アップル・パイ 日付なし

2004年版No.1
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これは今ごろ書く話ではなくて、本当は秋に書こうと思っていたことだが忙しくて出来なかった。

毎年秋も半ばになると、東京のお客さんからアップル・パイが届く。お手製だ。いつからだったか、もう4、5年になるだろうか。我が家の紅玉りんごをお届けすると、さっそくパイにして送ってくださるのだ。こういうのは本当にありがたい。ふつうはりんごを送っても一方通行だから、送ったあとのお客さんとのコミュニケーションは余りない。代金のお支払い程度だ。地元の人なら顔を合わせることも多いが、遠方にお住まいだと相手がりんごをどうされるのか、味をどう思われたかなど知りようもない。それがこういうふうな形でりんごを使ってくださっているのだなあ、と分かれば生産者としてはうれしくもなる。

紅玉、こうぎょく、市場では「べにだま」と呼ぶ。りんご品種のなかでは今や特殊な位置にある。生食用としてよりも加工用、料理食材としてのりんごとして。料理好きの方なら紅玉の他の品種には代え難い貴重さをよくご存知だろう。今の主流品種ふじ、つがるなどでは、まず美味しいりんご料理は出来ない。酸味が無いかもしくは足りないからだ。サクランボで言えば佐藤錦とアメリカンチェリーを比べてもらえばいい。佐藤錦は甘いが単に糖度があるだけでなく酸味がまじっている。酸味を抜いてしまうと日本のサクランボがもつ食味は失われる。同様に酸味のないりんごを使った料理はしまりのない味になる。ジュース、サラダ、お菓子、すべて酸味のあるなしで結果に大きな差が出る。

この紅玉だが、樹の上で完熟させると十月半ばには蜜も入ってくる。このころ畑でりんごの収穫の手を休めて、もぎたての紅玉をズボンでごしごしこすって口にする。空は澄んだ秋晴れだ。風もなく赤とんぼが一面に浮かんでいる。もちろん皮ごと丸かじりだ。こういうのが絵になるりんごは紅玉を置いて他にはない。ふじでも、つがるでも、スターキングでも、丸かじりは似合わない。大きすぎる。皮が硬すぎる。たしかに酸っぱくて、生では食べたくないという気持ちも分かる。世の中は甘いものがあふれかえっているので、日本人一般の舌はもうちょっとした酸味にも耐えられない造りになってしまったのかもしれない。が、生で食べてじゅうぶん美味しい紅玉はこの世に存在する。我が家の取引のある果物屋は「りんごはふじと紅玉さえあればいい」と断言するくらいだ。

人間の味覚はおそらくその時代その時代の社会のありようによって規定されているだろう。おおざっぱなところでは時代や社会に関係なく、美味しいものは美味しく不味いものは不味いかもしれない。しかし味覚は、もっと色んな要素がからんだ相対的、総合的な感覚だと思う。たとえば同じりんごでも食卓に皿に盛られて出てくるりんごと、畑で樹からもいで食べるりんごとは自ずから違う味がするはずだ。同じおむすびだって家の中で食べるのと運動会やハイキングへ行って食べるのとでは全然違うはずだ。人々の生き方、労働の姿、生活する場所、などによって食感、味覚は変化しうる。紅玉が美味しいと感じる社会、それはちょっと簡単には表現できないが、失ってはいけない社会のような気がする。ある社会の姿ありようとして。

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