ポットン便所 10月8日

2008年版No.10
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いまどき「便所」などという言葉を使うのは野蛮人かもしれないが、「トイレ」という言葉を使ったからといって、ウンコが触ってもいいくらいにきれいなものに変わるわけではない。ウンコは「大便」だから、大便をする場所はやっぱり便所なのだ。シッコは小便だからやっぱり便所なのだ。

しかし、べんじょはどこですか、という言葉を公衆の面前で発するには気が引けるほど、わがニッポンは文明国になったらしい。トイレとか御手洗とか言いたがる人に教えてもらいたい。ウンコを英語で言うと、何なんだろう。英語で言うと、かっこよくウンコが出るのだろうか。ウンコは英語で何て言うのですか?

今日から、我がぼろ家のポットン便所が晴れて水洗トイレになった。笑。 水洗トイレは要するに、厠(川屋)なのであって、落として水で流すという、原理はじつに無責任で野蛮なシステムである。それに対して、ポットン便所(汲み取り式)は貯めておくシステムである。昭和の一時期までは貯めておいたものを肥料として有効に利用する、じつに文明的なシステムだった。世の中では、水洗の方が文化的、文明的だと思い込んでいるかもしれないが、わたしに言わせれば、それは逆だ。汲み取り式のほうが原理的にはるかに文化的、文明的なのだ。

我が家でも十何年前までは、便槽がいっぱいになると家の回りの畑に糞尿をまいていた。肥のたっぷり入ったオケを天秤棒でかついで、そして運ぶというのはなかなかコツというかテクニックが必要だ。バランスをくずさないように、腰を使ってすいすいすいと歩かねばならない。下手な人のばあいは、オケの中身がちゃっぽんちゃっぽんしだすと、その「返り血」をあびることになる。キャッ。まず熟練が必要だ。そして畑にざっとまく。くさい話だ。近所迷惑だっただろう。すみません。

しかし、「有機農業」というのは、そういうくさいものなのだ。近頃は有機栽培とかがいかにも有難がられる世の中らしいが、そいつは本当はくさいくさい話なのだ。都会のお上品な方々のお口に入る有機栽培農作物とは、そういうくさいプロセスを通ってくるものなのだ。まったく笑ってしまうね。

我が家の娘はポットン便所を忌み嫌っていた。この便所ひとつで、娘は友だちを我が家に呼ぶことを避けていた(笑)。こういう野蛮人の暮らしを友だちに見られたくなかったらしい。まあ、気持ちは分からなくはないのだが、そんなに恥じるようなことではないと、今でもわたしは思っている。くさいもの、汚いもの、は見えなくすればいいというものではないからだ。

わたしウンコする人、あなたウンコ処分する人、というウンコの分業社会というのは、どこかに歪みひずみを孕んでいる。ザーっと水に流して、あとは知らん、というのは、倫理的な問題を孕んでいる。人は、たべものを食べるときはそれを生んだ自然のめぐみに思いを馳せて感謝し、ウンコとして排泄するときはそのものがどこに運ばれてどうなるかに思いを馳せなければならない。

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