原油が高騰して灯油も高くなった。灯油といえば暖房くらいにしか使わない。現代日本の農家にとってガソリンや軽油は職業上で必需品なので、生活用品としての灯油とは違う意味合いがある。農作業の多くは機械を使ってなされる。耕耘、農薬散布、草刈り、収穫物の運搬。米や一部の野菜、根菜は収穫作業も機械を使う。果樹はその点、機械を使うわりあいは比較的少ないかもしれない。
ところが、現代農業の一部は業務上で、灯油を多消費している。温室だ。暖房するのは花や温室イチゴその他の施設園芸、ハウス野菜。これらが灯油代がかさんで大変だという。こいつは簡単に言って、農業ではなく工業だ。温度管理、水分管理、肥料/土壌管理、病害虫対策、これらをほぼすべて人工的な環境下においている。いわゆる自然界の動きとは隔離されている。したがって、やっているのは「農家」とはいえない。
農か工か、こういう区別そのものが現代では無意味になった、という見方もできるが、やはり、農と工とは別のものとして分けなければならないだろう。そこには、価値基準があるからだ。それは、「自然」をどれだけ意識するかというところにある。一方は、燃料費や材料費を意識する。他方は空模様を意識する。これは決定的な違いだ。空模様よりも人間様の都合を意識しているのは、農家とは絶対に言えない。
農家はいわば天から与えられたもののなかで暮らす。天は限られたものしか人に与えない。ゆえに農家は天の「恵み」に感謝し、天の「怒り」におののき、天の顔色をうかがう。インシャラー。そこには、さいごは諦念が支配する。あきらめだ。どんなに努力しても出来ないことは出来ない、そういういわば「当たり前」の境地にいきつく。たぶん、施設園芸はそういう世界とは縁がないだろう。すべてが「地」つまり人間様の世界の中で完結している。「天」とは関係ない。それはそれでいい。しかし、それは「農業」ではありませんよね。