フジりんごの収穫を始めた。例年より5日くらい早めの開始だが、天候の影響かいつもより熟度が進んでいるようだ。
収穫には「はけご」と呼ぶかごを肩からたすき状に掛けて、もいだ果実をそこに入れていく。だいたい8キロ程度入る。これが当地の果樹農家の収穫スタイルだが、他の産地では肩から掛けるようなかごではなく、盛りかごのようなものを腕に下げてりんごを入れていく地方が多いようだ。当地のスタイルは全国的に見て特殊なのかも知れない。
この竹製の「はけご」だが、これを作る人がだんだんいなくなっている。売っている店の話では、当地で売られている製品は新潟から仕入れてきているものだという。こういう道具を作れる人が日本からいなくなってしまう時は遠からずやって来るだろう。そうなると、りんご農家の重要な商売道具だからかなり困ったことになるだろう。
ふじの収穫を前に、今までの「はけご」は底が抜けてきたので新しいものと取り替えることにした。何年も使っているとどうしても壊れてくる。収穫期には雨の日、風の日、連日のように働いてくれる道具だ。この「はけご」一つがその壊れるまでの生涯中に運んでくれるりんごは合計100トンにも及ぶだろう。化学工業製品で「はけご」の代用品も売られているが、やはり竹製品には到底およばない。竹素材特有の軽さ、丈夫さ、しなりが化学製品には欠けている。右の写真に写したものは、いずれも現役の道具。飾っておく「民芸品」ではない。
いつも果物を買っていただく方はご存知だが、りんごの出荷箱はもちろん段ボール製。果実は緑色の薄いパックに並べる。果実の上には発泡ウレタン?製の白いネットをクッションとして入れる。箱の底には、果実の大きさに合わせて高さを調節するためと、輸送時のクッション代わりにするために、我が家では稲わらを敷いている。本当はというか、一般的にはというか、底もネットにする農家が多い。ネットの方が荷造り作業は簡単になる。稲わらだと、先ずわらの長さを箱に合わせて切りそろえなければならない。わらの上に一々古新聞をかぶせなければならない。それに何といっても「田舎くさい」。これは素朴で良い、という言い方もあるにはあるが、手間を考えると何百、何千の箱をあつかう専業農家にとってはあまり楽でない・・・。
今もなぜ稲わらを使っているかと言えば、ネットなんて石油化学製品のない時代は皆そうしていたからだ。その名残だ。稲わらの在庫がまだ沢山あるので、使うのを今やめるのはもったいないからだ。それに石油化学製品はできれば余り使いたくない、という気持ちもある。
稲わらはタダで手に入ると思っている人も多いかもしれない。しかし、わらはタダではない。稲作農家から代金を払って買ってくるか、稲の収穫作業などを手伝って報酬としてもらってきたものだ。れっきとした「商品」なのだ。使い道があってそれを必要とする人がいれば、それは「商品」になる。稲は実の部分つまり食べる米だけが「商品」なのではない。稲わらも、もみ殻も、米糠も、本来どの部分だって捨てるところなど無かった。わらは縄の材料にもなるし、糠は漬け物作りに欠かせない。石鹸代わりにもなっていた。まさに有効利用とはこのことだろう。そしてそれらは日本の稲作文化の一部を生み出していた。
りんごの輸送は昔、木箱に米のもみ殻を入れてそこに果実を埋め込んでいた。私はりんご産地の生まれでないのではっきりとは覚えていないが、子供のころ野菜・果物屋の店先にそういうりんご箱が置かれていたような記憶がかすかにある。思い違いかも知れないが・・。りんごというのは、果物のなかでも衝撃に最も弱い部類に入るだろう。ぶつけると果肉が茶色くなってしまう。そういえば、昔は生卵も確かもみ殻の中に詰めて売られていたはずだ。これは思い出すことが出来る。今の卵は透明パックか紙パックに変わった。りんごを木箱にもみ殻で詰めて荷造りし市場へ出すというのは、かなり手間のかかる大変な作業だったそうだ。まず大量のもみ殻の確保と貯蔵が必要で、作業小屋のかなりの空間をもみ殻貯蔵室に当てていた。
我が家はいまでも当時の木製りんご箱を収穫用に使い続けている。軽トラックに空箱を積んで畑にりんごもぎに出かける。りんご箱の底には稲わらを敷いてクッション代わりにしている。現在の果樹農家の主流はプラスチック・コンテナだ。我が家ももちろんプラスチック・コンテナと木箱を併用している。コンテナの方は軽いし積み重ねも比較的容易で、しかも空の時は一個のコンテナを別のコンテナの中に入れてさらに別のコンテナをかぶせると体積が減らせて便利だ。木箱だとこうは行かない。
しかし木箱には木箱の有利さもある。それはちょうどプレハブ住宅と木の住宅の違いに似ている。木箱には保温性もあるし、湿度を適当に保つ機能もある。プラスチック・コンテナにはそれがなく、中に詰められたりんごにとっては「吹きッさらし」と同じだ。だからりんごを保存する上では木箱にまさるものはない。
稲の文化は急速に滅びつつある。竹の文化も急速に滅びつつある。どちらも日本のコメ作りとモノ作りの衰退が背景にある。それは本当の「手作り」文化の衰退に直結している。同時に、土に根ざした文化、すべて土から生まれ土に帰っていく有機的文化の衰退を意味しているだろう。生態系の破壊に直結しているだろう。石油文明のなかで経済効率と、経済合理性の犠牲となって・・・。