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2009年1月アーカイブ

どこまでも暖冬

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明日から猛吹雪になる、なんてことを書いてから2日。吹雪の「ふ」もない。降った雪は、春の雪だ。降っては解ける春の雪。

まだ1月、寒中だというのに屋根にはほとんど雪がない。ちょっとまずいんじゃないか。

おかげで毎日、剪定がつづく。
今朝はマイナス12度まで行った。雪が降らないのはいいが、こういう雪がない冬ほど低温になりやすい。雪が降るとあんがい寒くない。雪は空気をふくんでいるので保温性がいい。天気が良い方が放射冷却がもろに来て、最低気温がぐんと下がる。そうすると桜桃の花芽がやられる。まあ、まだ花芽そのものは膨らんでいないので、低温が来てもそれほど心配はしなくていい。

明日は旧暦元日だ。きょうは、したがって大晦日。
きょう、畑仕事を始めてみた。桜桃の剪定だ。雪は50センチくらいは積もっているようだった。明日からはまた猛吹雪になりそうな予報だから、始めてみたものの、すぐに中断、お休みということになる。

snowshoe.jpg深い新雪の上を歩くには「かんじき」が必須だ。
去年の冬、ためしに西洋かんじき(スノーシュー)を買った。今年が2年目になる。写真手前が当地でふつう使われている和風かんじき。むこうがスノーシュー。和風は2500円。スノーシューは一ケタ上の値段がする。

スノーシューはいろいろなタイプがあって、大きく分けて平地用と登山用がある。登山用は重いザックを背負って使うので重みに耐えるようにがっしりしている。平地用はただ歩き良さだけを追求したもので、登山用に比べると安い。

去年使ってみて、スノーシューは前に進むには快調だが、うしろに進めないのがかなりの難点だということを実体験した。もちろん、これは買うときから分かっていたことだから、仕方はない。それは、「歩くスキー」と同じように、つま先の方が固定されていて、かかとの方は歩くと浮くようにできているからだ。

雪の季節に畑に行く目的は三つくらいある。ひとつは2月頃から果樹の剪定をするために自分の畑まで残雪の上を歩いていく。もうひとつは、真冬に新雪がどかっと積もって枝が折れる恐れが出たときに払い落とすために畑に行く。それから、積雪がどんどん増えて果樹の枝が雪に埋まるほどになったとき、スコップで掘り出すために行く。

このうち、枝の掘り出しはスコップを持って前後左右に動かねばならないから、スノーシューではうまくない。やはり和風かんじきに限る。去年、枝の雪落としのばあいはスノーシューでもどうにか使えた。構造ががっしりしているので、多少無理な使い方でも壊れない。着脱も、ヒモで結ぶ和風かんじきに対して、スノーシューの方はカンタンだ。ここらは、ケースバイケース、好みで両方を使い分けることになるだろう。
暖冬で雪も積もらない。もう畑仕事を始めている農家も何人かでてきた。
我が家もそろそろ畑に出るかどうか。農家なのに農業の話題を書かないのは、やっぱり変でしょな。
それにしても雪が異常に少ないのは困ったモノだ。春(の天気)がおそろしい。

10日くらい前に、肥料価格の高騰分を国が7割補助する、とかいう露骨な選挙向けバラマキの説明会があった。わたしは餅つきと重なって行かなかった。行く気もなかった。こんなアホらしくもミミッチイ手段で農家の自民党離れをおさえようなんて、いまどきよくやらかしているものだ。石破もボケたな。

手作り産直ソフトは7日限定のお試し版をつくってみた。こういうお遊びは、やり出すとキリがない。インストールしてから7日過ぎたら起動しなくなる、時限装置付き。


ああ、ケータイ

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福岡県の芦屋町が「脱ケータイ電話宣言」をしたそうだ。
こどもに携帯電話は要らない、ということらしい。いじめ、犯罪のもとだ、いう。
ま、かってにしてくれ。
こどもに持たせるな、と言うなら、そう言う大人も持つなよな。大人が持つのも同じく犯罪のもとだ。

携帯電話がニッポンに登場してもう20年くらいは経つのか。
わしはこれまでの人生でケータイがなくて困ったことは一度もないぞよ。
何の取り柄もないわしだが、これだけは自慢できる。
ケータイは現代人の必需品だ、なんて考えたこともない。
なくてはならない道具ですねえ、なんて平気で言っている人も少なくないが、
生き方が根本的にまちがッておるんでないか。
携帯電話なんかなくても死にはせんがな。

脱ケータイのニュースで、子供に携帯電話を持たせる派のお母さんは、あいかわらず「GPS機能が欲しい」なんてアホなことをテレビで言っていた。アタマがいかれている。
続・子供をめぐるウソとデマ

補足1:ほんとうに必要なときに役に立たなくなるのがケータイだ。
地震が起きたとき、決まってニュースに流れるのは、x x 県の全域でケータイが通話不能になった、という話だ。通話殺到。持っている意味が全然ないね。
子供や高校生が事件に巻き込まれたとき役に立たなくなるのがケータイだ。犯人が自分を襲っているときに親にケータイしているヒマがあるのか。考えなくても分かる。

あの小さい小さい機械をいじることのむなしい姿。悲しい人生をおもうと涙が出る。
いつもいつも電話を持って歩かないといけないなんて、そのさびしいこと。
いつでもどこでも電話を持って歩く!! なんでそんなもの持って歩かねばならないのか。
いつもいつも、溲瓶(しびん)を持って歩いているような話だ。どこへ出かけるにも溲瓶を持って。小便したくなったら、そこにする。ケータイ

人間のサイズに全然合ってないのは、致命的だ。
電卓を見たらいいが、小さいことはいいことだ、軽いことはいいことだ、薄いことはいいことだ、、
という時代は、とっくの昔に終わった。電卓が出たての頃はその小ささを競っていたようなものだった。

しかし。
モノは小さければいいというモノじゃない。小さい方がカッコいいというものじゃない。
男性のあそこだって、それ相応のサイズ、大きさが必要だ。人間の最適サイズというものがある。
したがって、電卓はいまや大判でなければ使いたくない。大人の手の大きさに合うような、大きい方がずっと使いやすい。そういうことが、みんな分かってしまった。

ところが、携帯電話機と来たらどうか。あんなもの大の大人がいじっている姿は最低だ。あんな小さいインターフェイスにいろんなモノを詰め込む、そういう思想。そういうブンカ。技術屋はアホだから小さいところにいっぱい入れることが技術の進歩だと信じ込んでいる。この貧しい発想。

こういうビンボーな文化は、遠からず滅びる。小さくて多機能です、なんてのは、カプセルホテルは快適ですねえ、最高の寝心地でした、と喜んでいるのと同じ。さびしい、かなしい人生だ。
だれも気がついていないかもしれないが、ケータイ・ブンカは、確実に、滅亡に向かってひた走っているのだ(笑)。

補足2:関係ないが、この文章を書いていて、「しびん」は「しゅびん」のなまりだということを知った。それと、「しびん」というのが「尿瓶」、「溲瓶」の2種類、かな漢字変換されて出た。溲瓶のほうが正しい。しかし、難しい字だね。

補足3:ケータイで人とつながるというスタイルは、これは軍隊から来ている。いまのニッポン人は軍隊ごっこをしているようなものだ。携帯電話のルーツは固定電話ではなくてトランシーバだ。むかしの人気テレビドラマ「コンバット」を思い出すが、「こちら、チェックメイト・キング・ツー。どうぞ・・・・」とケイタイ無線機で通話していたね。今のニッポンも、軍隊的人間関係をなんの疑問もなくうけいれているわけだ。にんげん、自由を捨てたい、らしい。どこへ行くにもお互いにヒモで結ばれていたいらしい。

農地の登記

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農家をやっていると土地のことは避けて通れない。農地の売買はべつに珍しくもないので、法務局のお世話になることになる。

去年も農地の購入をした。その土地そのものは農地としては役に立たないシロモノだが、べつの理由でそこを買うことが必要なのだった。もう10年くらい前から耕作放棄、放任してあるので荒れ放題になっている。雪が解けたら一度きれいに整理しないといけないだろう。草ぼうぼう、柳の木にょきにょきではまずい。

土地を買えば当然、そこについて不動産登記しなければいけない。農地の場合は売買まえに県、農業委員会の許可も必要だが、農家同士のあいだの売買はふつうはすぐ許可される。いままで何回、不動産登記をしたのだろう。農地の購入だけでなく、農地の生前贈与にかかわることとかもあった。4回くらいになるかな。そのたびに法務局や市役所を行ったり来たりした。司法書士だか行政書士だか(どっちか知らないが)に頼めば楽かもしれないが、そういうのは嫌いなので手続きはみな自分でやって来た。面倒といえば面倒だがこんな程度のことに何万円も払って人に依頼するのはバカバカしい。慣れればこんな簡単なことはないからだ。だから今回もそうした。農作業のない冬季が冬季シーズンなのだ。

現代だとパソコンでインターネットを通じた電子登記することもできる世の中なので、法務局サイトをちょっと見てみた。が、むずかしいことが書いてあって、とてもアタマが痛くなりそうだった。農家同士の農地の売買なんかでは、電子登記は縁がないだろう。と思う。売る方も買う方もパソコンを使いこなさなければいけない。そいつは永遠に無理だ。

興味ある人は下へ行って勉強するべし。

法務局民事局
登記情報提供サービス



今日は雪下ろし日和だった。機械小屋の雪を下ろした。汗をかいた。
今年の場合、吹雪つまり強風をともなった雪の日が大半だった。なので屋根には余り積もっていない。風下側(東面)に余計に積もっているが、それでもいつもの年と比べると少なくて、せいぜい股下程度だ。
母屋はきのう東側だけ下ろした。作業小屋は東西方向の平屋根でなおさら雪は積もっていない。今のところ、こんな楽な冬はない。もっとも、これから2月上旬にかけてが問題だ。

夕方は餅つき。今回は2升でかんたん。

産直管理システムの VisualBasic .Net 版がほぼ完成段階にきた。まずは、試作版としては必要最低限の多彩な機能を備えている。インストーラをダブルクリックすれば、WindowsXP にインストールすることもできる。付属ファイルをふくめて全体で25メガバイトほどのプログラムになった。

こういうソフトウェアの構築作業をしていると、我が家のパソコンの非力を痛感する。メモリが768MBで、昨今のマシンの1GB標準装備にくらべて落ちる。プログラムをゴリゴリとコンパイル、ビルドを繰り返しているとメモリがどんどん少なくなってくる。ほとんどアップアップ状態だ。新しい機械もそろそろ欲しい。マルチプロセッサ、2GBメモリが最低必要条件かな。

パソコン周りでいえば、送り状伝票を印刷するドットインパクト・プリンタが、去年暮れから原因不明の暴走をくりかえすようになった。まったく印刷は不能で、きょう修理に出した。こいつも新しい型に買い換えたほうがいいようにも思うが、とりあえず修理。今はシーズンオフだから助かる。これが収穫期だとえらいことだった。

産直ソフトについては以下。

いま、「産直ソフト」でネット検索してみたら、1本12万円というのがあった。ここらが相場なのだろうかな。我が家なら5万でいいよ(笑)。販売予定なし。買う人もいないか。キャッチフレーズ:貧乏農家のつくった、貧乏農家のための産直ソフト。

冬休みの宿題か

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雪が積もらなくて仕事もなく、毎日何をしているのだろう。我ながらあきれる。
そんな1週間が過ぎた。今夜から雪がかなり積もりそうなムードだから、さあ、大変。かな。

ところで、この1週間、本読みとコンピュータいじりで過ごしていた。
本は時々買うのだが、ほとんど読まない。なんだそれ。読まない分けじゃなくて、ちょっと読んでは長いお休みがあってまたふと続きを読み始める。そういう感じなのだ。だから1冊読み終えるのに1年2年かかるのはザラだ。それと、あれを読んだりこっちをのぞいたりで集中力もない。

読む予定の本が本棚には並んでいる。その並んでいる時間がかなり長い。ま、小難しい内容の本がほとんどなので仕方ないのだが。

松岡正剛の『誰も知らない世界と日本のまちがい』と松永和紀の『メディア・バイアス』はやっと読み終えた。ジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』は半分まできた。どれも結構前に買った本ばかりだ。ほかに手つかずの、ここ2,3年の内に買ってある本が20冊ぐらいたまっている。いつ読むのか、まったく困ったものだ。スティグリッツなんて、4,5年も前に勝った本だから、とっくに読んでいないといけないところだった。今回の金融危機で、いわば金融規制強化派の代表選手みたいになった人物だから。

後の予定はとりあえず、中西準子『環境リスク学』とか、話題の『CIA秘録』とか、アントニオ・ネグリの本が並んで待っている。気が遠くなりそうだ。



エラーと謀略

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1週間ほど冬型気圧配置で、雪が降る日が多かった。
吹雪だったので果樹の枝にはほとんど積もらず、畑に行く必要もなかった。雪片付けは家の周りだけなので、身体は楽だ。

ここ何日か、果物の受注管理プログラムを改良整備してきたが、それなりに操作性がよくなった。
コンピュータは条件分岐が基本だから、ひとつのクリックに対してコンピュータがスムーズに条件判断して、結果をひとつ出すようにプログラム・コードを書かなければならない。結果はかならずひとつだけでないとダメだ。いろんな結果が出たのではコンピュータとして役に立たない。

基本的なもののひとつが If ?Then 構文。もし何が何ならどうする、何でないならどうする、というやつだ。この「もし」を積み重ねることで、唯一の結論をみちびく。基本のもうひとつはエラー処理だ。エラー処理をうまく使いこなせれば、プログラムがぐんと充実する。意図的にエラーを起こすコードを書くことで、つぎのプロセスに飛ばしたりもできるのだ。

下図はコードの一部。発生したエラーの種類で処理を使い分けている。

error.png

ふつうは、人間、エラーを起こさないように暮らしている。コンピュータでは、エラーを起こすことが前提でプログラムが書かれる。コンピュータだからエラーは絶対起こしてはいけないはずだ、と思うところだが、逆だ。エラーはかならず起きる。大事なのは、エラーが起きたときにそれを処理することができるかどうかだ。エラーが起きたときに、的確に処理するプログラムが組まれていないと悲惨なことになるのだ。

意図的にエラーを起こさせる、というのも発想としては面白い。エラーが起きれば、ふつうは、そこで作業が止まってしまう。ときには滅茶苦茶になる。コンピュータは固まる。いわゆるフリーズ、ハングアップする。しかし、エラーを初めから織り込み済みのプログラムを作っておけば恐いことはない。いや、それどころか、エラーをわざと起こさせることでプログラムをより複雑に柔軟に機能させられる。正攻法でやっていても絶対に処理できないような壁を、エラーを仕込むことで突破する。とんでもない、予想外の間違い、奇策をぶつけて突破する。

考えてみれば、人間はこういうのが好きらしい。たとえば、アメリカ政府は9.11を事前に知っていたが、知らないふりで旅客機にビル突入をさせた、というような話。謀略説は歴史にいっぱいある。サダム・フセインもアメリカの罠にまんまと乗せられた。わざと被害を起こさせて、その次の手を圧倒的な力で打ちかえす。肉を切らせて骨を断つ。それから、喜劇、お笑いもそうだろう。失敗で笑いを取る。世の中はそういうことで成り立っているらしい。

年賀状を出すのをやめた。
思えば何十年か前、年賀状など出していなかった。いつから出すようになったか覚えていないが、少なくとも30歳までは、そんなもの出していなかったはずだ。10代のころはもちろん出していなかった。
他人のことをとやかく言うつもりはないが、自分にとって、こういうものが全然意味を持たない、自分と関係ない年中行事に戻ったということだろう。若いころと同じように。

日本人にとって、東アジアの人間にとって、西洋暦で新年を祝うのはおかしい。
旧暦(太陰太陽暦)で祝うのがもっとも日本人らしい生き方といえる。今年は西洋暦1月26日がその日に当たる。西洋暦で1月1日というのは、カレンダーにそう書いてあるからだ。空を見ても山を眺めても、川に佇んでも森を見ても、どこにも「新年」とは書いてない。まして雪国では、こんなのとても新年だの新春だの言えたものではない。

中国人が西洋暦ではなく春節で正月を祝うのが、まさしく伝統文化と言えるものだろう。日本人が西洋暦でやるのは、ただペリーの黒船がやって来たからだ。ただそれだけの理由。なんて、伝統を大切にしない民族なのだろう。年賀状を出す度に、日本人は一年に一度くらい、そういうことを考えてみたらどうか。

百歩譲って西洋暦を基準に考えるとしても、日本人にとって一年の区切り目は4月1日だろう。この日にこそ新年の抱負がいちばん似合っている。春こそ新年。


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ちょっと補足。
年賀葉書であいさつするという「伝統文化」なんてものはない。
年賀状博物館
伝統といっても高々明治時代からだ。しかも葉書を出すというのは特殊な人たちだけだった。ふつうの人がやることになったのはずっと後だ。

こういうのは、クリスマスイブにケーキを買うとか、バレンタインデーにチョコレートを贈るとか、そういうのとまったく同じ。ほんらいは意味があったことでも時が経つうちに形だけが残って、中身がなくなる。そういうパターンだ。お菓子屋さんだけ儲かる。ケーキなんてめったに食べられなかった時代はそれなりに華やいだ雰囲気を味わえたものだが、いまの飽食の時代には、クリスマスケーキの味さえ薄くなった。ありがた味がなくなった。

年賀状もそのとおりで、形だけ生き残っているが、もう形だけだから、多くの人が仕方無しに毎年暮れになると葉書のことを心配して、中身のないことにアタマを悩ませるようになる。。それは、義理チョコならぬ、義理年賀状というやつだ。たんに数をばらまくだけが目的になった。もちろん、年賀葉書の発売を待ちきれずに、局に並ぶお年寄もいるらしいし、年賀状を人生の生きがいにするのも人それぞれ、自由だ。しかし、年末年始に日本中を行き来する年賀葉書のほとんどは「仕方無しに書いて出す」葉書だろう。ちっともおめでたくない。喜ぶのは郵便局だけだ。民営化したんだったかなあ。ただの独占企業になっただけだろうに。そして、この郵政民営化というやつも、後ろにまたまた黒船アメリカの影がちらついていた。

というようなことで、ただの一民間企業でしかない郵便会社の売上げを増やすために年賀葉書がある。そんなの、やってられん。

要は、年賀葉書に代わるものを出せばいい。

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