銭になる仕事、ならない仕事 1月7日

2003年版No.2
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1月7日は七草だそうだ。芹、ナズナ、御形、ハコベ、仏の座、スズナ、蘿蔔、春の七草。漢字とカタカナを交えて書いてみた。全部を漢字で表記したらそれが七草だと分かる人はどれほどいるだろうか。私も読めない、書けない。辞書を写すことさえ難儀するだろう。

春の七草と言っても新暦の1月7日ではまったく意味をなさない。そもそも今は「春」ではない。自然の移ろいを無視する日本のひとつの姿だ。スーパーやデパートの食品売り場に行けば春の七草セットかなにかがちゃんと売られているかもしれない。自然を無視した品物が売れる。ハウスで暖房して育てれば高く売れる。外は雪が積もっていたってそんなことはお構いなしだ。年末はイチゴが高値で売れる。クリスマスケーキの需要があるからだ。もちろん自然界で12月にイチゴが採れるはずはない。

銭になる仕事とは一体何なのだろう? と思う。もちろん「銭にならない仕事」とは儲けようと思ってやったのに売れなかった仕事、という意味ではない。ここでは最初から銭勘定抜きでする仕事のことを考えよう。なぜこんな話を持ち出したかと言えば、雪国の人々にとって冬は銭にならない仕事がどっと増えるからだ。屋根の雪下ろしや家の周りの除雪がその典型で、雪が降り続けば毎朝1時間もかけて除雪せねばならなくなる。勤め人の家はたいていが暇な年寄りの役目になっている。若夫婦はさっさと車で出かけていく。農家はもちろんそういう決まりはないし、時間の制約もない。サラリーマンの若い衆は銭になる仕事をしに町へ、爺さん婆さんは一銭にもならない仕事をしに家に残る、という構図だ。とはいえ一方で、同じ雪片づけ作業でありながら銭で請け負う業者にとっては銭になる仕事になる。道路の除雪は土建屋にとっての積雪期の貴重な収入源であり、雪下ろしの請負業も大雪になれば繁盛する。

少し飛躍するが、商品経済というか貨幣経済というか、そういうものに汚染される前の日本ではどこでも、多くの人々が「銭にならない仕事」をしていたはずだ。銭のためではなく生活していくために本当に必要なことだけを「仕事」としていただろう。屋根の雪下ろしなんていうのは正しくそういう種類の仕事だ。銭のことしか頭にない人にとって、雪国の暮らしほど耐え難いものはないかもしれない。

話はここで元に戻る。銭になる仕事とは、どうも自然の流れを壊すことによって成り立っているように思える。自然の流れと共にある生き方は銭にならない。四季に恵まれた国でありながら、本当の季節を無視した経済主義がはびこってしまった。根っ子を失った文化は貧しい。そう思う。どちらが良いか知らないが・・・・。

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