福岡県の芦屋町が「脱ケータイ電話宣言」をしたそうだ。
こどもに携帯電話は要らない、ということらしい。いじめ、犯罪のもとだ、いう。
ま、かってにしてくれ。
こどもに持たせるな、と言うなら、そう言う大人も持つなよな。大人が持つのも同じく犯罪のもとだ。
携帯電話がニッポンに登場してもう20年くらいは経つのか。
わしはこれまでの人生でケータイがなくて困ったことは一度もないぞよ。
何の取り柄もないわしだが、これだけは自慢できる。
ケータイは現代人の必需品だ、なんて考えたこともない。
なくてはならない道具ですねえ、なんて平気で言っている人も少なくないが、
生き方が根本的にまちがッておるんでないか。
携帯電話なんかなくても死にはせんがな。
脱ケータイのニュースで、子供に携帯電話を持たせる派のお母さんは、あいかわらず「GPS機能が欲しい」なんてアホなことをテレビで言っていた。アタマがいかれている。
続・子供をめぐるウソとデマ補足1:ほんとうに必要なときに役に立たなくなるのがケータイだ。
地震が起きたとき、決まってニュースに流れるのは、x x 県の全域でケータイが通話不能になった、という話だ。通話殺到。持っている意味が全然ないね。
子供や高校生が事件に巻き込まれたとき役に立たなくなるのがケータイだ。犯人が自分を襲っているときに親にケータイしているヒマがあるのか。考えなくても分かる。
あの小さい小さい機械をいじることのむなしい姿。悲しい人生をおもうと涙が出る。
いつもいつも電話を持って歩かないといけないなんて、そのさびしいこと。
いつでもどこでも電話を持って歩く!! なんでそんなもの持って歩かねばならないのか。
いつもいつも、溲瓶(しびん)を持って歩いているような話だ。どこへ出かけるにも溲瓶を持って。小便したくなったら、そこにする。
ケータイ人間のサイズに全然合ってないのは、致命的だ。
電卓を見たらいいが、小さいことはいいことだ、軽いことはいいことだ、薄いことはいいことだ、、
という時代は、とっくの昔に終わった。電卓が出たての頃はその小ささを競っていたようなものだった。
しかし。
モノは小さければいいというモノじゃない。小さい方がカッコいいというものじゃない。
男性のあそこだって、それ相応のサイズ、大きさが必要だ。人間の最適サイズというものがある。
したがって、電卓はいまや大判でなければ使いたくない。大人の手の大きさに合うような、大きい方がずっと使いやすい。そういうことが、みんな分かってしまった。
ところが、携帯電話機と来たらどうか。あんなもの大の大人がいじっている姿は最低だ。あんな小さいインターフェイスにいろんなモノを詰め込む、そういう思想。そういうブンカ。技術屋はアホだから小さいところにいっぱい入れることが技術の進歩だと信じ込んでいる。この貧しい発想。
こういうビンボーな文化は、遠からず滅びる。小さくて多機能です、なんてのは、カプセルホテルは快適ですねえ、最高の寝心地でした、と喜んでいるのと同じ。さびしい、かなしい人生だ。
だれも気がついていないかもしれないが、ケータイ・ブンカは、確実に、滅亡に向かってひた走っているのだ(笑)。
補足2:関係ないが、この文章を書いていて、「しびん」は「しゅびん」のなまりだということを知った。それと、「しびん」というのが「尿瓶」、「溲瓶」の2種類、かな漢字変換されて出た。溲瓶のほうが正しい。しかし、難しい字だね。
補足3:ケータイで人とつながるというスタイルは、これは軍隊から来ている。いまのニッポン人は軍隊ごっこをしているようなものだ。携帯電話のルーツは固定電話ではなくてトランシーバだ。むかしの人気テレビドラマ「コンバット」を思い出すが、「こちら、チェックメイト・キング・ツー。どうぞ・・・・」とケイタイ無線機で通話していたね。今のニッポンも、軍隊的人間関係をなんの疑問もなくうけいれているわけだ。にんげん、自由を捨てたい、らしい。どこへ行くにもお互いにヒモで結ばれていたいらしい。