脱原発神話 番外1 ・・・大島堅一著『原発のコスト』についてのメモ [2012/1/19]

『原発のコスト』を斜め読みしての、同書にかんする覚え書きです。いま詳しく検証するヒマはないし精読したいほどのモチベーションも重要性もないので、たんなる覚え書きで終わるかもしれません。読み間違いもあるかもしれません。ただ少なくとも、原発に経済性はなく脱原発した方が経済的にプラス、とする同書の断定には説得力がまったく乏しい、とだけは言っておきます。


1.原賠法の免責条項=「異常な天災地変」に対する評価が間違い。東京電力を「加害者」と規定したためにその後の論理がすべて偏向したものになった。これこそ菅政権の最大の過ちいわゆるボタンの掛け違え。これをそのまま追認している。基本的認識の相違。

2.福島の事故コスト(損害賠償)の見方が間違い。風評被害や自主避難者に対する過剰な補償算定。除染についての過剰な査定で損害額がふくれあがった。これも民主党政権の責任。本当に補償すべき実害の範囲基準をもっとしぼり込むべきだった。

3.事故コストの算入のやり方が乱暴。福島の事故がどこでもいつでも起きるという設定自体が科学的合理性を持たない。福島のような全電源喪失を引き起こす条件はもちろん、大事故が起きる一般的なプロセスの想定条件について、何も示されておらず、コスト算入の科学的合理的な根拠をもたない。

4.立地対策、交付金は発電コストではなく地域経済対策のコストという面が大きいが、その事実を無視している。地元の経済や雇用にとってプラスに働いてきたことは事実であって、これを原発依存という負の色眼鏡だけで見ている。

5.電源別のコスト比較。比較の前提となる条件が原子力以外の電源に対して甘い。こういうコスト比較は、前提条件次第で結果がぶれるもの。例:火力が過去に放出した大量の二酸化炭素はどうやって回収するのか、水力発電所は寿命が来たらどうするのか、大量の太陽光パネルはどう処分するのかエトセトラ。すべてコスト。

6.これまでの実績をコスト評価に入れるということであれば、次の点を考慮する必要がある。仮に原子力が1基もなくてすべて化石燃料でこれをまかなってきたとした場合、日本でどれだけの追加費用がかかったか。どれだけ資源国の言うがままになったか。かかったコストは国内で払われたのではなく外貨の流出を意味していたわけで、同じコスト増でも意味がまったく違うものになっていただろう。

7.核燃サイクルのコストは、ほんらい政府が電力会社に再処理事業を政策的に強制したために大きくなっているのであって、純粋に民間の経済判断に任せればワンススルーする方に転換すると見るのが合理的。

8.政策コストをあえて入れるならばベネフィットも入れねばならない。たとえば産業的波及効果や化石燃料依存へのセキュリティ効果。温室効果ガスの排出抑制による環境対策コスト低減効果。かりに政策的コストを考えるにしても、それを発電のためのコストとして電力会社にすべてかぶせることが妥当とは考えられない。

9.いわゆる原子力村は本質的な問題ではない。原子力村という言い方自体がかつてジャーナリズムが作ったフィクション。しかも30年も昔のカビの生えたキャッチコピーをいまだに持ち出してきて原子力を批評する道具にするのはただの無為無能。原子力にかかわる幅の広さへの認識がまったく欠如している。狭い閉鎖的な「村」の少数の利権者の共通利益だけでものごとが決まっていると思うのはナイーブ。原子力界は一枚岩でも単純な利益共同体でもない。

10.再生可能エネルギーへの期待度が非現実的。希望的観測でしかないことを経済学者の立場であたかも経済的合理性があるかのように言っている。再生可能エネルギーにたいする、こういう楽観論を垂れ流すのは、学者として無責任ではないか。



 

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