脱原発神話 第11章 ・・・帰宅への遠い遠い道 [2012/9/2] [2012/9/11 補足追加]

ほんらい、事故収束や市町村の復興の道を考えるのがこの連続雑文の目的ではないが、この章は番外的にわたしの考え方をちょっとだけ。暴論、極論かもね。そんなことないと思うが・・。自分に出来ることは何もないので。


野球場がなければ野球は出来ないのか

戻る意志さえあれば今すぐにでも戻れる。それを妨害しているものがあるとすると、それは放射能汚染ではなくて、政府によって決められた避難指示だけだ。政府の規制を破って戻ればいいと思う。勝手に戻れ、だよ。わたしはそう思う。そういうのはいかにも無責任だ。しかし、戻る意志が本当にあるのならそうするのが一番手っ取り早い。何が何でも戻るぞ、という意思表示こそが世の中を動かす。規制を突破する。「お上」に頼ってはいけない。そんなにビビりまくるほど危険な放射線は出てないサ。と、もう一度、無責任なわたしはお説教をたれてみよう。

言うまでもないが、これは自己責任をともなう。すべてを自分でかぶる。「お上」のせいにはしない。そういうこと。

もちろん、個人がひとりふたり勝手に町に戻っても、水は出ない電気はつかない店は開いてない。そんなことは分かっている。しかし問題の本質はそんなことじゃないだろう。個人の強い意志があるかどうかだ、つまるところは。野球場がなければ野球は出来ない、なんてことはないぜよ。戦後の子供は空き地でも道路でもどこででもやった。バットがなくてもグローブが足りなくてもやった。野球場がなくてもやる気がある子供が集まれば野球は始まる。逆に、立派な球場をつくっても野球をしたい子供がいなければ野球は始まらない。いまはお上品なことを言っている場合でもなかろう。道がなければヤブをかき分けてでも行くしかないのだ。

「お上」というのは自分の責任は取りたくないから事なかれ主義に走るのが世の常だ。したがって、国、政府、自治体市町村当局はつねに責任を負わないよう逃げる準備をとっている。そのいちばん容易い方法は規制を強化しておくことだ。ガンガンに規制していれば、規制しているという言い訳が出来る。何か事件が起きてもわれわれは安全策を厳しく実行しているという言い逃れが出来る。規制・規則・法令を破ったおまえの方が悪い、と言える。だから放っておくと規制・規則・法令は必要もないのにどんどん強化されてしまう。原発事故で言えば、避難の範囲をムダに広くとった。食べ物のキログラム当たりベクレル数を無意味に小さくとった。これらは全部、国の事なかれ主義がそのまんま反映したものだ。マスコミ世論が騒ぐたびにそれを恐れた政府は規制強化に走った。マスコミ世論は目先のことしか考えない。

学者の先生方も3.11以後は、もう、やたらと被害想定を大きくしたがるようになった。なぜなら、「想定外」という言葉を専門家が使うことをマスコミ世論が叩きまくったからだ。もう、やたらめったら想定をでかく見積もるのがトレンドになった。地震学者がその典型だが、気象庁の台風予報や大雨予報も昨今、「これまで経験したことのない大雨」とかいった表現が妙に多く聞かれるようになった。なるべく想定を大きく予想しておかないとまずい、という心理が、こういう大げさな表現につながっているのだろう。こういうのは深刻な後遺症だろう。南海トラフもまったくそういうバイアスがかかって巨大な大風呂敷になった。

だから、こういう「お上」の基準や想定をそのまんまに従っているととんでもない損をすることになる。規制基準でがんじがらめにされるからだ。だからこそ、ほどほどの合理的な考えに立った規制緩和が主張されなければならない。そのために、自己責任のつよい意識が必要になる。行政が1から10まですべてつくってくれた環境で暮らしを取り戻す、というのでは絶体にうまく行かない。不動産業者が造成した団地にマイホームを買うのとはちがう。そこに暮らす人自身がつくってこそ地域にいのちは通ってくるはずだ。線量が多少高い場所がのこっているとしても、だからといって健康被害が出るわけではない。あまり気分はよくないかもしれないが、どうってことはないのだ。そこに暮らしながら、必要なら除染をしていけばいいだろう。

双葉町は名実ともに消滅?

福島民報8月24日 http://www.minpo.jp/news/detail/201208243259 より

国の線量基準に不満 双葉町が再編協議拒否の理由示す

東京電力福島第一原発事故に伴う避難区域の再編で、福島県双葉町は23日、新潟県柏崎市で開いた住民説明会で区域の再編に現段階で応じていない理由を明らかにした。チェルノブイリ原発事故で立ち入り禁止とされた区域の放射線量と国の「居住制限区域」の線量を比較し、日本側が4倍も高いと指摘。国の基準で区域を再編した場合、町民の安全は守れないなどとしている。

町によると、チェルノブイリ原発事故では、年間積算線量が5ミリシーベルト超の地域の住民に他地域への移住を義務付け、現地は原則立ち入り禁止とされた。これに対し、国は50ミリシーベルト超を「帰還困難区域」とする一方、20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下は住民の帰宅や通過交通を認める「居住制限区域」、20ミリシーベルト以下は除染やインフラの整備を進め住民の早期帰還を目指す「避難指示解除準備区域」に再編する方針。町内については、この線量基準などに基づき3区域に再編する案を示しているが、町側は住民の安全確保などの観点から町内全てを帰還困難区域にするよう求めている。

双葉町当局がほんとうにチェルノブイリとの比較数字を持ち出したとすれば、当局の不勉強には呆れるが、この町の町長さんは髪の毛が抜けたの下痢したのという放射能デマが好きらしいから、町役場の担当者がこういうずさんな理屈を言うのは不思議ではないかもしれない。

「脱毛していますし、毎日鼻血が出ています」双葉町 井戸川町長

それは置いておくとして、この双葉町の意向が住民の合意であるなら、これは帰宅の意志放棄とみなされて当然だろう。この町の全域は自治体から完全に外して国の直轄管理地域にする。近隣の市町村で除染して出た土壌の貯蔵専用地域とする。とうぜん双葉町は名実ともに消滅する。こういうシナリオしかあり得ないだろう。早期帰還の放棄、それが住民の意思であるならば。そうであるならば、この地域を急いで除染してまた人が住めるようにする必要はなくなる。長期間にわたる一般人の立ち入り禁止区域として国が管理することになるだろう。それもひとつの良い方法ではある。帰還困難区域としたほうが住民の損害賠償請求は有利になる。面倒で手間も時間もかかる町再建より手っ取り早い。くりかえすが、住民がそういう選択をするならば、だ。

原則禁止から原則自由へ

いまの政府は基本的に、原則立ち入り禁止、だ。わたしはまったく逆で、原則立ち入り自由、原則居住自由。これだ。無謀だな。いちおう ICRP の「20ミリシーベルト」という数字に異論ははさまないでおくけどね。100ミリとちがって20ミリに科学的根拠はない。けど、まあ、ここは専門家じゃないし・・・。

政府の区分指定わたしの区分
帰還困難区域現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域公的に登録すれば出入り自由。だが長い時間はいないほうがいい区域。いる時間は自分で責任を持って決めよ。ただし妊婦は念のため立ち入り禁止。
政府が責任を持って20ミリ程度を目標に除染すること。
居住制限区域同じく20ミリシーベルトを超えるおそれのある地域出入りも居住も自由な区域。
除染しなくても数年で20ミリを割る地域が多いのだから、ムダなことはしなくていい。
区域のなかの特に高い場所だけ除染すれば十分。
避難指示解除準備区域20ミリシーベルト以下が確実な地域準備などしないで即時、解除。

以下のふたつは上と次元がちがう。事故直後に設定された警戒区域と、それだけじゃ汚染の程度からして問題だからあとから広げられたいわば便宜上の区分(飯舘村が代表的)。政府はこの古い区分をやめて、上にあるような、放射線量重視の区分に切り替えようとしている。行政区画とは一致しないので、地元市町村当局の抵抗もおきる。
政府の区分指定わたしの区分
警戒区域原発から半径20キロ圏内もはや意味がない。ただちに撤廃。
計画的
避難区域
事故発生後1年間の積算線量が20ミリシ−ベルトを超えると推計された地域これも意味がない。ただちに撤廃。

参考:首相官邸 
・新たな避難指示区域設定後の区域運用の整理
・区域見直し後の避難指示区域と警戒区域の概念図

そもそも、政府が住民を強制的に避難させたり居住を制限したりするのは基本的人権にふれる。いわば戒厳令にも近い。その行使は、やむを得ないばあいであっても最小限に抑えなければならない。原発事故のばあいは、事故発生直後には特例として強制的な避難指示があってしかるべきだった。しかしあくまで特例的にだ。汚染の状況がハッキリ把握できた今となっては、そういう特例としての戒厳令的な強制はさっさとやめるべきだ。なぜなら、科学的、疫学的に「危険性」のある地域は一部の例外を除いてほとんどないからだ。政府の数字で言えば、年間の積算線量が100ミリシーベルトを超える地域だけが、その例外地域になる。それ以下、とくに20ミリ以下は無視してかまわない程度の線量なのだから、これはもう本人の自由こそいちばん尊重しなければならない。そういうことになる。帰りたい人は帰っていい。いやなら帰らなければいいだけのこと。

以下のページが非常に参考になる。
・「チェルノブイリ原発事故と福島原発事故の比較に関して」 http://genpatsu.sblo.jp/article/47289931.html

さらに言うと、政府が示している積算線量は空間線量率の累積だ。それは高田純・札幌医科大学教授のことばを借りれば、夜も昼も一年中田んぼに立っている案山子(かかし)が浴びる線量。じっさいにそこで暮らす人間が浴びると予想される線量はもっと低い。建物の遮蔽効果と、夜は外にいないことなどが実線量が少なくなる理由だが、機械で計った環境線量に0.6をかけた換算値が便宜的にとられる。が、それでも高めの見積もりで、本当に浴びる数値はもっと少ない。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一県立医科大副学長は、こう証言している。

「環境レベルの線量にくらべて実際の(人が浴びる)線量は10分の1くらいというデータが出つつある」 (2012年9月9日、福島100年構想委員会第一回シンポジウムで)

つまり、政府が避難指示の基準としている積算線量の数値そのものが過大な想定だということになる。実態とかけ離れた数字ということになる。これはまったくたいへんな事実だ。多くの人々が、誤った過大な想定であまりにも過剰な避難をしてしまった。以下の参考データも同様のことを示している。

参考:早野龍五・東京大学大学院理学系研究科教授のデータ

参考追加補足(2012年11月4日):高田教授は実際のデータの4〜5倍も政府の想定が過大としている。高田純・札幌医科大学教授:『福島県、放射線量の現状 — 健康リスクなし、科学的計測の実施と愚かな政策の是正を』

豆腐の角でもアタマに当たれば人は死ぬか

いや、リスクはゼロじゃないから危ない、とか、放射線影響にしきい値はない、とか騒ぐ人間が出てくる。しかし、そういうのはたんなる阿呆、問題を長引かせて帰還を妨害したいだけなので、相手にする必要はありません。そんな方々は豆腐の角にアタマをぶつけて死んでもらったほうがいい。

以下、わたしは放射線医学についてもド素人、リスク学についても同じなので、そこを差し引いて読んで欲しいのココロだ。

最高速度違反による交通事故対策検討会資料より(内閣府・平成21年9月2日)

自動車の速度とその車にはねられたときの死亡率が上のグラフ。

時速30キロ以上だとスピードが上がるにつれて死亡の確率はどんどん高まる。反対に速度20キロ以下に落ちていくと速度との相関関係はなくなる。そして、実際の事故データが少ないためにあいまいなグラフになっている。5%くらいになっているが数字そのものに意味はない。ようするに「10%と0%のあいだ」、ぐらいの意味だ。軽い事故に終わるケースがほとんどなので事故として公的機関に報告されることも少ない。それがこのあいまいさの理由と推察されている。つまり、確率の数字を出すほどの統計上の有意なデータがない。確率ゼロと断定は出来ないのでグラフは便宜上、5%のまま下がらないように描いてある。現実的には時速10キロやそこらでは人は死なない。ゼロにしてないがゼロと同等。どこかで聞いたことのある話だ。放射線影響のリスク・カーブですね、まさに。

これまた大胆にいってしまうと、自動車の時速20キロあたりが、放射線量の年間100ミリシーベルトあたりになるのだろう。いい加減だが、だいたいそんな感じ。時速20キロを少し超えたくらいでは人はそう簡単には死ねない。放射線被曝も似たようなもの。擦り傷、打撲くらいはするかもしれないが、すぐに治る。運悪く骨折することもたまにはあるだろう。しかし死ぬことはない。つまり修復機能が働く。生き物とは、そういう自分で自分を治す能力を備えているから長く生きていられる。ガラス細工の人形ではない。これが、しきい値、つまりある数字以下なら大丈夫という話だ。

ちなみに、時速20キロは100メートルを20秒で走るくらいのスピード。これ以下で走って(歩いて)いて、たとえばジョギングや散歩していた人が停まっている車に当たって死んだら、それは笑い話にされるだけだろう。むちゃな極論とみなされるのも嫌なので補足しておくけど、妊産婦や幼児は時速20キロでぶち当たられると死ぬ確率は無視できない。なので、そのあたりは慎重に考えて、時速10キロ辺りをしきい値にしておこうか。

上の方で100ミリシーベルトを超えると危険性のある地域になると書いたが、だからといってそこに暮らすと必ずがんで死ぬという話でないのはもちろんだ。下の参考1の図を参照せよ。

もうひとつ付け加えなければならない重要な点。もともと100ミリシーベルトという数字は広島、長崎の原爆被爆者の厖大な追跡データから算出されたもの。つまり原爆という瞬間的な被曝がもたらした影響を表す数字であって、だらだらとわずかずつ被曝して合計が100ミリになったばあいの影響をしめすものではない。なので、福島の特定地域で仮に年間100ミリシーベルトの累積線量になっても、それでがんが増えるという疫学的根拠、科学的根拠にはまったくならない。短時間の被曝数値を長期間の累積値にも当てはめているのは、たんに放射線管理のための便宜的な措置だと、わたしは理解している。したがって参考1の図(放医研)はウソを書いている。わたしがまちがっていたら、誰か教えてください。瞬間的に100ミリ浴びるのと累積で100ミリ浴びるのとは誰が考えても同等ではない。なぜなら、放射性物質が体内に蓄積されることはあり得るが、放射線が蓄積されることはない、つまり足し算する意味はない、という当たり前の話。

ごく大雑把なたとえ話。時速100キロの車にぶち当てられれば、一発で人は100パーセント死ぬだろう。ゆえに時速10キロの車に10回当てられるとその人は100パーセント死ぬのか? 時速1キロの車に100回当てられたら死んでしまうのか? そういう足し算。年間100ミリシーベルトというのはそういう足し算。1パーセントも死なない。1万回当てられても死にはしないだろう。

しきい値がある、というのは常識的な人間の判断としても納得できる。学者先生とちがって、世間一般の人間はあんまり厳密なことなどどうでもいいし、細かいことよりももっと重要なことは人生にいくらでもある。ヒマな人だけ、せいぜい重箱の隅をつついて、どんなにわずかでも危険だ危険だと、おびえていればいいだろう。子供が自転車に乗るのは危ないから、ぜったい乗らせない親になったらよろしい。

参考:「小学生の自転車事故 〜対策は誰が どのように」(薮田 朋子)

そして野球少年は一人もいなくなった・・

さて、5年10年経って、莫大なカネをかけてチリ一つ無い立派な野球場が整備されるころには、野球少年は一人もいなくなって、みんなサッカー少年になってどこかに行ってしまって、だれも美しい野球場に帰ってこなかった。というようなことにだけはならないように、わたしは今から祈っている。


参考1:


放射線医学研究所・解説資料より

参考2:


国立がん研究センター『わかりやすい放射線とがんのリスク』より



 

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