脱原発神話 第16章 エコロジー(後編)・・・「持続可能社会」のワナ [2013/4/3]

書いている本人がこんな話つまらないと思いながら書いているくらいだから面白くない。お先真っ暗の章。

ソフト・エネルギー@パス


『ソフト・エネルギー・パス』
エイモリー・ロビンスの『ソフト・エネルギー・パス』を30数年ぶりくらいに読み直してみた。この本を今風に言えば、”科学的脱原発論”の先駆的書物だった。発売当時、日本でもエネルギー業界、原子力関係者のあいだで話題をさらった。

改めて感想をひとことで言えば、彼はヨーロッパ社会主義者の伝統を受け継いでいたんだな、ということだった。エネルギー問題の書というよりは、政治思想書として読むべきだということだった。ロバート・オーエンの職人的技術の賛美。ジョン・ラスキンやウイリアム・モリスの社会主義的ユートピア。アナーキズムではピエール・プルードンの反中央集権、個人主義。クロポトキンの小規模分散の相互扶助共同社会。あえて付け加えれば、カール・マルクスからは、どういうエネルギー技術を選択するかによって”上部構造”としての社会、文化、政治システム、軍事状況が変わるという唯物論的発想。(第2章、第6章、第7章、第8章も参照のこと)

ロビンスの考えは、たんにエネルギー源としての”ソフト・エネルギー”の礼賛にあるのではない。”ソフト・エネルギー技術”とともに達成されるある社会状態を想い描いている。副題がそれを示していた。いわく、「永続的平和への道」。平和が永続するにはどうするべきかが彼にとってのテーマだった。平和であること、持続すること。どういうエネルギーの使い方をするか、何を選ぶのか次第で、平和が持続するかしないかが決まる。原子力を始めとする”ハード・エネルギー技術”はそれを妨げる。彼の主張はそういうことだった。価値を問題にする。価値の転換をもとめる。前の章のチャップマン『天国と地獄』で触れたが、チャップマンが批判したエコロジー派の団体「地球の友」のイギリス代表がロビンスだった。

ロビンスはそういう政治的思想のもとでエネルギー技術の経済性を分析して見せた。したがって、科学的、経済的な分析の裏にいつもイデオロギー的な性格がつきまとっている。同書の中ではロビンス自身はこの点をつよく否定しているが、にもかかわらず、チャップマンの表現を借りれば”エコロジー教”の教書そのものなのだ。科学的脱原発論、経済的脱原発論に見えるが、これは紛れもなく一種のユートピア思想書だ。

ハード・エネルギーとは、大規模な発電設備、長大な送電網、集中的で複雑な管理システムをともなう。原子力がその代表だった。逆にソフトの方は、小規模で、地域密着で、分散型で、管理もかんたん、町工場の職人が容易く製作できるような技術にもとづいている。たとえば風車、太陽熱集熱器。

ロビンスはチャップマンと同様にエネルギーの最終需要を重視した。電気がどういう需要につかわれているかに視点を置いた。発電所をどうするかという供給側のことを考える前に、まず消費のかたちにあったエネルギー源を選ぶべきだと。その道具は電気でないと動かないものなのか電気でなくても使えるものなのかをよく考えろ、と。その点だけ見ればふたりは共通する。しかし、その結果取るべき方向は、ロビンスははなはだしく極端だ。

ロビンスの主張をまとめると以下のようになるだろう。ロビンスはいろんな表現を駆使して論理展開しているので、くわしくは本書を読んでもらうしかない。

行かなかった道? 行けなかった道?

しかし、世界がソフト・パスの小径(こみち)に向かうことはなかった。ソフトパスに近い選択をしようとした国をしいてあげるとすれば、デンマークだけだろう。しかもデンマークの実態は前章に書いたようにかならずしも順調なわけではない。

なぜ、ソフト・エネルギー社会への道を世界は選ばなかったのか。それは、けっきょく価値観の転換を求めるロビンス流の理想社会が現実離れしたユートピアでしかなかったからだ、と言っていいのではないか。ロビンスのソフト・エネルギー・パスは新しい考えのように見えてじつは非常に古くさい価値観だ。エネルギー技術という最新の科学的分野をあつかっていながら、その背骨は19世紀の遺物としての社会思想だった。ことばには出さないものの、彼は昔はのどかで良かったねという感覚の復活を果たそうとしている。だから、世界はこれを本気で実行することはなかった。エルグ島のような社会をつくろうと考えた人はほとんどどこにもいなかった。


一人当たり一次エネルギー
消費量、石油換算Kg

一人当たり電力消費量Kwh
電力をふくむエネルギー需要は増えつづけた。これは致命的だった。一次エネルギー総体としては、一人当たりの消費量は定常状態からやや減少する流れにある。ところが電力に限って見るならば、1970年代以降も一人当たりの消費量はふえつづけてきた。言い換えると、生活のなかで使うエネルギーの電力へのシフトが進んできたということだ。そのもっとも極端な成果がオール電化住宅ということになるだろうか。ロビンスの主張とは正反対に世界で電力化が進んだ。

ロビンスは、エネルギー変換効率(熱効率)を重視するあまり、電気でなくてはならない需要用途を限定しすぎた。彼は、用途を限定することで電力需要の増加予想を否定した。そして需要は増えないから大規模発電所は必要ない、という論理を展開した。それは無茶な理屈だっただろう。

裏返すと、電気の利便性、汎用性をまったく無視していた。エネルギーの需要は消費の末端に行けば行くほど、その量も形態も必要な時間もさまざまだ。それについて個々に適切に対応するソフトなエネルギー発生装置や供給システムを考えようとすれば、その煩雑さはひどいものになる。それに対して電気はいろんな用途に好きなときに好きな量だけ使える。そういう利便性や柔軟性はほかでは代用できないものだ。もちろん、そういう便利で楽な生活スタイルが良くない、ぜいたくは敵だ、という主義主張はあり得るのだが、それを全国民に強制はできないだろう。

ソフトな技術が普及するほどの利便性・経済性をもてなかった。とくにロビンスは太陽熱利用技術を過大に評価した。いわゆるオータナティブ・テクノロジーへの過剰な期待。最近のデータで見ると、太陽熱利用機器の導入が盛んなのは中国で世界全体の8割以上を占めている。残りの半分が EU。日本の場合は、1979年の第2次石油危機のあと数年は設置が増えたが、その後は完全に尻すぼみになってきた。

Solar Heat Worldwide 2010 / IEA
(ファイルサイズがちょっと大きいのでダウンロードにご注意)

小規模分散の経済的優位や供給安定性についてもロビンスは過大評価した。20世紀末から今世紀に世界でじっさいに導入されてきたのは小規模分散ではなく、大規模集中型の再生可能エネルギー基地だった。洋上風力発電もメガソーラー発電も。経済性を追い求めるとどうしても大規模集中化に向かう。経済性を無視したのではどんな技術も普及することはむずかしい。デンマークの風力発電もかぎりなく大型化集中化への道をたどっている。ドイツの洋上風力も北海沿岸部への大規模化集中化だ。消費地と発電所をむすぶ送電設備も大型化せざるをえない。ロビンスが憧れたような町工場の職人がつくって誰でもが気軽に運転管理できるほどの”ソフト"な技術にはならなかった。

なによりも、世界は理屈で動くものではないし、設計図どおりに作れるものでもない。社会の価値を転換しろと命じることも不可能だ。その意味で、ロビンスの論理はイデオロギーとしての限界を超えられなかった。

個々人のさまざまな願望、欲求、経済状態などなど多種多様で、それを一律に決めてかかることはそもそも無理だ。ソフトパスは個人負担が大きすぎる。分業化のメリットを否定している。多品目少量生産の零細企業みたいなものだ。この道を選んでしまうと、自分に必要なものを何から何まで自分で選択して、自分で管理しないといけない。ふつうの人はそんなことに一日を使うほど裕福でもヒマでもない。これがソフトな生き方で、あれがハードな生き方で、といったことを毎日考えながら暮らしていくというようなことは苦痛にしかならないだろう。というよりふつうの人はもっと怠惰でいい加減だ。楽がしたいし、欲しいものは欲しい。

ところで、『ソフト・エネルギー・パス』は、アメリカの外交専門誌「フォリン・アフェアーズ」に掲載された論文が元になっている。エネルギーでなく外交誌だったその理由は、原子力利用と核拡散という内容を含んでいるからだった。ことばどおりの意味で「永続平和」をテーマにしているからだった。

1976年のアメリカ大統領選挙、新たな核不拡散政策をひっさげて登場したジミー・カーター大統領。カーターは環境保護派の支持もうけて大統領になったこともあって、原子力利用については否定的な傾向が始めからあった。わたしのあいまいな記憶では、兵役時代に原子力潜水艦に乗務した経歴のある人物だった。だから、スリーマイル島で原発がメルトダウンしたときは現地に出向いて指揮に当たることまでやった。菅直人氏はおそらくそのときの印象があったのだろう。同じようなマネをして大失態を演じたのも、菅氏の人間的お粗末さを象徴している。首相が自ら乗り込めば国民の喝采を得られるとでも期待していたのだろうか。愚か者めが。スリーマイルとは規模も性質もまるでちがっている福島第一を、さっぱり分かっていなかったことが、その後の事故処理にまで悪影響をおよぼした。

カーターは、エイモリー・ロビンス同様に、原子力利用が核兵器の拡散につながるという思いこみに囚われていた。そのために、カーター政権は、原子力利用を進めようとしている世界各国のエネルギー政策を制限し、とくに核燃料サイクルを締めつける国際的な仕組みを作ろうとした。しかし、原子力利用の始まるずっと前に世界の大国は核武装をしていたし、中国やインドは原発先進国でもないのに核実験を成功させてきた。核は持つ意志さえあれば、原発があるなしに関係なく持つことができる。昨今の北朝鮮の例がそれを証明している。

カーターの提唱で始まった国際核燃料サイクル評価会議(INFCE)は非公開でつづけられた。各国が核燃料のプルトニウム・リサイクルを進めることを禁止しようとしたカーターの思惑は、とうぜんのこと日本やドイツを始めとして世界各国の猛烈な反発を招いた。そしてアメリカは孤立してついに自滅、敗北した。それは、ロビンスが主張した原発なき「永続的平和」の敗北でもあった。ただし、その会議が踊った2年あまりのあいだ、この国際政治的な混乱のなかで、提唱者のアメリカ自身をふくめて世界の原子力開発は停滞を強いられ、結果的にその勢いを失うことにもなったのだ。

ダイオウグソクムシと持続可能性

”永続する平和”をもとめたロビンスはもちろん、世界的な環境問題やエネルギー問題、食糧問題がますます大きな課題になっている今世紀、「持続すること」が重要なキーワードになった。「持続可能性」ということばは今ではごくふつうに使われる。持続可能性、サステナビリティと呼ぶ。サステナビリティがどの程度の状態かを測るためのひとつの尺度が「エコロジカル・フットプリント」だ。

参考:サステナビリティの科学的基礎に関する調査 2006(RSBS)http://www.sos2006.jp/houkoku/index.html  

ウィリアム・リース(ブリティッシュ・コロンビア大学教授)は「エコロジカル・フットプリント」概念の提唱者の一人だが、こう言っている。当たり前のことだが。

都市が持続的に機能するためには都市の外側の多くの土地を必要としている。

都市は、農産物を農村と田畑から、魚介類を漁村と海川から、資源エネルギーを鉱山や発電所から、木材を山から、みんな取り寄せてくることで成り立っている。そして消費した後のゴミは郊外に埋めるか燃やす。排煙は空に、屎尿は処理して川に流す。

しかしそれは都市だけのことでなくて、農村だろうと漁村だろうと離れ小島だろうと、現代の人間が暮らす場所ではどこについても言える真理なのだ。外部からのモノやエネルギーの供給が絶たれた社会はやがて滅亡する。永久機関があり得ないように、動いている物も、生きている社会も、初めに持っていたエネルギーだけで暮らしていくとそのエネルギーをだんだん失っていつか止まってしまう。チャップマンの描いた”エルグ島”もまた、自給自足にこだわり変化を望まない生活をつづけようとする限りやがては滅び行く運命が定められている。それはまたイースター島の悲劇を連想させてくれるだろう。

生き物もまた、外界から食べ物や水・空気を取り込んで、それを代謝してエネルギーを得つづけることで生命を維持している。三重県鳥羽市の鳥羽水族館で暮らす深海生物ダイオウグソクムシみたいな生き物は例外中の例外だ(笑)。

伊勢志摩経済新聞 http://iseshima.keizai.biz/headline/1647/

江戸時代の鎖国社会は200数十年も持続したではないかって? では、もし、あのまま鎖国を続けていたらどうなったのか。江戸の社会が300年も400年も持続可能だったという根拠はあるのか。内部崩壊しなかったという証明はできるのか。黒船が浦賀沖に現れなかったとしても、江戸時代は遠からず終わる運命だっただろう。経済的にも、政治的にも、文化的にも、江戸は壊れていく必然にあった。腐らない生ものはない。そもそも同じような状態を安定的に永久に維持することなど、どんな優れた社会であろうとできない。時よ止まれ、と叫んでもゲーテは自分の死を遠ざけることはできなかった。枯れない花は花ではない。やがて枯れることが分かっているからこそ花はひととき美しく咲く。

もっとも、江戸時代が長くつづいたからといって、江戸時代の社会が人々にとってそんなに幸福なものであったかどうかは別問題だ。つづくこと自体が価値あることとは限らない。

エコロジカル・フットプリント(EF)とは、

ある特定の地域の経済活動、またはある特定の物質水準の生活を営む人々の消費活動を永続的に支えるために必要とされる生産可能な土地および水域面積の合計

ここでは「生産」に必要な土地だけでなく、経済活動、消費活動で発生する「廃棄物の浄化吸収」に必要となる面積もふくまれている。そして、生産し廃棄するための面積がじゅうぶんに確保できずに不足すれば、その地域社会は持続不可能になる。

日本人の消費エコロジカル・フットプリント
日本人全体
必要面積
(百万ha)
国内現存面積
(百万ha)
対国内面積比日本人一人当たり
(ha)
世界一人当たり公平割当面積
(ha)
農地28.14.46.40.23
牧草地21.50.826.90.17
森林地22.225.30.90.18
CO2吸収地
(国内排出分)
199.325.37.91.61
CO2吸収地
(海外排出分)
70.425.32.80.57
生産能力阻害地4.34.31.00.03
陸地EF合計345.8-9.22.801.51
海洋淡水域EF合計234.5-6.21.900.51
総計580.337.815.44.702.02
出典:同志社大学・和田氏1999年より(サステナ報告 P.253)

ここで各項目はおおまかにつぎのように定義される。

上の数値は1990年、1991年の日本の食糧、資源エネルギー消費量を元に計算されたもの。もちろん数字そのものはいろいろな前提条件や計算方法次第でかわるので正確とは言えないし、エコロジカル・フットプリントの考え方そのものもまだ歴史の浅い概念だから、ここではひとつの目安としてみるべきだろう。で、日本人は、この時点で人類一人当たりに割り当てられた地球の平均面積の2.3倍もの面積を占拠している。4.70÷2.02=2.34。つまり日本人は人類平均の2.3倍も多く地球環境を消費している。食っている。

衣類、食糧、住居、つまり衣食住のうち住以外はすべてにわたって自給はまったくあり得ず、ほとんど輸入品でまかなう国が現代日本だ。ふつうの農産物さえ国内自給などとてもとてもだが、とくに牧草つまり肉食文化を支えるための必要面積はけた違いに大きい(26.9倍)。いわば身の程知らずに肉を食いまくっている。それに加えて大きいのが化石燃料消費にともなう必要面積だ。そういう現代日本の現実を、このエコロジカル・フットプリントの数字がまざまざと示している。数字は、現実がもう手のつけられない水準にあることを語っている。

日本人は、自分たちの生活を維持持続させるために日本の国土総面積の15倍もの広さを必要としている。それだけの食糧と資源エネルギーを消費している。まあかんたんに言ってしまうと、日本人は15倍、”地球にやさしくない”暮らしをしているわけだ。裏返していえば、今の15分の1のレベルに生活を縮小しないと”地球にやさしい”民族にはなれない。15分の1に。そんなことできるのか?。

こうして数字から見てくると、もったいない精神とか足を知るとかちょっと節電とか、そういうレベルで何とかなるような話ではないことが分かるのではないか。本気で考えるなら、破壊的に生活水準をおとさないかぎり、持続可能な社会などありえない。

虚構の”自立社会”

日本では、21世紀になって電力消費量は横ばいがやや減少という傾向を示すようになった。ならば、これからはそんなに電力が足りないというような心配は要らないということになるのか。


日本の電力消費1964〜2011
日本の電力消費はグラフのとおりに変化してきた。ここで販売電力合計というのは電灯と電力を合計したもの。電力合計は特定規模需要を含む。グラフに示したとおり、一般消費者の使う電灯需要は増えつづけている。1980年の3倍。一方の産業用の大口電力需要が増えなくなってきているが、それでも1980年のおよそ2倍。

産業用電力需要が増えなくなってきたのは、省エネ効果とか景気停滞とかの理由もあるだろう。しかしそれだけでなく、これまで国内でモノを作っていた製造業が海外へ生産拠点を移してきたこと、製品を国内で作るのではなく完成品を輸入することが増えたこと、これらの効果が大きいのではないか。身の回りの製品がどこから来たかを見ればすぐ分かることだ。つまり、国内でエネルギーを消費するか海外で消費するかの違いがあるだけで、日本人が経済生活を営むために必要としているエネルギーの総量そのものは減っていないということ。減っていないどころか依然として増えつづけていると見るべきだろう。

言い換えると、エネルギー消費を増やさなくても日本人の生活水準を維持していける、というのは錯覚。ダイオウグソクムシじゃないのだ。国内の生活を維持するためにそれに必要なエネルギーを海外で代わりに消費している、海外で資源を食っている、海外で環境に負担をかけている、そういう構造ができてきた。一例として、いまやインターネットに欠かせない数多くのサーバ群は大電力を必要とする。このサーバも国内ではなく海外に置く事業者が圧倒的に増えた。国外での電力消費が国内の IT環境を支えている。こういう構造がインターネットだけでなく他のすべての分野で作られつつある。いわば、エネルギー消費のアウト・ソーシングだ。上のエコロジカル・フットプリントの一覧表にある「CO2吸収地(海外排出分)というのがこれに相当していることになる。


一人当たり一次エネルギー
消費量、石油換算Kg
こういう状況を数字で示したのが右のグラフ。これは、この章の上の方で表示した一人当たり一次エネルギー消費量グラフと同じだが、さらに世界全体と中国、韓国のデータを追加してある。中国と韓国は、日本の輸出相手第1位と第3位、日本の輸入相手で第1位と第6位の国だ。とうぜん中国も韓国も自国の国民の暮らしにちょくせつ使うエネルギー量が増えているわけだが、それにも増して外国貿易にともなう消費量が急増していることも反映している。中国は“世界の工場”とさえ言われるようになった。エコロジカル・フットプリント的に見れば、日本国民の生活に必要なエネルギーもこれら貿易相手国のエネルギー消費とつよくリンクしているのだ。


輸入相手国上位10カ国

輸出相手国上位10カ国
財務省貿易統計
これは、食糧について前編で書いたことと同じ構造だ。国産と称する食糧も外国からのエネルギーや肥料の輸入に支えられて初めて存在できる。さらに輸入食料は外国でそれを生産する過程でエネルギーや肥料が投入されている。国内で生産していた作物も海外で生産して輸入するという傾向がこれからはますます強まるだろう。

このようにして、いま社会生活のいろいろな部分で起きているのは、自分たちの暮らしに都合が悪いものは外に押し出して目に触れないようにして、虚構の"自立社会"、虚構の”エコロジー社会”をつくる。そういうやり方だ。エコロジーの風潮には、本質的なところにじつはエゴイズムが隠れている。エコな暮らしは世のため人のためのイメージがあるが、じつはその正反対で利己的な発想にもとづいている。

最後はだれかがババを引く

エコな有機農業やら無農薬栽培やらが環境に良いから、自給自立に役立つからといってそれを進めれば、それは農地の生産性を落とすことになる。それを避けるには農地面積を増やさないといけない。その分、エコロジカル・フットプリントが増大する。農地を増やすということは森林原野をつぶして開墾することだから、それはエコとは相反することになってしまう。なんとエコの追求が新たな自然破壊につながるというわけの分からないことに。ちなみに自然エネルギーの国・デンマークは森林面積が国土の11.8%しかない。これはイギリスと同じ数字。デンマークやイギリスの美しい田園風景の裏には林野の農地化、牧草地化という長い環境破壊の歴史が刻まれている。人口の多い中国やインドは21〜22%、人口増にともなって今後も減っていくだろう。それに比べて日本の森林率は68%の高率をなんとか維持している。確かわたしが子供のころは8割が森林とか言われていた。

再生可能エネルギーで地域のエネルギーを自給するという、"地産地消”的な主張が美しく語られることも多くなった。しかし、うわべをいくらスマートな自立社会ができるかのように飾っても、中身をよく見ればそこは外部依存社会のままだ。エコな自然エネルギー供給のための施設も、じつはエコロジカル・フットプリントを増大させてしまう。必要な太陽や風力エネルギーを獲得するために広い土地をつぶすことになる。太陽光にしろ風力にしろ、そうした環境によいとされる手段でエネルギー需給を確保できるというのは神話にすぎない。

さらに、再生可能エネルギーそのものが(地熱発電を除いて)天気に左右される不安定な電源なので、これをカバーするためにつねにバックアップ電源が必要になる。あるいは蓄電システムが完備しなければ気まぐれな放蕩息子にしかならない。それらは太陽光発電事業者や風力発電業者が用意するわけでもなく、変電・送電・配電を受け持つ電力会社にみな押しつけられることになる。再生可能エネルギー引き取り制度で算定されているソーラーや風力のコストに、そういうバックアップのコストは含まれていない。それは電力会社に押しつければいい。日本の電力会社は消費者への安定供給が義務づけられているから、不安定な電気を気まぐれに提供しているわけにはいかない。再生可能エネの”不都合な真実”をみな引き受けるほかはないのだ。

参考:資源エネルギー庁「再生可能エネルギーの導入拡大に伴う追加的コスト」http://www.enecho.meti.go.jp/committee/council/basic_problem_committee/019/pdf/19-1-2.pdf

個人が太陽光パネルを屋根に載せるという極小なレベルに始まって、メガソーラーを導入した事業者のレベル、それらを含めた地域のレベルと規模が広がるにつれて、それぞれがみんな自分の”不都合な真実”を外に押し出していく。自分たちの目に見えないようにしていく。まあ、言ってみればババ抜きみたいなものだ。ババは押し出されるたびに雪だるまのようにどんどん巨大になる。しかし最後はだれかがババを引くことになる。

地熱発電はすこしちがう。太陽や風力とちがって出力が一定しているので、原子力に代替できるベースロード電源になりうる。そういう他の再生可能エネルギーにはない利点をもつ。火山国の日本は地熱の潜在能力が大きい。主要国では、インドネシア、アメリカに次ぐ世界第三位の地熱資源量をもつとされている。しかし、現実の導入可能な見通しは暗い。

地熱発電は、2009年の経済産業省「長期エネルギー需給見通し」によれば、最大導入ケースでさえ2030年に1200MWつまり原子力発電所1基分程度の発電能力しか得られないと想定されている。この「最大導入ケース」という定義が面白い。いわく「実用段階にある最先端の技術で、高コストではあるが、省エネ性能の格段の向上が見込まれる機器・設備について、国民や企業に対して更新を法的に強制する一歩手前のギリギリの政策を講じ最大限普及させることにより劇的な改善を実現するケース」だそうだ。これで原発1基分がやっとというわけだ。

最近流行になりつつあるスマートシティ。スマートグリッドを駆使した省エネルギー型コミュニティ。これは言ってみれば架空の島社会みたいなものだ。島はそれぞれエネルギーの自立を目指している。スマートシティが一つ二つなら矛盾は表面化しない。しかし、冷房が必要な季節、時間帯はどのスマートシティ(島)でも電気が欲しい。夕飯時にはどの島でも電力需要は増加する。つまり足りないときはみんな足りない時間帯になるし、要らないときはみんな要らない時間帯になるのだ。IT技術も駆使して、余っているところから足りないところへ電気を融通する、スマートに効率よく需給を調整する省エネルギー社会。そういう謳い文句がたちまち破綻することだろう。15章で書いたとおり、再生可能エネルギーの国デンマークは外国とのあいだで電力を3割も常に出し入れすることでそれを回避した。同じことがスマートシティ同士のあいだで必ず起きる。正面から激突することになるだろう。そして共倒れになることだろう。なんとスマートでないことか。

シティ(島)内部でつかう電気だけが必要エネルギーではない。生活に必要なガソリン、灯油、ガスはもちろん、外から持って来ることになる。それに、日常使う品物や多くの食料品はシティの外部から持ち込まれるわけだが、それらをつくるにはエネルギーが必要だ。言い換えれば、食料品も生活雑貨も工業製品もみんなエネルギーのかたまり。太陽電池パネルだってそうだ。したがって、それを島の外から持ち込むということは、エネルギーを輸入していることと同じことになる。つまり、島民は島のなかで直接使っているエネルギーだけでなく、島の外でもエネルギーを消費している。そのことに蓋をかぶせて、「自分たちはエネルギーを自給しているのだ」と言うことはできない。いわば、それは”見えないエネルギー消費”と言える。この広い意味でのバックアップを忘れてエネルギーの”自立”を語るのは、ごまかしと言うべきだろう。

風力発電機や太陽電池パネル自体を製造するのにも、それなりのエネルギーが要る。原材料の精錬、精製から製品製造、運搬と組み立て設置、これらはすべてエネルギーを消費する。キロワット時あたりの生涯 CO2排出量は、太陽光発電が原子力発電のおよそ2倍という数字もある。温室効果ガスを2倍も放出するという意味だ。素人受けのするイメージだけでクリーン度やエコ度をくらべてもフェアでない。樹ばかり見ていて森を見ないと全体のすがたを見失う。

表向きは一見して”自立”しているかに見える。エコでクリーンなイメージがうたわれる。しかし裏に回れば、必要なものは自分でつくらずカネで買ってそろえている。第13章でも書いたが、天然の薪を1本つくるにもエネルギーが要る。桃太郎のお爺さんなら、えっちらおっちら山に柴刈りに行って薪を持って帰ってくるだろう。しかし現代の日本で、薪や木質ペレットをボイラーやストーブで焚いている人のなかで、汗水垂らして一から全部を自分でやっている人はいるのだろうか。

くり返しになるが、これは、ただ個人、小さな地域、シティ、島のエネルギー問題だけにおさまらない。日本という大きなスケールに広げても同じことだ。国内で消費されるエネルギーのことだけが日本のエネルギー問題ではない。海外から輸入されるさまざまな製品、それは製品の輸入という裏側にエネルギー消費が隠されている。日本国内で原子力を使わないようにしたとしても、じつは海外で日本向け製品を作り出すために多くのエネルギーが消費されることになる。そのエネルギー源は残念ながら石炭、天然ガス、石油であり原子力だ。食べ物についても同様に、輸入される食料品の大半は残念ながら有機農業や無農薬栽培でつくられたものではない。

もっと分かりやすく言ってみよう。東京は長いあいだ福島や新潟柏崎の原子力発電所でつくられた電気で消費生活をおくってきた。仮に東京電力管内で原発を廃炉にしたとして、今度はどうなるのだろうか。中国やインドで稼働する原発の電力で生産された製品を、日本は安く大量に輸入してそれで暮らすことになるだろう。つまり、いままでの福島や新潟が今度は中国やインドに代わっただけで、本質的なところではまったく同じ消費生活をしていることになる。生産現場は遠くに遠くに持っていく。総体としては原発依存がつづく。都合の良いものだけを取り寄せてきて安心安全、楽しく消費したらいい。そして「脱原発の暮らし」を日本人は自慢できるというわけだ。金持ちのぜいたくとしてはなかなか素晴らしい未来だろう。

環境ファシズム

「持続可能のためには”環境全体主義”の下で自由を抑圧せざるを得ない」

この文はエコロジカル・フットプリントの元報告として引用した『サステナビリティの科学的基礎に関する調査 2006(RSBS)』の巻末に記載されている。同調査にたいするある調査協力者からのコメントだ。環境全体主義。エコロジーとファシズムのドッキング。エコロジー全体主義の自由抑圧。

ある閉じた島でエコロジーを進めていくと、こういうことが起こるだろうと予想できる。それは想像するだけで気が滅入ってくるような世界だ。ほんとうにその圏域のなかだけでモノとエネルギーを満たして、ほんとうにその圏域のなかだけで廃棄物を処理処分しようとして、さらにその状態をずっと維持しようとすると、おそらくそうなるだろう。息が詰まるような社会。皆が皆を監視する社会。個人の自由をどこまでも制限して抑圧する社会。死んだような平和に満たされて、安心安全と称している社会。エイモリー・ロビンスが主張したようなソフト・パスの道をたどって行ってみるとそこは全体主義国家につづいていた、そんな笑えないジョーク。

例えばすぐに想像できるのが、自給自足の社会における人口問題だ。出産制限をふくむ人口調整の方法を思うとおぞましい社会像が目に浮かんでくる。もしくは医療福祉を放棄して人を病死、事故死するがままに任せるような社会。物質・エネルギー的に閉鎖された系でやがておきる、ゾッとするような管理社会。誰が管理するのか、全体主義が”自主的”に管理するのか。牧歌的な風景の裏側に見える暗黒。孤立した島でくり広げられる暗黒。ふと、ウイリアム・ゴールディングの小説『蠅の王』を思い出してみる。

あるいは、日本学術会議の放射性廃棄物報告『高レベル放射性廃棄物の処分について』。これは、原子力委員会からの諮問にたいして学術会議が2011年9月に回答した報告書だ。そこでは、廃棄物発生の上限を決めてそれ以上の原発は増やさないという「総量管理」「総量の上限の確定」という考えを提示した。そういう考え方もあるのか、なるほどと納得したいところだ。しかし、政治的に消費の上限を設定するということは抑圧管理社会の発想だ、ということにこの報告をまとめた方々は気づいているのだろうか。エコロジー全体主義は、本人たちがそうと意識しないうちに静かに起こりうる。同じことを化石燃料で置き換えたらどうなるのか。政治的に国民の二酸化炭素排出量の上限を決めてそれ以上の化石燃料は燃やさないと。自動車は何台以下に制限すると。石油ストーブはどんなに寒い日でも一日の灯油消費は何ミリリットル以下に制限すると。もし、そういうことを学術会議が言いだしたら何が起きるだろうか。原発だからこういうことがあっさりと言えてしまう不思議を、偉い先生方はどう認識しているのだろうか。

さらにいま、電力各社の料金値上げが相次いでいる。言うまでもなくこれは原発が動かせないことが原因だが、結果としては電力消費のつよい抑制圧力になる。そして、電力各社の財務はこれでも安定するわけではないことが予想されていて、早晩、再値上げという事態が大いにありうる。原発の再稼働の見通しがまったくたたないからだ。立たないどころか廃炉が続出という悲鳴まで聞こえるくらいだ。いずれにしても、それが政策の目的ではないが、結果としては電力消費の力づくの押さえ込みと国内産業への経済的圧力が日常化する。この力にどこまで耐えられるだろうか、本当に。こうなるともう何となく戦時経済みたいな匂いまでしてくるではないか。

先進国の中で日本だけがいま異常な実験をしつつあると言えるだろう。エネルギー消費のほとんどすべてを化石燃料でまかなうという、21世紀の今日ではまったく信じがたい実験を。そのために、日本は温室効果ガス抑制というもうひとつの重要な政策目標を事実上捨ててしまった。

ふたたび「持続可能性」という名の”永遠のユートピア”へ戻ってくる。科学からユートピアへ(第6章から第8章を参照)。

あらためて考えてみよう。持続可能とは何だろうか。何が持続するのだろうか。何を持続させるべきとするのだろうか。持続させなくても良いものとは何だろうか。あるものを持続させるためには別のあるものを抑圧する必要があるのだろうか。それらは誰が決めるのか。ある状態が持続する、ある状態がいちばん望ましい状態である、それを持続させたいということだから、何が望ましい状態かをまず客観的に示せなければならない。同時に、その状態の維持が可能だということを示せなければならない。しかし、わたしは、そういう問いに対する具体的な答えを聞いたことがない。

「足(たる)を知る」と言ったのは老子だった。老子は実在したのか疑いもあるが、それはともかく紀元前のその時代の人の満足度と現代日本人の満足度。老子の時代の「貧しさ」と現代の「貧しさ」。この2千年を超える時間、誰一人として足(たる)を知った人はいなかった。このままでいい、これがずっと続きさえすればいい、と思った人はいなかった。だから世界は今のようになってきた。これをひっくり返すことは老子にもできない。それは変わることを望む人間の性とでも言うものだからだ。

映画『第三の男』の有名なシーン。ゆっくりと回る大観覧車のゴンドラのなかで、ハリー・ライムは皮肉をこめてこうつぶやく。

だれかがこんなこと言ってたぜ。イタリアではボルジア家30年間の圧政下は戦火・恐怖・殺人・流血の時代だったが、ミケランジェロやダ・ヴィンチの偉大なルネサンスを誕生させた。

片やスイスはどうだ? 麗しい友愛精神の下、500年にわたる民主主義と平和が産み出したものは何だと思う? 鳩時計だ!
オーソン・ウェルズ 『第三の男』
http://www.slownet.ne.jp/note/detail/200712291849-1000000

鳩時計、それは平和だがあくびも出そうなほど退屈なイメージ。一時間ごとに繰りかえされる鳩ぽっぽの声。第二次大戦直後の荒廃したウィーンで暗躍する悪党ハリー・ライム。ゴンドラから見下ろす地上には黒蠅のように小さく人々がうごめいていた。民衆への侮蔑、政府・権力への冷笑、永遠につづく平和な鳩時計への嫌悪。

人間は生まれて成長して年老いて死ぬのに、ずっと青春していたい。永遠の少年でいたい。いつまでも美しくありたい。という虫のいいことも言う。どこかの都合のいい時期と状態をおのおの勝手に想定して、それが持続して欲しい、と言っている。人は成長するものであって、同時に人は老いるものでもある。永遠の少年でありたいと願っても、人間が人間である以上はかならず老いる。老いなくなった人間はもはや人間とは言えない。死なない生き物は生き物ではない。ある特定の時点で止まっていることはできないし無意味でもある。万物は流転する。変化することを止めてしまうとすれば、それは鳩時計のような単調で退屈な世界に閉じこもることを意味する。同じ状態を変わらず維持することはこの世の中では不可能なこと。維持しようとしてもその内部に矛盾や不満が蓄積していってついには爆発することになる。

ゆく川の水は絶えずしてしかも元の水にあらず。しかしその絶えないと見える川の流れも、時間が経つにつれて川底をえぐり、流れは向きを変え、山は削られやがて川自体が消え果てることになる。護岸工事をして川が動かないようにしてもそれは小手先の現状維持。河岸をコンクリートで固めたところで持続可能が保証されたことにならない。何をしても時間を止めることは不可能だ。もし変わらないでいるという状態が実現したとすれば、その実現した瞬間からそれは風化、老化、衰弱、劣化、腐敗を始めるだろう。いずれにしても、持続可能とは幻想だ。。

今の先進国並みの「豊かさ」を全世界の人が受け取るためには、世界の経済の成長と大量のエネルギー・資源の消費が欠かせない。宮沢賢治風に言えば、世界が全部幸福にならなければ個人の幸福もない。そのためには厖大なモノの生産と消費が必要になる。それは持続可能な世界とはほど遠い。宮沢賢治が今生きていたら、この矛盾はいったいどうするのだろう。。皮肉をこめて言えば、世界がみんな平等に貧しくならなければ持続可能な社会は実現しない。皆がひとしく貧しくなってその貧しさや肉体的な苦しさに満足できなければ、皆が幸福になることもない。エコロジーと幸福。この絶対矛盾に答えはあるのか。



 

▲ INDEX