運動会の雨天延期
この数年のあいだに、いつの間にか知らない祝祭日が出来ていたり、祝祭日がふらふら浮動するようになった。百姓には休日というものがそもそも存在しないので、実感として気付くのが遅れてしまった。いったいこの国の政治家は高級牛肉の食べ過ぎで脳味噌がスポンジ状態らしい。
典型的なのが体育の日だ。あれは、わたしの記憶に間違いがなければ、長い気象観測のデータを考慮して、晴れの特異日としての「10月10日」を東京オリンピック開会日に選んだという経緯がある。ほかにも理由はあったかも知れないが、晴れになる統計上の確率が高いというのは確かに誰でも納得できる話だ。それを「体育の日」として定着させた歴史があった。運動会が雨降りでは話にならない。
ところが、あろうことか、である。第2週の月曜日を祝祭日に当てる、とか何とかいう法律(西暦 2000年に始まった。「成人の日は1月第2月曜日、体育の日は10月第2月曜日」という制度)をよくもまた制定したものだ。誰が提案したのか知らないが、それを賛成した国会議員先生もバカである。与野党そろってだ。わたしは、まあここまで日本人は愚劣になったのか、と深い感慨にとらわれざるをえない。体育の日はおかげで、運動会の雨天延期が続発するようになったとか、ならないとか。
オセロ・ゲーム
成人の日は本来の小正月である正月15日に当てたものだった。成人の日が年ごとに浮動するようになって、小正月に連動していた正月飾りを焼く行事(「さいと焼き」とか「どんど焼き」とか呼ばれる)と餅つき行事までが浮動するようになってしまった。成人の日は最も早い年では1月8日になる。鏡開きの前に、成人の日があって、いっしょに小正月の行事をするとしたら滅茶苦茶だ。また餅つきしたり注連飾りを焼いたりするというような奇妙なことになりかねない。その滅茶苦茶が現実味をおびているから恐ろしい。
これに先立ってかなり以前に振り替え休日制度が始まった。いつからだったかな。そして何年前からだか記憶も定かでないが、5月の連休にもへんちくりんな改造を施した。5月4日、これだ。名無しの「国民の休日」。3日の憲法記念日と5日のこどもの日という赤い○に挟まれて赤に変えられた、オセロみたいな休日。ゲーム感覚も程々にして欲しいな。
百姓は自然の植物が相手だし、畜産農家は牛や豚が相手だから、定休日という概念にもともと馴染まない生活をしている。自然の流れが働く日、休む日を決める。だから、祝祭日の日付がどうなるかなんてどうでも良いことだ。だが、こういう信じられないような改変を平気でやられると、何か背筋が寒くなるような恐ろしさすら感じてしまうのだ。もう根本的に、この国に生きている人間はみんな狂ってしまったのだろうか。狂っているという意識も持てないくらい狂ってしまったのだろうか。休みはまとまっていた方が遊ぶ計画が立てやすい? そのほうが国民に金を使わせて景気をよくする効果が期待できる? ああああああ。なんという情けない国だろう。
生命のリズムと暦
1月 1日=元日。
1月*日=成人の日。
2月 11日=建国の日:旧紀元節。
3月 21日頃=春分の日。
4月 29日=みどりの日:昭和天皇誕生日。
5月 3日=憲法記念日
5月 5日=こどもの日:端午の節句
7月 20日=海の日:旧海軍記念日
9月 15日=敬老の日
9月 23日頃=秋分の日
10月*日=体育の日
11月 3日=文化の日:旧明治節明治天皇誕生日
11月 23日=勤労感謝の日:旧新嘗祭
12月 23日=天皇誕生日:旧天長節
わたしは前々からこの暦そのものに疑問を感じている。これが西暦、すなわち太陽暦に基づく暦になってしまっていることに。とりわけ本来太陰暦から生まれたものが無理矢理太陽暦に当てはめられていることには見過ごせない不合理を覚える。太陰暦は自然のリズムにもっとも適合していた。そこには生命のリズムがあった。上の祝祭日で言うと、元日、成人の日、こどもの日、勤労感謝の日がそれに当たる。月の満ち欠けは潮の満ち引き、女性の生理に通じた。海と女、まさに生命をはぐくむ時空である。
正月を迎えることを「迎春」と呼び、初春、新春と呼ぶ。太陽暦の1月1日つまり今の1月1日に春を感じ取れる人がいるとしたらお目にかかりたい。初春や新春にふさわしいのは旧の暦の1月1日だけだ。ふつう旧の元日は太陽暦でいう2月半ば、寒が終わって立春を迎えてから間もない、まさに春の気配がかすかに漂うその頃、それこそが正月、一年の始まりの時なのだ。 こどもの日。これは端午の節句、菖蒲の薫る季節のものだ。今の5月5日にそういう自然の生み出す「節」を感じることは出来ない。同じことは政府公認の祝祭日にはなっていないものの、桃の節句(3月3日)、七夕(7月7日)、重陽の節句(9月9日)にも言える。3月3日に桃の花など咲かない。7月7日は梅雨時で天の川など渡れるはずもない。9月9日に天然の菊は咲かない。
無生命時計がもたらしたもの
太陽暦は生命のリズムを無視するところから始まっている。無生命の世界の物理的時計だ。確かに物理学や経済学にあっては時間を処理する上でこの無生命時計が必須だったのかもしれない。近代科学は物理時計無しには成立しなかったかもしれない。科学技術は人類の社会にさまざまな恩恵をもたらしてきた。とわたしたちは信じている。過去200年ほどの科学技術、経済社会の爆発的変貌を見れば、人類にとって太陽暦の社会が望ましいものだったかのように見える。
それは生命のリズムをはっきりと無視する。これまでは無視しても無視することによって得られる利益がはるかに大きいと思えた。いろんなものが便利になった。たとえばお日様が昇ったら一日が始まる社会と毎日午前6時にかっちり一日が始まる社会と比べたら、後者の方が断然効率が良く客観性があって、文明の競争をさせたら後者が勝つだろう。日が落ちたら暗い星空を見上げて恋を語ろうよという社会と、電灯を煌々と輝かせて仕事を続けようという社会と比べたら、後者はあっという間に密やかな星空も見えなくしてしまうほど強力だ。
だが、じつに刹那的な欲望に駆られて生きるわたしたちの現代社会が、けっきょくのところ何をもたらすのかについて、明るい答えを示すことは難しい。宇宙から輝いて見えるくらい電気を使って明るい日本列島が、なぜ明るい未来を示せないのか。現代文明のスタイルに対して疑問や不安を感じない人はどれほどいるのだろうか。生命のリズムを無視した文明に果たして未来はあるのだろうか。国民の祝祭日はそういう問いを密かに投げかけている。
[追加補足]昨今の農業のなかに生命のリズムをぶち壊すことで利益を得ようとする傾向が数多く見られる。施設園芸がその代表で、温度も日照もすべて人工的な管理下においてエネルギー浪費型農業が行われる。この日本の農家の「努力」と「技術」が日本の野菜市場に旬を無くしてしまった。あるいは南の島の花々がジェット燃料を浪費しながら日本本土の大都会に運ばれて高く売られる。現代農業が自然破壊的である例は挙げればきりがない。畜産でも同様のことが広く行われている。わたしの専門分野で言えば、サクランボの加温ハウス栽培がある。6月に実るサクランボを4月、5月に熟すようにハウス栽培する。極端な例では正月に出荷できるように強制的に果樹を管理する栽培方法まである。一粒何百円何千円というサクランボ作りだ。