朝日新聞が7月13日の紙面で「原発ゼロ社会」を提言した。次のような大見出しが踊っている。
- 高リスク炉から順次、廃炉へ [ 脱原発への道筋 ]
- 核燃料サイクルは撤退 [ 廃棄物の処理 ]
- 風・光・熱 大きく育てよう [ 自然エネルギー政策 ]
- 分散型へ送電網の分離を [ 新たな電力体制 ]
この後半の2項に「脱原発」派の典型的な思想があらわれている。思想というより幼稚な感性とか情緒と言った方がいいだろう。
言うまでもなく、朝日新聞を含めて「脱原発」論に決定的に欠けているのは、将来の電力需要がどうなるかと、どういう分野にどれだけの電力を必要とするのかという見通しだ。いったいどれだけの電気があれば日本人は満足するのかという根本問題をスルーしてしまっているのだ。需要をスルーして電源だけ論じて何の意味があるのか。このことについてはまたあとで考えてみたい。
「小規模分散」の落とし穴
分散型電源をうたっている項目では、エネルギーの「地産地消」という言葉も使われている。その地域で作った電気をその地域で消費する自立型社会をめざせ、という。我が家は農家だから、こういう「地産地消」というキャッチフレーズの空疎さを知っている。地元で生産した農作物を地元で消費するだって? 冗談でしょ。そんなことで農業が成り立つわけがない。地元でも消費するが大部分の生産物は遠くへ売る。考えなくても分かるはずだが、リンゴ農家がリンゴ産地の消費者に売るだけで生きていけるわけがない。漁師が港町の客に売るだけでどうやって食っていけるのか。この「地産地消」という言葉を持ち出すことからして、朝日新聞の論説委員がいかに現実を真面目に考えずに机上の空論を並べているかが見て取れるだろう。
なぜ、過去数年にわたって新たな市町村合併が進められたのか、を思いだそう。それを考えれば、小規模分散という考えの愚かさが分かる。分散電源の非生産性、ムダの増大が想像できる。それぞれの地域が自前の発電設備と送電システムを備えるということが、どれだけムダを生み出すことになるのか。たとえば、仮に朝日新聞社を完全に各県単位で分割して地域新聞にしてしまうことが朝日新聞社の方針として打ち出せるものか、考えてみてほしい。実行して見せてほしい。そしてそれぞれの地域新聞が情報産業としての公的役目をじゅうぶん果たすだけでなく、企業として経済的に成り立っていくところを見せてほしいものだ。朝日は、発電は分散と言いながら送電は広域化が必要と言って、まったく矛盾を平気でおかしている。
日本の経済社会がこういう非効率、低生産性、高コストの電力システムを受け入れられるほどの力を持っているのかが問題だ。これからの社会がそういう不経済をうけいれるだけの経済成長力を維持できるのだろうか。とてもそんなお遊びの余裕があるとは思えない。非効率、不経済の方向を選ぶということは、自由主義市場経済の原則に逆らうことだから、それは、きれい事では済まない。
分散したそれぞれの地域で、発電コストの高い再生可能エネルギーに依存する「自立型社会」ができるとすれば、そのような高コストの電気しか流れていない地域から産業は逃げていくだけだろう。さらにもし日本全土がそうした再生可能エネルギー依存の社会となるならば、日本国内から産業は逃げていく。自立はしたつもりだったけれどその結果、社会が自滅するという道。これはごく当たり前の経済の問題。駅前シャッター通りのエネルギー版が起きるだけの、暗い未来物語なのだ。
成長の限界、スモール・イズ・ビューティフル、ソフト・エネルギー・パス
小規模分散型とか自立社会とか地産地消とかいった言葉が生まれてきた過去の背景を少し考えてみよう。それは1970年代あたりから始まった。
1972年、ローマクラブは『成長の限界』という衝撃的なレポートを発表した。地球の資源や環境の制約によって世界の成長は限界に達する、という悲観的な未来予想だった。翌年末に突発した第1次石油危機は中東の政治的・軍事的要因で起こった事件だが、その意味だけでなく、あしたエネルギー資源が無くなるかもしれないという現実味を世界の人々に見せつける大きな効果があった。日本は戦後、資源を持たない国でありながら驚異的な経済成長を続けてきていたから、他の国以上にショックを受けることになる。
世界がオイルショックに揺れる頃、E. F. シューマッハの『人間復興の経済』が出版された。「スモール・イズ・ビューティフル」。シューマッハがかかげたこの合い言葉こそ、世界中の多くの人に価値観の転換をもとめて広がっていった。オータナティブ・テクノロジー、中間技術、等身大の技術、人間の顔を持った経済、といった言葉が盛んに使われるようになる。
エイモリー・ロビンスという名前を知っている人はもう少ないかも知れない。日本で一時期、大げさに言って一世を風靡した人物だ。著書『ソフト・エネルギー・パス』はベストセラーになった。原著は1977年に出版されて、日本語訳が出たのが1979年だった。1979年とはどういう年だったのか。1979年3月28日、アメリカ・ペンシルバニア州のスリーマイル島で原子力発電所の事故が発生、原子炉はメルトダウンした。イランではホメイニ師の指導する反米・イスラム革命が熱狂的に進んでいた。原油価格は高騰していった。
『ソフト・エネルギー・パス』。これはローマクラブやシューマッハの流れの延長上にあると言っていい。それは新しいエネルギー社会の未来図を示そうとしたものだった。それは、今流行の脱原発を先取りして、じつに様々なデータを駆使したバイブルのような書物だった。今くわしく読み直して検証する気力はない。たぶん、今でもその論理的な説得力は変わっていないのではないだろうか。しかし、その後の歴史は、ソフトエネルギーパスを誰も選択しなかった。いつの間にか忘れられていった。現・民主党菅直人政権で農林水産副大臣を務めている篠原孝氏も『農的小日本主義の勧め』を1985年に刊行している。ここには、ローマクラブやシューマッハそれから下でふれるアルビン・トフラーの影響をつよく受けたことがよく分かる。その篠原氏はいま脱原発の旗を堂々と振る立場にある。『脱原発社会を創る30人の提言』。良い悪いは別として、篠原氏にはたぶん、自給自足へのあこがれ幻想や村社会、地域共同体への幻想が発想の根本にあるのだと思う。
ダニエル・ベル『脱工業化社会』とアルビン・トフラー『未来の衝撃』『第三の波』『パワーシフト』3部作もあげておかなければならない。どれも、社会の大きな変化を分析して、未来を予測した。
産業構造が資源を大量消費する重厚長大型からソフトな経済へと変わっていけば、エネルギー消費の増え方も抑えられるだろう、とイメージだけでばくぜんと予想したのが甘かった。経済構造が製造業からサービス産業へシフトすると新たな種類の電力消費を増やした。高度な医療システムを含めて高齢福祉社会化もその一つ。省エネ省資源につながるはずだった産業のIT化も結果は逆だった。インターネット情報化社会のインフラ電源需要。ソフトな経済活動を支えて行くにはハードな経済活動とハードな基盤が不可欠だということ。それを忘れていた。高度な情報通信社会を成り立たせているのは多くのサーバ・コンピュータをはじめとする電力消費機器。それらは運転時に電力を消費しているだけでなくハードウェアを製造するのにも多くの鉱物資源とエネルギーを消費している。(ページ一番下のグラフ参照)
道路網が整備されてモノ・人の移動はさらに活発になった。公共交通機関から個人の自家用車へ、一家団欒から個室へ。一家に一台がやがて一人に一台が普通になっていく。自立とか個の尊重とかの社会的風潮、今まで共同使用していたものも個人ごとに所有する方向へと加速していった。これも当然のようにエネルギー消費をふくらませる結果をもたらしていく。つまり個の自立とか分散とかは、個々の消費は小さくても数が集まれば全体として爆発的な大量消費に直結するのだ。
今、国土の単位面積あたりの電力消費をざっとグラフ化してみると「電力消費密度」が高いのは韓国と日本とベネルクス3国だという結果が出る(2007年データ)。おおざっぱなイメージで言えば、夜の地球を宇宙から見ると、これらの国がいちばん明るく光って見えるというわけ。狭い範囲に電気が集中している。狭い国土で電気を使いまくっている。ドイツ、イギリス、スイスは密度がこの約半分。フランスは日本の3分の1。(バーレーンとシンガポールは特殊な都市国家で例外)つまり、これだけ消費密度の高い日本がその電源を国土でまかなうとすれば、国土への負担も高密度になるほかない。世界を見渡して、再生可能エネルギーにいちばん依存しにくい国というのが、日本や韓国になってしまっているのだ。広い土地に小集落が分散している国が再生可能エネルギーを入れやすいことは中学生でも分かるだろう。このグラフで言えば下の方の国ほど再生可能エネルギーを導入しやすい。日本はその正反対に位置している。
太陽光、風力、水力。脱原発ユートピア・・・。エネルギー生産効率が低い小規模分散電源は、日本の高密度なエネルギー消費構造とまったく相容れない。一方で、再生可能エネルギーの先進国と言われ、もてはやされているドイツやデンマーク。これらの国で主力になる風力発電が大規模集中化への道をたどっている現実を、スモール・イズ・ビューティフル派はいったいどう説明するつもりなのだろう。
そして、電力消費は倍増した
こうして、希望はことごとく裏切られることになった。
小規模分散の自立社会という神話。省エネルギー省資源でソフトな経済社会ができるという神話。筆者は20数年間農業をやっていたから、この間のエネルギー情勢や電力需給の変化についてまったく無関心だった。だから、最近のデータを見て驚くことが多い。そのなかで最大の事実は、日本の電力消費が1970年代のオイルショック後の30年ほどの間に倍増したことだった。信じられない事実だった。成長の限界もスモール・イズ・ビューティフルもソフト・エネルギー・パスもあったものではない。まして「脱原発」などと今さら主張することのわざとらしさには言葉を失う。
そしてまた、最近では「スマートグリッド」という魔法のような話まで話題にされるようになった。このスマートグリッドと再生可能エネルギーの小規模分散電源を組み合わせると、原子力のような大規模発電所やげんざいの大電力会社いわゆる9電力体制とは違う、新しい省電力社会ができるかのように喧伝されている。またまた、こういう新しい技術の夢を語る人がもてはやされるのだろう。そしてまた、個人住宅などにそれぞれスマートメーターを設置すると、電力使用の「適正化」がはかれるらしい。その技術が実現して行くころには、それにつれてさらに新たな種類の電力需要を生み出していくことだろう。電力消費を制御するには新たな電気設備が必要だ、なんてふうにね。
当たり前の話と思うが、技術でもって電力消費の総量が増えていくのを抑えることはできない。人間の欲望がふくらんでいくのを抑えられる、不思議な新技術なんかあるわけがない。
日本の使用電力量推移グラフ(沖縄電力を除く)
・電気事業連合会電力統計情報から作成
2000年以降は従来の「電力量」が「電力量」と「特定規模需要」に分割区分けされた。グラフはこの合計値を使っている。2008年辺りの減少は景気後退によるものと思われる。大口需要が落ち込んだが、一般家庭、商業施設等の電灯需要はほぼ変わらず増えている。第二次オイルショックと米国スリーマイル原発事故のあった1979年以後も、電力消費は増えつづけ、およそ25年で2倍にふくらんだ。とくに電灯需要だけで見ると3倍になった。節約、省エネルギーは絵空事に終わった。