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「空間の病」としての携帯電話 ・・・ "三種の便器" 再考 [2006/4/25]

携帯電話は現代の”三種の便器”のうちの一つだ、と数年前に書いた。

ゲーム便器、パーソナル便器、携帯便器。わたしは、これを現代日本における『三種の便器』と呼んでいる。

その後、わたし自身は相変わらず携帯を持っていないが、息子と娘は持つようになった。ここでもう一度ちょっと理屈っぽく、携帯について考えておきたい。

携帯電話がもたらした「途中」の欠如

携帯がなかった時代。屋外で電話をかける必要に迫られたとき、まず電話ボックスを探すことから始まった。それは出先で用を足したくなったとき公衆便所を探すのとまったく同じだった。あるいはビルの中でトイレのありかを探し回るのと同じだった。電話ボックスもない土地では、どこかの民家の玄関に立って電話を貸してくれるよう頼むことから始めなければならないだろう。探して頼むというプロセスをまず必要とした。昔、わたしが若いころ山奥の村でそういうことも何の違和感もなしに経験した。自分の家でさえ、電話をかけるためには電話機が鎮座している部屋の一角とか廊下の片隅とかに歩いていってかける。それは便所に歩いていくというのと同じことだ。つまり、電話をかけるにはその場所まで行くあいだのプロセスが必ずあった。「途中」があった。Copyright(C) Watanabe Tatsuro

かつて電話が発明されて世に普及したとき、コミュニケーションにおいて人と人のあいだの距離を電話は取り去った。居ながらにして遙か遠くの知人と話ができるというのは驚異的だっただろう。しかしそれは特定の条件を付けての話だった。「条件」とは、相手も自分も特定の動かない固有の場所にいて電話で会話しているということだ。たとえそれが公衆電話であっても、何町何丁目何番地の公衆電話からかけている、ということなのだ。つまり場所の固有性がある。電話機があるべき場所、電話をかけるべき場所、というものが決まっている。それが固定電話社会だ。わたしが子供のころなど、貧しくて電話の無い家だっていっぱいあったのだ。無い人は近所の電話のある家に借りに行くしかなかったし、無い人に電話したいときは、近所の親切な人の所にかけて呼び出してもらうということも普通にされていたのだ。

「場所空間」の欠落

固有であるということは、それに制約されるということだ。特定されるということだ。その意味では、ある程度の不自由さと不便さを受け入れるということだ。たとえばある特定の住所に暮らして、ある特定の職業に従事して、ある特定の名前を名乗る。それは制約であり拘束である。毎日好みで住所を変えたり仕事を勝手に変えたりはしない。どこそこに住んでいる商売は何をしている特定の誰それさんであって、それ以外の誰でもない。というふうな意味で、その人はその人として特定され、規定され、固定されているのであって、そこからまったくの自由であることはできない。それと同様に、固定電話の時代の電話には場所空間の制約があった。Copyright(C) Watanabe Tatsuro

携帯電話は電話機があるべき個人的な場所、電話をかけるべき固有の場所を持たない。どこでも良い自由がある。ユビキタス社会の自由だ。そして、ユビキタス社会の自由はその作用として場所空間の欠落をもたらす。どこでもいいということは、どこでもないということだ。場所感覚の欠如。位置感覚の欠落。いわば住所不定の浮浪人を作り出す。フーテンの寅次郎を作り出す。場所空間が欠落した、何とも落ち着かない無重力に似た世界。根無し草の暮らし。

垂れ流し人間

場所の制約からの自由といえば聞こえは良くなるが、「場」と「べき・べからず」の意識を喪失したとき、人は、まさしく傍若無人のやからと変わる。他人の領域であろうと、公共の領域であろうと、どういう場面であろうと、電話をかける。かかってきた電話を取る。たとえば、他人の家に上がらせてもらっているときに自分の携帯電話が着信の合図をわめき立てたとすれば、どうするか。ユビキタス人間は、その家の人とは何の関係もない相手とのあいだの会話、自分たちだけのコミュニケーション空間を他人の家の中に勝手に作る。そういうことだ。さすがに遠慮して、その場でなくちょっと席を外して外に出て電話を受ける人もいるだろう。しかし本質的には何も変わらない。これは明らかにその家の主に対して無礼なのだが、携帯の社会はそういう礼の心を脇に追いやる。そして礼の心を忘れさった自己中の人間たちによって社会が動いていく。

もう、こうなってくると、この現代社会では、道端で便意をもよおしたとき道路に馬のように脱糞する。もしくは尿意を催して塀に向けて立ち小便する。ウンコをそこに落とすことの固有性はない。小便をそこにかけるべき固有性はない。したいからする。したくなった場所でする。もともとはプライベートな空間で行う行為だったにもかかわらず、いまや人目など一切気にしない。べきべからず観はない。ユビキタス・うんち。ユビキタス・しょんべん。もう、そこいらじゅう所構わず垂れ流しだ。携帯電話が隅々まで行き渡る社会とは、垂れ流し社会だ。そういう垂れ流し人間を大量に生産していこうというのがこのフーテン天国・現代ニッポンだった。Copyright(C) Watanabe Tatsuro

不治の二大精神病

この流れは止まらなかった。もう救う方法はないだろう。 携帯電話に典型的に表れた「場」空間の欠落と、インターネット掲示板などに表れた「匿名性」の氾濫。このふたつは現代人の不治の二大精神病かもしれない。

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