きのうは高田渡の命日だったらしい。(2005年4月16日没)
高田渡の LP 『ごあいさつ』というアルバム名だったか。若いころ持っていたが、東京田端の貧乏アパートで暮らししているときに、ぼやを出して燃やしてしまった。30年も前、あのころ6畳一間にあったのは、机代わりの電気ごたつと本棚が4つくらい、それとステレオ・プレーヤーに LPが何百枚だった。テレビはもちろん無かった。昔からテレビは必要なかった。給料はそこそこもらっていたが、たいてい本代かレコード代に消えていた。
あのぼやで、レコードが熱で2,30枚やられたが、高田渡もそのひとつだった。それと、本棚の本が、焦げたり粉末消化剤がかかったりしてダメになった。6段ラックの本棚1本、数十冊だったか、小説類、詩集、山の雑誌など入れると100冊以上はあった。
そのうち、高田渡が歌にしていた『山之口貘詩集』は難を免れた。『谷川俊太郎』も背表紙がすこし傷んだ程度でどうにか生き残ったが、『ラングストン・ヒューズ』や『吉野弘詩集』は燃えた。あと何があったか・・・。高田渡が歌にしたのは、山之口貘「生活の柄」、谷川俊太郎「ごあいさつ」、吉野弘「夕焼け」などだったと思う。ラングストン・ヒューズは歌の名前を忘れた。
朝使ったパン焼きトースターの電源が切れずにいて、加熱して発火した。仕事に出ている間のことだったが、煙が出たのが夕方で近所の人に発見されるのが早かったために、とんでもない大事にはならずにすんだ。大家さんもいい人だったから、きついことは言われなかった。その時もっていた貯金の範囲内で弁償して勘弁してもらったのだった。
そのとき消火に駆けつけた消防の隊長が、じつは、10年以上前、遠い生まれ故郷の我が家に住み込みで働いていたK君(私より何歳か年上)だった。彼は当時、働きながら夜学に通っていた。その青年が東京の消防隊員になって目の前にいたのだ。奇遇とはこのことだった。私の父親つまりかつての雇用主のことをなつかしく話した。
高田渡の LP 『ごあいさつ』というアルバム名だったか。若いころ持っていたが、東京田端の貧乏アパートで暮らししているときに、ぼやを出して燃やしてしまった。30年も前、あのころ6畳一間にあったのは、机代わりの電気ごたつと本棚が4つくらい、それとステレオ・プレーヤーに LPが何百枚だった。テレビはもちろん無かった。昔からテレビは必要なかった。給料はそこそこもらっていたが、たいてい本代かレコード代に消えていた。
あのぼやで、レコードが熱で2,30枚やられたが、高田渡もそのひとつだった。それと、本棚の本が、焦げたり粉末消化剤がかかったりしてダメになった。6段ラックの本棚1本、数十冊だったか、小説類、詩集、山の雑誌など入れると100冊以上はあった。
そのうち、高田渡が歌にしていた『山之口貘詩集』は難を免れた。『谷川俊太郎』も背表紙がすこし傷んだ程度でどうにか生き残ったが、『ラングストン・ヒューズ』や『吉野弘詩集』は燃えた。あと何があったか・・・。高田渡が歌にしたのは、山之口貘「生活の柄」、谷川俊太郎「ごあいさつ」、吉野弘「夕焼け」などだったと思う。ラングストン・ヒューズは歌の名前を忘れた。
朝使ったパン焼きトースターの電源が切れずにいて、加熱して発火した。仕事に出ている間のことだったが、煙が出たのが夕方で近所の人に発見されるのが早かったために、とんでもない大事にはならずにすんだ。大家さんもいい人だったから、きついことは言われなかった。その時もっていた貯金の範囲内で弁償して勘弁してもらったのだった。
そのとき消火に駆けつけた消防の隊長が、じつは、10年以上前、遠い生まれ故郷の我が家に住み込みで働いていたK君(私より何歳か年上)だった。彼は当時、働きながら夜学に通っていた。その青年が東京の消防隊員になって目の前にいたのだ。奇遇とはこのことだった。私の父親つまりかつての雇用主のことをなつかしく話した。
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