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2009年9月アーカイブ

リンゴの中生種「昂林」が色づいてきて、玉返し作業を今日終えた。リンゴの実は日が当たる側から赤くなるので、反対側のまだ青い(白い)ほうを太陽に向けてやるために、一個一個果実をまわしてやらねばならない。

この玉返し作業をしていて、あんぐりした。リンゴが鳥に食われているのだ。それもかなりの量だ。

リンゴが鳥につつかれるのは珍しくない。代表的なのがカラスとヒヨドリだ。カラスは大したことはない。問題はヒヨドリで、こいつは防御策がほとんどない。しかし、今回の昂林を食っていたのは、どうもちがう鳥だ。食い方、つついた跡の形がヒヨドリのつつき方とちょっとちがっているのだ。つついた跡はその鳥のくちばしのかたちと関係がある。

食われたリンゴの木は国道沿いにある。そこには上に電線が走っている。カラスやムクドリが止まり木代わりにしている。とすると、考えられるのはムクドリしかない。ムクドリか?。つつかれた果実の多さからすれば、群れで来たことは確かだ。電線には、ときどき、ムクドリが何十羽、何百羽と集結していることがある。安全で見晴らし最高、持ってこいの集合場所なのだ。

ところが、ムクドリというのはサクランボは大好きだが、リンゴや梨をつつくことはない。というのが常識なのだ。変だなあ。

以下は推測にすぎないが。
今年は春から小鳥が多かったような印象を持っている。いろんな種類の鳥がいつもの年より多い感じがあった。たぶん、記録的暖冬、少雪で、冬を越えられた鳥が多かったのではないかなあ、と思っていた。厳しくない冬で、死ぬ小鳥が少なかったのじゃあるまいか、と。

この、小鳥が多すぎる状態が夏をつうじてもつづいて、秋になってきた。人口密度ならぬ鳥口密度が高いらしいということ。だから食べ物はとうぜん不足する。食べ物が少ないから、今年はムクドリが大群でいる状態がずっとつづいている。サクランボの季節はムクドリが大群になるが、それ以外の季節にはあまり大きい群れはつくらないのがムクドリだったではないか。

エサが少ないと大群になる、というのは、生き物のひとつの法則だろう。代表的なのがバッタだ。ムクドリもたぶん同じではないか。そしてまた、生き物は大群になると凶暴になる。バッタも、ムクドリも、そして人間もね。
なんか大げさなタイトルが付いているが、書いている中身は大したことではないので安心されよ。

注文していたデジタル糖度計がきのう到着した。さっそく川中島桃とプルーンを計ってみた。川中島は16度、プルーンは15度ちょっとあった。川中島桃が16度というのは予想外だった。ふつう14度もあれば糖度の高い美味しい桃という評価になるはずだ。しかし、数字とは裏腹に、その桃を自分で食べてみた感覚で言うと、そんなに美味しい桃ではなかった。どうなっているのだろう。怪しい。

桃の場合、その年の夏の天候がもろに影響する。桃はそれくらい天気に敏感なくだものだ。今年はと言えば、桃はいつもより美味しくない。人間糖度計はそう言っている。

なんで、こういうふうに違う結果が出てくるのか。当たり前のことだが、おいしさは甘さとは別のことだからだ。

何十年も前の幼少のみぎり、塩餡(しおあん)というのがふつうにあった。たぶん砂糖が高価、貴重なものだったからだろう。塩で甘みを代用させるというのは、悪く言えば貧乏くさく、よく言えば生活の知恵だ。まあ、塩が隠し味として入ると甘みが増すことを思えば、人間の味覚というのは、複雑なものだ。が、さすがに、塩味のあんこはまずかった。そのころは、砂糖でなく人工甘味料のサッカリンがいっぱい使われていた時代でもあった。サッカリンの、あの粉のむかむかするようなニオイは今でも鮮明に思い出すことが出来る。

世の中はすっかり変わって、くだものでは、農協などの選果場では光センサーの糖度別選果機を導入するところが増えてきた。これは何千万だかするような高価な選果システムなので、農家の負担もとうぜん大きくなる。それだけではない。選果が厳密になればなるほど、低品質としてはじき落とされる果実が増える。青果物の市場価格が高い時代ならともかく、くだものの市場価格は長いあいだ低迷をつづけている。だから、けっきょくのところ、金をかけてハイテク選果をしたために、損をするだけになるのが農家生産者、ということになる。

数字とか科学的データとか、そういうものは一見、合理的だが、じっさいの現実は、そんなに「甘い」ものじゃないよなあ。と、糖度計を眺めて思うアナログな今日この頃だった。。。

休日のバラマキ

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8月が終わってカレンダーを「ひっちゃぶいた」(麻生太郎語)ら、またまた、この9月の連休の見事なこと。なんか、前にもどっかで見たことのある風景だなあ、デジャヴだなあ、と思ったら、それもそのはず5月の連休のカレンダーと同じじゃないの。

まあ、いわば、これこそが、自民と公明の政権がつくってきたニッポンを象徴するくさった風景だろう。この連休の作り方が、勤勉と言われたニッポン人の未来を暗い暗いものにしている、すばらしい思想のなせるワザだ。こういうのを「休日のバラマキ」というのだ。まったく、品性がない、ハレンチな、「国民の休日」という名の、アタマのイカレタ人たちのつくった休日だ。わーい連休だ、とにかく明日のことなんか考えないで、今日、持っているカネをぱっぱっと使ってしまえ、「国民みんなで浪費しようぜの日」、それが「国民の休日」の本当の名称だろう。なんという刹那主義。

この連休の作り方については、ずっと前にも書いたからくり返したくない。
 『国民の「祝祭日」』(クリティカルフルーツ2002年1月24日)
明治、昭和、平成の各天皇誕生日と、元日、建国の日、憲法記念日、新嘗祭(勤労感謝)、春分、秋分、こどもの日。これが毎年動かない休日だ。天皇家に関わる日は絶対死守しているのが、涙ぐましい。で、他はみな、毎年日替わりの第何月曜日になった。ただただ連休を作るため、国民をアホみたいに遊ばせるため、という、あさましい理由で、こうなった。

なんとか給付金だの、なんとかエコポイントだの、なんとか高速道路大安売りだの、まあ、なんと、なんと、同じ思想からでてくるくさった政策の数々。いわく、「消費」者中心の社会だと。アタマは使わなくていい、ゼニを使え。電気、ガソリン、どんどん、消費しろ、と。それで景気回復だ、と。言葉を失うね。9月1日、「消費」者庁という、これまた、愚民政策の象徴的組織が発足した。消費者保護の一元化、体制強化という、もっともらしい理屈をつけて、ニッポン人自身が自分でものを考える力を衰えさせていく。

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