昔のことを少し

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『寺との抗争』の続編を待ってる人には申し訳ない。いま、カネ集めで忙しいのだ。カネがないと年を越せないからね。週末までには書く。

で、面倒くさい話は置いておいて、ちょっと昔話。

ひとつまえの「匿名」がどうたら、の関連なのだが、わたしは若いころ零細だがある情報誌の記者をやっていた。だから、ものを書くこと、その結果引き起こされること、については、それなりに意識してものを書いてきた。匿名でコソコソやるのではなく、名前を張って仕事をする以上はそれなりの覚悟が必要だ。なにしろ霞ヶ関や大手町、丸の内の官庁、大企業が読者でありかつ取材対象だったから、そりゃストレスがたまったわなあ。会社に入って最初の仕事がアメリカ・スリーマイル島の原発事故だった。1979年の3月。いまは田舎のただの果樹農家なので、ずっと気楽なものだ。しかも、ただの寺のクソボーズが相手に過ぎない。

大マスコミの記者はその企業の看板で仕事をできるが、零細な企業の記者はプレッシャーが大変なものがある。しかし、霞ヶ関が発行する記者証一枚あると、たいていのところに出入りできた。今はどうなっているか知らんが、各官庁には大マスコミの記者会と中小専門紙誌の二つの記者クラブがあった。記者ですと言えば、原子力委員会や原子力安全委員会の委員の先生にも単独で会える特権がある。東京電力本社の赤絨毯のフロアにも行けた。山形大学の学生さんにはおなじみの結城章夫学長は当時、原子力局の課長補佐だった。ときどきぶらっと立ち寄ってお話を聞いた。山形出身ですよと雑談で話してたのを覚えている。

数年前から上杉隆らが騒いだ「記者クラブ」問題。あれなんか、事情を知ってる人からすると下らない話だった。記者の取材活動は、「記者会見」が中心ではない。そんなものはただのセレモニー。主戦場は人の目につかないところでつづける取材活動だ。

あの頃から見れば、そりゃあメディア、情報空間は激変した。インターネットのこと。そして今もドロドロと形が変わっていっている最中だ。流れにおぼれないようにしないと、あっという間に流される。

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