農家の婿の無事件簿 1月20日

2007年版No.1
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2,3日前、NHKの第一放送で岩手、三上AKIさんが登場していた。人気ブログ『農家の嫁の事件簿』作者だ。まだ30歳前後じゃなかっただろうか。この方のブログは去年ときどき見させていただいていた。なかなかセンスのいい、生活感の満ちたイラスト日記だった。家業はたぶん主に畜産農家と言ったらいいだろう。

農家の「嫁・よめ」というとどことなく、けなげな感じ、よくやってるなあ、がんばってね、という声援を送りたくなる雰囲気がある。今どき農家に嫁ぐなんて、アンタ何を考えとんねん。という本音はおいておくとしても、米農家とか野菜農家とか畜産農家とか、農業の中でもとくに将来性の明るくない分野なのだ。しかも生き物を飼う農家は一年中家を空けられない。家畜というのは子供みたいなものだから、ほっておいたら死んでしまう。だからなかなか休むことも出来ない商売だ。大変だ。

まえは我が家もヤギを飼っていた。爺さんはヤギのために毎朝、原野の雑草を鎌で一抱え刈ってきて養っていた。冬場は豆の殻と茎葉を干したものや屑米、シナをやった。もう7.8年前の冬にぽっくり死んだ。わたしが農業を始めたときすでに飼っていたのが死んで、その後に来た2代目のヤギだった。もっと前のことは知らないが、豚やら牛やらいろいろ飼っていたこともあるらしい。こいつらヤギは、子供にヤギ乳を飲ませるために爺さんが手間をかけて飼っていたメスなのだった。ヤギ飼いを仕事にしているわけでないから、果樹栽培の仕事が忙しい季節にはけっこう負担ではあったのだ。

事件簿さんのところに「北国の農家からのお便り」みたいなことが書いてあるのを見て、そう、そう、と思い出すのが、かの有名な『北の国から』だ。わたしがまだ東京で仕事をしていた時分に放送していたテレビ番組。今の家内が住んでいたアパートに転がり込んで、ときどき見ていたのだった。というのも、わたしのアパートにはテレビが無かった。テレビなんてのはタバコと同じ。止められるときは止めた方がいい。あれは毒だから。無くても何も問題はない。むしろ人生を充実させるうえでは邪魔者でしかない。今はパソコン・インターネットがその毒をまき散らしている。困ったものだ。人生はますます寂しくなってきている。

と、話がそれたが、あの『北の国から』は大げさに言って一世を風靡していたんじゃなかったかなあ。「北」の方に大自然があって、そこに開拓しながら暮らす小さな家族(父と子)とそれをとりまく素朴な人々がいる。そういうイメージは、都会人にとってのロマンチックな憧れともなって、ドラマが人気を呼んでいたのだろう。たぶんに幻想ではあったにしても、そういうイメージは今の時代にもまだ息をつないでいるらしい。それが、事件簿さんの人気がある原因にもなっているような気がする。「北」という言葉のイメージは特別なのだ。(北朝鮮は知りません)

「農家の嫁の事件簿」にくらべて、我がぶ・ろ・ぐ@農は寂しく暗い『農家の婿(むこ)の無・事件簿』でやんすなあ。しかも初々しい嫁さんと違って、こっちは、あまり将来に向かって意欲的にがんばる気力もだんだん薄れがちになったオヤジだ。脳みその回転もかなりあやしくなってきて、近ごろは、ウェブを更新するにも一苦労している。

農家の「婿」というと、我が家は2代つづけて「ムコ」入りの農家だ。世襲制の商売はどうしても「ムコ」殿が欠かせない世界だ。細腕繁盛記というわけに、そうそういくものではない。男がいないと話にならない。そもそも田力と書いて男なのだ。嫁が来ない農家も絶望的だが、息子がいない農家も世の中いくらでもあって、今の時代、息子がいてさえ農業をやめる農家が多いのだから息子がいなければもう死刑宣告。つうか、安楽死しか道はない。じじ、ばば、の代で農家も終わりということになる。ニッポン中、そういう歴史がきざまれてきたのだ。これから、ますますそうなのだ。

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