなみに、女性ふたりのうち一人はフリーの校正業、一人は雑誌編集者だ。



 

▲ INDEX