農家には定休日というものがない。祭日、祝日、関係なく仕事をするときは仕事をし、遊ぶときは遊ぶ。しかしたいがい、完全に一日まるごと遊ぶ日というものはそのほとんどが冬に集中している。12月の後半から2月の始めまでだが、それでも雪が積もれば畑に行って枝の雪払いをしたり、埋まった枝の掘り出し作業をしなければならない。それ以外の季節は、自分で休もうと思わない限り何かの仕事がある。雨が降れば降ったなり、風が吹けば吹いたなり、雪が降れば降ったなり、それに似合った作業がちゃんとある・・・。たとえ土砂降りでも、明日が出荷の予定日ならばりんごの収穫を必死ですることになる。雪降りでも、りんごに積もりそうなときは凍える手でフジりんごの収穫をしなければならない。晴耕雨読などと高等遊民的な暮らしをしていたら食ってはいけない。年がら年中、果物とともにお日様に焼かれ、風雨にさらされて生きている。
とはいっても、どうしても今日しなければならないという仕事がなければ、強い雨降りの時などは休んでしまう。ところが、これは前もって決めた休日ではないから、遊ぶ予定がたててあるなんてことはまずありえない。これが本当のその日暮らしというもんだ。わびしいなあ。「今度の3連休にはあそこへ行こう」なんて人間らしい暮らしとはまるで縁がない。で、今日を休みにしたとしてもロクに有意義な時間を過ごせないままに終わる。何ということだ。計画が出来ないつらさよ。まあ大人はいい。可哀想なのは子供で、連休だろうが何だろうが、何処にも連れて行ってもらえない。もう親と一緒に遊びに行くという年頃を卒業してしまったので何も言わないが、ずっとその手の不満は心に抱えていたはずだ。
さて、もっと若いころは、仕事がないと本を読むこともあった。とくに雪に閉じこめられる冬は何冊か買いだめして読むことが恒例になっていた。最近はどうも本読みの時間よりパソコンをいじっている時間の方が増えてしまった。なぜかと言えば、歳とって小さい文字を読むのが辛くなった。本読みは集中力が必要だ。ある程度のまとまった時間が必要だ。文字の羅列だけからイメージを作り上げる創造的で高度な知的作業が必要だ。それが歳のせいかおっくうになってしまった。
パソコンにも集中力が必要な場合もあるが、たいていはダラダラしていても機械とソフトが勝手にやってくれる。第一パソコンはアタマを使わない! テレビが登場したころ評論家の大宅壮一は「一億総白痴時代」と言った。パソコンはちょっと高級そうだが、実際はアタマを使わないという点でテレビと同じだ。使っているように思うとしたらそれは美しき誤解だ。使っているのではなく、使われているだけだ。実はパソコンにアタマを乗っ取られているのだ。パソコンに向き合っているとき、人間はパソコンを道具として使っているように信じ込んでいる。しかし本当は人間がパソコンのシステムの一部になっている。あるいはパソコンという王様とその世話をする召使いの関係。パソコンが考え知的処理をすべて引き受け、人間はたんにキーやマウスを動かすだけのパソコンの手足にすぎないのだ。脳味噌は完全に乗っ取られている。すっかりパソコン・アタマになっている。パソコンが主体で人間はその道具という関係。
ああ、恐ろしや。アタマを乗っ取られることの快感を一度覚えると、もうその誘惑からは逃れられない。人を何人殺しても。世界が破滅しようとしていても。人間、自分のアタマで考えるのを止めてしまったときほど幸福なときはない。何の迷いもない恍惚のひととき、忘我の境地。宗教も然り、セックスも然り、か。他人や神様やらが全部考えてくれているのだから、何が起きようと自分の責任ではないし悩むこともない。ドストエフスキー先生もそんなことを書いていたような気がする。
若い人に言っておこう。パソコン捨てよ野に出よ、と。ついでに言っておこう、街を捨てよ書を読もう、と。昔、寺山修司は若者に向かって「書を捨て、街に出よう」と言った。本から得られる死んだ知識よりも、生きた街の表通りや路地裏に新しい発見があるのだ、と。しかし今や全然違う。現代日本の街はすでにバーチャル化(仮想化)しきって生身の現実を失っている、街はどこもかしこもディズニーランドだ。そんな街に出てみたところで明日はない。それなら家にこもって本をじっくり読む方がよほどマシだ。街を捨てよ、書を読もう。