脱原発神話 第10章 ユートピア / 科学から空想へ(5) ・・・倫理と偽善 [2012/7/29] [2012/9/11 補足追加]

この章では、脱原発と人権抑圧の親和性について考えます。

死刑台のエレベータ

脱原発の方向は正しいが、その運動のやり方や考え方に間違ったものがある、という見方がある。言い換えると、いい脱原発と悪い脱原発がある、ということになる。だから悪い脱原発はやめて正しく良い脱原発を語らねばならない、と。そうなのかなあ。無くすのは今や当たり前で、論議の必要さえない。議論するべきなのは方法論、どういう道程、スケジュールで廃絶するかだけだ。それが「まっとうな脱原発論」を追い求めることだ、と。そうなのかなあ・・・。

ジャーナリストの江川紹子さんは「まっとうな脱原発論」という言葉を使っている。で、根拠のないデマを流したり、放射線被曝への不安をあおったりする行為は、まっとうな脱原発の足を引っ張ることだと、ツイッター上でたびたび批判している。原発を止めるばあいの代替策が必要になることも、とうぜん主張している。しかし、世の中の脱原発に「まっとうな脱原発論」はあるのか。

いまの民主党政権は「脱原発依存」と言っている。党内には意見の幅が非常に大きい。反原発派と原発必要派がごちゃ混ぜになった政党だ。「脱原発」と言わず「脱原発依存」ということばを使う理由がそこにある。原発は完全に否定はせず、依存の程度を問題にしているかたちだ。だからいろんな解釈ができる。一部の反原発派は小沢一郎氏の離党とともに党外へ出た。菅直人氏は依然として党内にいるし、枝野幸男氏は原発については菅直人氏とほぼ同じスタンスにあって、政権内では反原発色をもっともつよく表に出している。エネルギー政策に責任を持つ経済産業省の大臣が枝野氏というのはまったく不思議な人選で、わたしには今の内閣はこの一点で恐ろしく異様に見える。

現政権として、閣僚個人はいろいろ自分の脱原発を公言しているが、それは「まっとうな脱原発論」なのだろうか。わたしには、彼らに「論」があるふうに見えない。何とはなしに脱原発ムードなのだが、中身がない。「理」よりも「感」を優先する、烏合の政権だと言っておく。

さて、まず第一に、脱原発そのものは正しい、という大前提を考えよう。原子力はこの世から無くすべき悪である。無くすのは早ければ早いほど望ましい。それが脱原発という考え方の基本だとしよう。その大前提が正しいとする根拠は何か。それを考えよう。正しいという論拠をきちんと科学的、工学的、経済学的、社会学的その他でもって論理的に説明しよう。遅かれ早かれ原子力を無くすことが唯一の選択肢だということを証明しよう。

江川紹子さんのツイッター例:(この項、2012年8月18日に補足追加しました)

この minorukyouta 氏の言っていることも相当に飛んでるすごい「論理性」だ(笑)。まあ、脱原発は感情論ではないということが言いたいのだろう。それはともかく、江川さんの言っていることを言い換えると、「原子力必要論」は、理性と科学と公共心に基づかない、単眼的な視野の狭い主張、ということになるのだろうか。そう読める。そんなこと言って良いのですかね・・・。

残念ながら、わたしは寡聞にして知らない。読んだことがない。江川さんが言うような意味での、そういう説得力のある脱原発必然論を見たことがない。

世の中のどんなものにも欠点はあるし、批判しようと思えばどうにでも悪口を並べることはできる。けれども、それでもってそのもの自体を全否定するわけにはいかない。対象を批判することと対象を全否定してしまうこととは違う。そのあいだには天と地の差がある。ふつうの世界では、欠点を最小化していくというのが人類の歴史、いわゆる進歩というものだ。そういう改良改善を否定してそのものをこの世から消してしまうという方向を選ぶとすれば、それなりに明確な説明がなくてはならないと思う。たとえて言えば、ある人を期間限定の懲役刑にするのではなく死刑台に送ると決定したとすれば、送るなりの理由を示さねばならない。あいつはイヤなやつだから絞首刑にしてしまえ、と言うとしたら、「みんな」がそう言っているから縛り首にしてしまえ、と考えるとしたら、それは法治国家ではない。リンチ社会だ。

原子力を死刑台に送る判決理由、それが脱原発論にはあるのだろうか?

無罪でないものは即、死刑なのか?

原発は特別だ!

福島のような大事故が起きるから原発は止める。要らない。大事故が起きるからすべてを止めていたら、人類はいまでも江戸時代かヨーロッパ中世か何かの暮らしをつづけていただろう。自動車、飛行機、鉄道、アルカイダが突っ込んだことを考えれば高層ビルも大事故、大崩壊の可能性があるので止めるべきだ。石油・ガスの爆発火災、一酸化炭素中毒、地球の温暖化と異常気象による限りない災害犠牲者。その危険を考えればこれらも使用をすべて即刻禁じるべきだろう。有名な巨大タンカー、エクソン・バルディーズ号の座礁による海洋汚染。ああいった環境汚染の危険を考えれば、石油の国際輸送も止めるべきだろう。

それでいい、江戸時代でいい、と言う人もいるかもしれない。まあ、そういう人は南洋のジャングルの中にでも移住してもらうしかないね。

現実には、自動車も飛行機もその事故死者数は過去どれほどのものだったか見当も付かない多さだ。犠牲者の遺体写真はテレビにも新聞にも一般の人の目に触れる場所にはいっさい公開されない。警察署で自動車事故の写真が掲示されていても、そこに遺体は写っていない。だから、毎日事故が起きていても大多数の、事故に無関係な人々は事故の恐ろしさむごたらしさを感じることはない。何の不安もなく毎日をクルマ社会で暮らしている。

東日本大震災で行方不明者の捜索や遺体の回収にあたった自衛官・警官などに心的外傷後ストレス障害 PTSD の発症が多く出た。過去の大事故でいえば日航ジャンボ機の墜落現場でも、遺体捜索に当たった関係者に同じことが起こったとされている。墜落現場はそれだけ惨いものだったということだが、遠くの一般市民にそれは実感として伝わることがない。もちろん事故現場を伝える日本の報道写真に遺体が写っていることはない。あの当時、事故現場で捜索に当たる自衛隊や警察関係者がぶらぶらと何もしていないような映像ばかりが流れていた。視聴者の一部から「ちゃんと仕事をしているのか」という非難の声が出たと言われるほどだった。実態は、遺体の捜索回収作業そのままでは悲惨すぎて、何もしていないような映像しか茶の間のテレビには流せなかった。それが真実だったとわたしは記憶している。なにしろ、数百の遺体がバラバラにちぎれて、焼けこげて、散乱していたのだから・・・

どんなに技術改良が自動車や飛行機に加えられても、これからも犠牲者がゼロになることはなく、これからも惨たらしい犠牲者は増えつづけるだろう。誰かが今日もどこかで死んでいる。いますぐ全廃しなければ惨たらしい死を止めることは不可能だ。

・ 世界と日本の航空機事故一覧(ウィキペディア)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E7%A9%BA%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
・ 日本の鉄道事故 (1950年から1999年)(ウィキペディア)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%95%85_%281950%E5%B9%B4%E3%81%8B%E3%82%891999%E5%B9%B4%29
・ 日本の鉄道事故 (2000年以降)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%95%85_%282000%E5%B9%B4%E4%BB%A5%E9%99%8D%29

原発の恐ろしさは特別だよ、自動車事故や飛行機事故みたいなちっぽけなことと比較するのがおかしい。そういう声がすぐに聞こえてきそうだ。原子力は絶対に人類とは共存できない、と。何が何でも、そう絶叫したいらしい。「人類」とか「未来」とか「いのち」とか、そういう大言壮語を連発したいのだろう。反原子力を語れば偉くなったような気分になれる。原発事故が起きると国が滅びる! とか騒いだ総理大臣もいた。

これは、原爆は特別なのだ、という主張と同じ根っこの上にある。かんたんに言ってしまうと、原爆による死傷者よりも通常兵器で殺された人間のほうが圧倒的に多く、今でも通常兵器での死傷者が世界で増えつづけている。ところが、核兵器の方が特別に悪い存在だという強い思いこみがあるので、原爆の犠牲者は普通の爆弾の犠牲者よりもずっと尊い特別の存在だと祭り上げられた。核兵器を無くせば世界が平和になる、そういうナイーブな思いこみがある。(わたしは核兵器を肯定しているわけじゃないけどね、もちろん。)

そして、3基もの原子炉がメルトダウンした!!。ほんとうに信じられないことが起きた。これを日本の危機と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。まったくそのとおり。史上最悪の原発事故だった。

しかし、この史上最悪の原発事故が、放射線の犠牲者は一人もいないという事実とどう結びつくのか、結びつけて考えたらいいのか。落差が大きすぎて、なかなか結びつけられない。もちろん、数万人の避難者を生んでしまったこと、その影響の大きさを、わたしは軽く言うつもりはないが、事故の発生経過とその結果を全体としてみる限り、この事故があったからといって原子力を全否定するには無理がある。論理性に欠けている。放射能の恐怖を訴えても、死者がいない現実を前にすると腰砕けになる。さかんに不安をあおっても説得力がない。

とにかく不安だから死刑にする。それは無茶でしょう? 文明人の判断としては。

倫理と感情

結局、アタマを冷やして論理的に説明できる脱原発の理由はない。原子力に死刑を言い渡すほどの合理的理由はない。理由もハッキリさせられないで死刑判決を出すようならば、それは暗黒裁判と呼ばなければならないだろう。そういう結論になる。ちがうかな。

そこで死刑の理由として最後に残るのは、「倫理」だけだ。倫理的に良くないから無くす、そういう種類の反原発論だけが残る。倫理で判断することは悪くないことのように思える。いかにも人間的な好ましい決定方法に思える。経済的理由つまりゼニカネでしかものごとを考えないのは汚いやり方だ。そう思える。しかし「エネルギー政策にも倫理を入れろ」という主張はほんとうに好ましいことなのか。

原子力は倫理に反するエネルギー源である。原子力を進めることは人間にとって「悪」である。これがエネルギー問題に倫理を持ち込みたい人の主張だろう。経済産業省・資源エネルギー総合調査会の基本問題委員会で、枝廣淳子委員は以下のような発言を繰りかえした。
「基本問題委員会の位置づけと倫理的側面について」

• 原発事故により、今なお福島県だけでも 16万人自宅に戻れないほどの社会的影響
• 今後長期的に人が住めない場所を生んだ
• 人体や生態系への影響
• 未解決で先送りされている核廃棄物の問題 (世代間倫理)

そしてその上で、「経済的側面だけで議論し結論を出すのは、未来世代に申し開きのできない、倫理にもとる行為」と、反原発の主張をしている。

しかし、福島と同様の事故がどの原子力発電所でも起きるという根拠は示さない。一つの事例でもって全部そうだと断定するのは乱暴だろう。16万人のうち現時点で本当に戻るべきでない人数はいったい何人か、戻ってはいけないと断定する根拠は何だろうか。

政府の避難指示によれば、下の図の「警戒区域」「計画的避難区域」をあわせたおよそ8万7000人が避難の対象者だ。16万との差およそ7万人は指示無しで避難したということになる。

避難者の概数 (政府原発事故調査報告書より)

空間線量率のとくに高い地域は、浪江町、大熊町、双葉町のほぼ全域。この3町の総人口はおよそ3万6400人。さらに飯舘村のほぼ全域、葛尾村の一部、富岡町の一部、南相馬市の一部、といったところが高い地域といえる。これらの市町村の総人口は9万8200人ほどだが、避難指示が出た同じ町村内でもまったく問題のない地域が大半を占める。線量率の高い地域だけに限ればこの5分の1以下になるのではないか。したがって、避難を勧めることが望ましいと言えるのは、すべてを合わせて5〜6万人くらいというおおざっぱな数字になる。避難していると言われる16万人という数字からはほど遠い。つまり10万人もの多くの人が、メリットの少ない避難、まったくムダな避難をしてしまった。原発サイトから半径20キロの避難も線量率からはまったく無意味だ。

(補足追加:この避難区域については第11章「帰宅への遠い遠い道」にも書いたので見てください。)

国立がん研究センター:
・ 「100mSv未満の線量なら発がんリスクなし」

文部科学省:放射線モニタリング:
・ 空間線量率マップ・積算線量推定マップ
・ 継続して実測している地点における平成23年3月11日から平成24年3月11日までの積算線量の推計値の公表について(平成24年3月21日)

内閣官房・放射性物質汚染対策顧問会議:
・ 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書

人体や生態系への影響というからには、影響があると科学的医学的に断定するつもりなのだろうか。これらは枝廣氏の言うような倫理にかかわる問題ではなく、あくまで医学、疫学、生物学などの科学的データで判定する問題だ。まして枝廣氏は勝手に影響があると決めつける立場にはない。それとも氏は「影響がある」と言うことで差別と偏見を広めたいのか。現実には、これまでも、一般住民の人体に影響するような被曝があったというデータはまったく出ていない。影響があるというデマは腐るほどたくさん流されたが・・。

枝廣氏に望むのは日本語の正しい使い方だ。こういう事故が起きたからもう原子力はイヤだ。それは倫理的側面とは言わない。それは感情的側面と言う。氏の列挙したうちで唯一、倫理的側面の対象と言えるのが「核廃棄物の問題」(世代間倫理)だろう。それ以外は倫理とは何の関係もない。

わたしなりに、原子力のかかえる「倫理的側面」を考えてみた。以下の通り。

これらを一つ一つ見れば、「倫理的に許されない犯罪だ」と決めつけることはできないと分かるだろう。

幻想の未来世代に憑依する人々

まず廃棄物処分。

以下しばらく、いい加減で無責任な話をする。こいつ何を言ってやがる!と感じられたら、それはわたしの目的達成だ(笑)。

何万年先まで人類の行く末を心配するという、気の遠くなるようなことをマジに口にする人々がいる。本気で心配しているのだろうか。もし本気で未来の人を心配するとどうなるのか。数百世代、数千世代にわたる何億人どころか無限大の数の人類のことを心配するとしたら、いますぐ、あなたはすべての資源の消費を止めなければならない。呼吸することさえも。未来に負の遺産をいっさい残さないためには、そうするほかないだろう。未来人が使うべき資源をあなたは勝手に先食いしていいのか。未来世代の許可を得たのか。

遠大で高尚な話をしたがる人々は結局のところ、何かを語っているようで実は何も中身のあることを語ってはいない。1年先のことさえ責任を持って語れない人が、なぜ数千年先のこととなると偉そうに語れるのか。それは無責任だからだ。自分は責任をとるつもりが初めから無いからこそ、遠い未来の世界の「責任」問題を語ることができる、という笑うべきパラドックス。この意味、分かるよね? 

人間ができるのはせいぜい100年先の話までだ。それも偉い先生だけがそうできる。凡人は今日明日、がんばってみても10年後くらいまでが関の山。高レベル放射性廃棄物やプルトニウムの数千年、数万年先まで考えろというのは、もっともらしい主張に見えてじっさいは何も意味しない空理空論だ。

誰も彼もが、後ろめたさもなしに化石燃料を燃やして楽な生活をしながら、温室効果ガスをコントロール不能のまま環境に大放出しつづけている。そのゾッとする事実に比べれば、放射性物質の方が体積はけた違いに小さいし密閉管理しやすい。放射性廃棄物の最終処分と使用済み核燃料の保管という問題は、やっかいな代物にちがいないが技術的には解決する道がじゅうぶんある。ただし、政治的に、社会的に、どこの場所でいつごろやるかという点だけが決定できないで残るだろう。

しかし、放射性廃棄物問題の最終解を今すぐに出す必要なんか求めないことだ。この世には、解を出してからでないとやってはいけないこともあるが、時間をかけて解を出せばいいことがある。放射性廃棄物問題の最終解がでていないと危険がどんどん深まっていく、取り返しがつかなくなる、というなら話は別だが、そんなことはない。原子力に限らず、人間は多くの場面で「問題の先送り」でもってこれまで生きてきた。全部を解決してから生きてきたことなんか一度もない。ちがいますか? 文明とか歴史とかいうものはそういうものだろう。最終解が全部出ている、結論がみんな分かっている、そんな未来は絶望でしかない。ニーチェじゃあるまいし。

映画『カサブランカ』の有名なセリフを思い出すじゃないか。

女:"Where were you last night?"
ボギー:"That's so long ago, I don't remember"
女:"Will I see you tonight?"
ボギー:"I never make plans that far ahead"

夕べはどこにいたの?
そんな昔のこと、覚えてないね
今夜、会ってくださる?
そんな先のことは分からない

そんな先のことは神様だけが考えていること。神様にしか答えはない。今の人間に答えを求める方がまちがっている。

わたしは不真面目なことを書いているように思われるかもしれないが、至って真面目だ。だいたい人類が何万年も先まで今のままでいること自体が信じられないでしょ?。まあ、人類はたぶん地球上からいなくなっているか、そうでなくても今の人類とは相当にちがう生き物になっているだろう。絶滅してなかったとしても、何千何万年先の未来人が、太古の原始人(つまり21世紀初めのわれわれ日本人のこと)の倫理的判断をどうこう論じて、昔のやつはけしからんとか、許せないとか、責任をとれ、とか思うわけがないでしょ?。

たとえば今、ホモサピエンスが初めて道具や火を使うようになった大昔の話を持ち出してきて、それを現代人が「倫理」で評価、非難したって意味はない。キューブリックの『2001年 宇宙の旅』、あの冒頭の場面。人類の祖先が初めて道具を手にする。そしてその道具を使った初めての仕事は仲間を叩き殺すことだった。殺人に使ったこん棒を空に投げあげると、それは高く高く舞い上がって宇宙船の姿に変わる・・・・。日本人は1000年前何をして生きていたか。5000年前は何をして暮らしていたか。1万年前は・・・。そのときのホモサピエンスの判断や決定や発明やらを取り上げて、それは倫理的ではなかった、と評価して何の意味があるのだろうか。

だから、原子力はそういう未解決な問題を先送りしているからダメだ、止めろという論理は、じつにナンセンスなのだ。未来への責任とかいう主張が倫理的にいかにも美しいことばに聞こえることは認めるが、あまりに小学生的な幼児思考でお話にもならない。ひとことで言ってしまえば、偽善そのもの。現代人はとりあえず考えられる範囲のことを考えればよろしい。最低限、数十年くらい先までの管理責任を考えればよろしい。そこから先、未来世代の知恵にお任せすべきことはお任せすればいい。数十年経ったらまたそのときの現役世代がつぎの数十年先のことを考える。現代人が何もかも先回りして心配してあげなければならないほど未来人はバカじゃないし、石頭でもないだろう。

わたしは、未来世代を勝手に代弁するな、と言いたい。反原発な方の多くは、自分を完全無欠な神様の目線にしてモノを語ろうとする。佐々木俊尚氏の言い方ではないが、架空の未来世代に憑依して、今の時代に生きる我々に説教をたれる。そういう傲慢なスタンスは勘弁して欲しい。あなたは未来人の代表でもないし、未来からの使者でもないのだから。

参考:太宰メソッド

現代のガリレオ裁判

つぎ、過疎地や下請け労働者に危険な原発を押しつけるな、という問題。

あるリスクを引き受けることでその対価をもらう、そういうことはこの世の中の生業となっている。対価を払う側ももらう側も、そのことで責められる理由は何一つない。そのことを倫理的でないと糾弾するのは、部外者、観客のたんなる無責任さの表れでしかないだろう。

過疎地は過疎地のままに放置すればいい、とでも言いたいのなら、そう言えばいいだろう。地元に働き口がなければ都会に出て行けばいいじゃないの、とでも言いたいなら、そう主張して原発は出ていけと叫べばいいだろう。けれども、それではいけないと原発を誘致した。地域を活性化したいと考えた。そのことを「倫理的でない」と、とがめる権利は誰にもない。

警官は警官の、消防士は消防士の、自衛官は自衛官の、それぞれ特殊なリスクをかかえる職業に就いている。航空パイロットはパイロットの、トラック運転手は運転手の、漁師は漁師の、サーカスの空中ブランコ乗りはブランコ乗りなりの、ビルの建設作業員は作業員なりの、それぞれ特別なリスクをかかえて暮らしている。農家も同じだ。そして原発で働く作業員ももちろん。多かれ少なかれみんながそうして働いて、そのことで報酬を得ている。誰かがその人にリスクを一方的に押しつけているわけではない。奴隷に命令するように働かせているわけではない。

たとえば、漁業で暮らす人たちは、万一海で遭難すれば生きて帰っては来ない。そんなリスクを漁民に押しつけるのは倫理的に許せない、と思うなら、きょうから魚を食べるのを止めたらいい。そうすれば誰もわざわざ危険な海に出て魚を獲ってこなくて済むだろう。漁船で遭難する人はいなくなる。なんて幸せでいい世の中になることか。人を危険な目に遭わせて獲ってきてもらった魚を、あなたは倫理に反する後ろめたい思いで食べる必要はなくなる。どうしてもサンマが食いたい人は自分で獲りに行けばいい。漁業は禁止したらよい。漁師もきっと喜んでくれるだろう。

他人にリスクを押しつけることは倫理に反する。原子力を進める企業は倫理に反して利益を得ている悪徳企業であり、原子力容認派は利己的な悪人である。という話。その一方で、一般の国民はみな何の罪もない被害者で、搾取されていて、抑圧されていて、差別されていて、虐げられている。原子力でさっぱり利益を受けていない人が危険なリスクにさらされるのはけしからん。不平等は許せない。そう主張する人もいる。たしかに。たとえば、集団登校中の小学生が車にひかれれば、そういう話になるだろう。子供は自動車でゼニをもうけているわけじゃないからね。

これもまた、ひと言で言えば偽善。

枝廣氏のように、あるいはドイツの脱原発のように、どうしてもエネルギー問題に倫理を持ち込むとすれば、つぎのような問いも可能だ。

再生可能エネはコストを電気料金に上乗せしつづける。そのことで貧乏人からカネを巻き上げて再生可能エネルギー事業者を太らせる。"柔らか銀行"を率いる正義の会長のアタマが目に浮かぶ。その倫理的側面をどうしてくれるのか。エネルギーの安定供給やエネルギーの安全保障、あるいは経済性を切り捨てて、この国がエネルギー危機、経済危機に陥ったばあい、経済的な弱者は大きな苦しみを被ることになる。それはどうしてくれるのか。

そもそも脱原発といっても、実質は天然ガスや石炭火力へのシフトであって、温室効果ガス放出という面でも倫理的に正しいとは言えない。風力や太陽にしても自然環境に影響を与える点、分散型なので送電線が野山のそこいらじゅうに張り巡らされることになる点、あきらかに環境破壊要素がある。自然景観も破壊する。そのことは間違いなく倫理に関わってくる。そういう言い方をしていくと「倫理」にはきりがなくなるだろう。どこまで考慮すれば倫理的に満足できるのか。

しかも、わたしらの世代以上の、石炭の時代を知っている日本人は、そのころ炭鉱事故のニュースを何度となく見聞きしたものだ。国内には北海道から九州まであちこちに炭田があった。そして、落盤、ガス爆発、炭塵爆発で多くの炭鉱労働者が犠牲になるのを見てきた。石炭はまったく命がけのエネルギー源だった。それは今でもたいして変わらないだろう。ここにも倫理はつきまとう。

・ 炭鉱事故(ウィキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%AD%E9%89%B1#.E7.82.AD.E9.89.B1.E4.BA.8B.E6.95.85

脱原発にあらざる者、人にあらず

当たり前だが、倫理という物差しには個人差がある。あいまいで主観的。枝廣氏にとっての「倫理」は誰にも共通する絶対普遍なものとはいえない。言うまでもなく、その判断基準を他人に強制することはできない。ところが、倫理的判断がすべてに優先するという信念に凝り固まった人にとっては、科学技術とか経済とかで論じる人が低級な人間に見えてくるらしい。自分の倫理が普遍的だと思い込むと、その判断基準に合わないものは不正なもの、邪悪な人ということになる。

工学的に間違っていたばあい、その間違った主張をした者を工学の学会で処罰しようとか責任を取らせようとかいう話にはならない。たとえば、アインシュタインがニュートンの墓を破壊することはない。工学の間違いは工学で正す。経済的な論理・主張が誤っていたとしたばあい、その主張をした者が経済学や経済論壇の世界で倫理上の罪に問われることはない。経済論の間違いは経済論で正す。それが常識的なふつうの世の中だ。

しかし、ある科学理論、ある工学技術、ある医療技術、ある経済政策などが、「倫理的に間違っている」と判定されたばあいは違う。その理論を考えた学者、技術を生み出した技術者、その経済政策を実行した政治家等々は罰の対象、責任を取らせる対象、謝罪させる対象、にされる。それが当然になる。科学も工学も医学も超えたところで裁く。それは中世の宗教裁判にも似てくる。ガリレオ裁判に似てくる。あるいは中国の文化大革命の熱狂に似てくる。崇高な形而上学が、穢れて罪深い科学や経済学に介入しはじめる。

悪は退治しなくてはいけない。悪人は処罰しなくてはいけない。「倫理」が叫びはじめる。精神科医を自称する香山リカ氏は「心の病気」と言った。原発必要論者は病人である。病人は「治療」してやらねばならない。治療してその人にとりついた悪霊を退治してあげなければならない・・・。まるでオウム真理教の「ポア」を連想させてくれる。

こうした流れが何をもたらすか。倫理に反すると判定した人への攻撃。正義の裁きが始まる。倫理の名の下になされるので誰もそれに逆らえない空気が生まれる。民主党政権がエネルギー政策について一般国民の声を聴くという建前で全国で開いた意見聴取会。脱原発にそぐわない異なる意見を言おうとすると、会場からは罵声が浴びせられる。その聴取会から電力会社社員を閉め出すことなど朝飯前だった。政府自体が締め出しを決めた。

それくらいなら、まだ序の口だろう。第4章にも書いたが、人災論がこの国では神の声になった。国会の原発事故調査委員会報告をまとめた黒川清委員長の、神の目線的な総括が典型的だ。それは工学的分析とはほど遠く、ある種の倫理基準による決めつけ、「始めに人災ありき」、のバイアスをかけた報告書になった。

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書(要約版)

この「はじめに」の一文は黒川氏のいわば誇大妄想をつづった駄文だ、わたしはそう思う。こういう「形而上学」や「文学」は、大前氏が言うとおり何の役にもたたない。

参考:大前研一:国会事故調の報告書は「原発の安全」に何の役にも立たない http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120723/316908/?ST=business

エネルギー問題の議論に倫理を持ち込むことの危うさをもっとつよく意識したほうがいい。客観性や事実をないがしろにした倫理主義はかならず暴走する。精神力で問題が解決できるかのような空想を生む。欲しがりません勝つまでは。もし、反原発、脱原発の人々が自分たちの倫理を最大のよりどころにして、自分たちの信奉する倫理を振りかざすとき、それは他者への人権抑圧と暴力性のなかに落ち込んでいくだろう。この倫理をふりかざす空気を甘く見てはいけない。何となく誰かを悪人にして、自分は観客席で安心している。ふと気がつけば、隣の席にファシズムが座っている。



 

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