春先、雪が畑からなくなった頃は、果樹を改植する時期にあたる。年老いて生産力の衰えた木、病気で枯れる運命にある木などを倒して、跡地に苗木を新植する。それに年によっては、大雪で致命的なダメージを受けた木、野ネズミに幹や根っ子をかじり取られた木なども回復の見込みがなければ倒すことになる。
こういうとき、まだ風が冷たくても土方仕事で汗をかく。大きい木は重機で倒すことが多いが、重機が入れない場所や直径10センチくらい以下の木の場合は、ふつうスコップと斧を使って人力で倒す。根っ子というのは頑丈なものだ。水平に広がる根は切りやすいが、中には斜め下やほとんど下向きに伸びた根があるから、これと断ち切るのには苦労する。
木を倒す話ではなく良い木を育てる話で言うと、下向きに伸びた根をゴボウ根と呼ぶ。で、そういう根は良い果実をいっぱい生産する上では必要ないものだ。とくにサクランボの場合は、若い幼木のうちは1、2回、わざと植え替えてそういうゴボウ根を切ってしまうことさえ行われる。
さてと、根っ子というのはふだん目にすることがないから関心が薄いが、植物を育てていく商売にとってはぜったいに重要なものだ。地上に生きている人間から見ると、根っ子は地上の幹や葉っぱ、花や果実とくらべてただの付け足しというか補助的な部分と思いがちだ。たんに水分や養分を吸って幹や葉に送るだけの器官。あとはせいぜい木が倒れないようにしている道具だ。しかし、逆立ちしてみれば、植物は土中に張りめぐらせた根っ子の方が本体であって、葉っぱや花は地上におまけにぶら下がっているもの、なのだ。土の中にあるのが主人で、空中にぶら下がっている幹、葉っぱ、花は子分。と見たって間違いではない。
その証拠に地上部が大部分傷ついても根っ子さえ健全ならば、新しい枝葉はしっかり出てきて育つ。逆に地上部が立派であっても根っ子が病気や野ネズミで傷むとその木はたいがい枯れてしまう。この地上と地下の関係を考えるとき、一番分かりやすいのが雑草だ。これは刈っても刈ってもまた伸びてくる。根が生きている限りぜったいに枯れない。死なない。そういうことなのだ。物事は一見して華やかな方が主で、地味で目立たない方が従だと思いこみがちだが、そうではない。
で、ちょっと考えてみた。植物でなく動物はどうなんだ。
蟻:地下の巣と地上のエサ場、その往復
蝉:一生の大半を地下で成長、地上では生殖交尾にほんの1週間くらいで死ぬ
モグラ:すべて地下生活
野ネズミ:蟻タイプ
ミミズ:モグラ・タイプだが、ときどき地上に出て移動する?ひなたぼっこ?
都会の人間:いろいろ。
そういえばドストエフスキーに『地下室の手記』があった。むかし若いころ読んだずな。地下のイメージは文学や映画のなかでしばしば重要な役割を演じてきた。地下室、地下道、地下通路、地下水道、地下洞窟。。
まあ、種類で言えば土の中で暮らす動物は限られてはいる。ところが微生物となると、これはもう土こそ世界だ。いやそもそも土というのは微生物そのものでもあるのだ。だから、土は生きている。生命は原始の海から生まれたといわれている。それとは別に、土の中の世界もまた生命の宝庫と言っていいかも知れない。そこの住民のほとんどは微生物。微生物の豊かさが土の豊かさをもたらして、さらには植物の根と共生しながら、その植物の繁栄を支えていく。
かなり話を飛ばせて、H.G.ウェルズの傑作『タイムマシン』。あれに出てくるのは、地下に住むモーロック人と地上に暮らすイーロイ人。柔和で美しいイーロイがじつは醜いモーロックにとっての食用家畜だったという、天才ウェルズの文明観、歴史観を象徴する小説設定。つまり地下の方が主人で地上は従という関係がここにも登場するのだ。地下を甘く見るべからず。