古い話で恐縮なのだが、取材して記事を書くというばあい、取材相手と自分との距離感というか、立ち位置というか、それは非常にむずかしいものがある。それは経験した者でないとなかなか分からないことかもしれない。霞ヶ関やら丸の内、大手町を取材のためにうろついていたころを思い出す。
もうひとつ、経験した者でないと分からないだろうことは、2,3日前に書いたとおり、情報は「作る」ものだということ。情報というのは、そこに転がっているものじゃなくて、自分で作らないと記事にならない。役所が発表する資料を記事にするのはかんたんで、そんなものなら誰でも記事が書ける。しかし、ほかの誰も書かないようなことを記事にするのがプロの記者というものだろう。これが大変なんだなあ。からっぽのシルクハットの中からハトを出すような話なのだ。
昨今の、検察のリークでマスコミが検察寄りの記事を垂れ流している状況は、目に余る。検察が捜査情報をマスコミにリークすることはあり得ない、なんてことをのたまっている人も少なくないが、寝言は寝ているときに言ったほうがいいよ。大新聞の幹部やら、元新聞記者やら、えらい評論家やら、まったくお粗末さには言葉もない。
たとえば元NHKだった池田信夫先生は
新聞は検察権力をまったく批判しない。たとえば警察の不祥事はわりあい新聞記事になるだろう。警察官はたたきやすいのか新聞・テレビは何かにつけてたたく。ところが検察については、なぜかマスコミは召使いのごとくだ。マスコミと検察はほとんど一心同体、身内の間柄にある。身内関係だから、記者は検察をいっさい批判しない。冷静に見れば、これは恐ろしく異常なことだ。
河野太郎自民党代議士インタビュー「えさをもらうための検察報道」
こんなふうにスパッとマスコミ批判をするのはかっこいい。だけどね。
いっぱんに考えてもらえば分かるが、自分が取材した相手のことを悪く書くのは非常にきついことだ。話をしてくれた相手、貴重な材料をくれた相手、この相手を不利にするようなことは書けるものではない。しかし、そんな義理人情にとらわれていたのでは何も書けないし、それでは記者としては失格ということになる。そこら辺のつらさ。しかも、記事を書いた後もまた同じ相手と顔を合わせなければいけないのが、職業としての新聞記者だ。だから、検察庁の記者クラブに入っている記者が検察にシッポを振る気持ちも、わしにはよく分かる。
これが最初に書いた、「取材相手と自分との距離感」「自分の立ち位置」のむずかしさということだ。大新聞社なら力があるから良いが、零細な専門新聞社やフリーの記者は、取材相手とけんかをすると仕事ができなくなるおそれが大きい。弱い立場にある。実態は大新聞のほうがシッポを振っているのだから、世の中不思議なものだ。
しかし、とは言ってもだ。記者がジャーナリストを名乗るのであれば、取材相手を時と場合によっては斬って捨てる覚悟も、ぜったいに必要だと思うよ。いつも懐に匕首をかくして世の中を渡り歩くのが、新聞記者稼業というものだろう。
霞ヶ関の官庁街にたむろしている大新聞・テレビ局の記者はたいへんな切れ者ぞろい。と、普通の人は思っているかもしれないが、とんでも8分。ああいうところにいる記者連中ってのは、たいしたことない。ぬるい記者クラブ制度にどっぷり浸かっているだけのが大半だ。もちろん例外はいるが、そういう記者はたいてい会社を辞めるか辞めさせられるかのどっちかだ。新聞社にずっといて論説委員とか解説委員とかに出世していくようなやつほどくだらないのが多い。
つづきは明日。
もうひとつ、経験した者でないと分からないだろうことは、2,3日前に書いたとおり、情報は「作る」ものだということ。情報というのは、そこに転がっているものじゃなくて、自分で作らないと記事にならない。役所が発表する資料を記事にするのはかんたんで、そんなものなら誰でも記事が書ける。しかし、ほかの誰も書かないようなことを記事にするのがプロの記者というものだろう。これが大変なんだなあ。からっぽのシルクハットの中からハトを出すような話なのだ。
昨今の、検察のリークでマスコミが検察寄りの記事を垂れ流している状況は、目に余る。検察が捜査情報をマスコミにリークすることはあり得ない、なんてことをのたまっている人も少なくないが、寝言は寝ているときに言ったほうがいいよ。大新聞の幹部やら、元新聞記者やら、えらい評論家やら、まったくお粗末さには言葉もない。
たとえば元NHKだった池田信夫先生は
一般論としては、捜査当局が夜回りしてくる記者に捜査情報を明かすことはあり、容疑者をクロにする材料を教える傾向もあるが、そんなに簡単に教えてくれる ものではない。記者が独自に取材して「こういう話を聞いたが本当か?」と捜査官に「当てて」顔色を見て書く、といったきわどいやり方でやっているのだ。(池田信夫blog 1月22日)これでは、新聞記者は読心術の達人になってしまうでよ。あるいは、医者が顔色だけ見て病気の診断されたのでは命がナンボあっても足りない。
新聞は検察権力をまったく批判しない。たとえば警察の不祥事はわりあい新聞記事になるだろう。警察官はたたきやすいのか新聞・テレビは何かにつけてたたく。ところが検察については、なぜかマスコミは召使いのごとくだ。マスコミと検察はほとんど一心同体、身内の間柄にある。身内関係だから、記者は検察をいっさい批判しない。冷静に見れば、これは恐ろしく異常なことだ。
河野太郎自民党代議士インタビュー「えさをもらうための検察報道」
こんなふうにスパッとマスコミ批判をするのはかっこいい。だけどね。
いっぱんに考えてもらえば分かるが、自分が取材した相手のことを悪く書くのは非常にきついことだ。話をしてくれた相手、貴重な材料をくれた相手、この相手を不利にするようなことは書けるものではない。しかし、そんな義理人情にとらわれていたのでは何も書けないし、それでは記者としては失格ということになる。そこら辺のつらさ。しかも、記事を書いた後もまた同じ相手と顔を合わせなければいけないのが、職業としての新聞記者だ。だから、検察庁の記者クラブに入っている記者が検察にシッポを振る気持ちも、わしにはよく分かる。
これが最初に書いた、「取材相手と自分との距離感」「自分の立ち位置」のむずかしさということだ。大新聞社なら力があるから良いが、零細な専門新聞社やフリーの記者は、取材相手とけんかをすると仕事ができなくなるおそれが大きい。弱い立場にある。実態は大新聞のほうがシッポを振っているのだから、世の中不思議なものだ。
しかし、とは言ってもだ。記者がジャーナリストを名乗るのであれば、取材相手を時と場合によっては斬って捨てる覚悟も、ぜったいに必要だと思うよ。いつも懐に匕首をかくして世の中を渡り歩くのが、新聞記者稼業というものだろう。
霞ヶ関の官庁街にたむろしている大新聞・テレビ局の記者はたいへんな切れ者ぞろい。と、普通の人は思っているかもしれないが、とんでも8分。ああいうところにいる記者連中ってのは、たいしたことない。ぬるい記者クラブ制度にどっぷり浸かっているだけのが大半だ。もちろん例外はいるが、そういう記者はたいてい会社を辞めるか辞めさせられるかのどっちかだ。新聞社にずっといて論説委員とか解説委員とかに出世していくようなやつほどくだらないのが多い。
つづきは明日。
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