薪割り、飯炊き、小屋掃除、みんなでみんなでやったっけ。
雪解け水が冷たくて、苦労したことあったっけ。
今では遠くみんな去り、友を偲んで仰ぐ雲。
毎年恒例、薪割りの日々だ。薪割りは集中力、そして腰を使うこと、これがすべて。それなしでは割れないどころか大ケガをしかねない。
枝が分かれている部分や節のある部分は、もっとも割りづらい。割りづらいということを植物の側からみれば、枝の分かれ目、付け根のところほど頑丈でちょっとやそっとでは割れたり折れたりするものか、ということになろう。相手が割れまいとすれば、こちらは必死で斧を振り下ろす。
ところで、果実の姿がちがうようにリンゴ、西洋梨、桜桃、それぞれ樹の性質もちがう。薪割りをしたときにそれがよく分かる。西洋梨の枝は断面が上下に長い長円形をしている。桜桃、桜の仲間は幹、枝が左回り(時計と反対回り)にねじれている。割ろうとするとそのねじれに沿って割れる。ねじれているからパーンときれいに割れてくれない。とても難儀する。じつはよく見るとリンゴもかすかに左回りにねじれている。が、桜桃は極端だ。このねじれ現象の理由、原因はいったい何か?
北半球では低気圧は左巻き、風呂の湯を落とすときにできる渦も左巻き、南半球ではその逆。だったかな。これは地球の自転が生み出す不思議な「コリオリの力」によるものだ。むかし物理の時間に習ったね。北半球に住む人の頭のつむじは左巻き、オーストラリアやアルゼンチンの人は右巻きのつむじ頭だ。というのはもちろん嘘。アサガオの蔓は左巻きにのびる。南半球に持っていくと右に巻いて伸びていく。というのも嘘です。『岩波生物学辞典』によると、アサガオ、インゲン豆、ヤマフジなどは左巻きで、ホップ、カナムグラなどは右巻き、ネナシカズラ、ツルニンジンなどは左右両方あるという。
頭の体操。桜桃の樹幹は左回りにねじれている。とすると、樹が成長して幹が太くなっていくにつれ初めは南に出ていた枝はだんだん東に向きを変え、北に出ていた枝は西に向きを変える、ということになるのだろうか? いやいや、そんなのは見たことないぞ。木が年々メリーゴーランドみたいに回りながら大きくなるなんてのは。しかし・・・・・・・・。私は考え出すと眠れなくなる。
さて、我が家で今使っている斧は、言うまでもなくホームセンターへ行っても買えない。モノが違う。現代のやつは粗製濫造だ。まず心がこもっていない刃物ほど役に立たない代物はない。鋏(ハサミ)や鋸(ノコギリ)、鉋(カンナ)、鑿(ノミ)、皆そうだろう。プレスして作った刃物と職人がたたいて鍛えて作った刃物とは品質がまったく異なる。漢字で書いたのが本物、カタカナで書いたのが現代のインチキ商品。職人技ほどすばらしいものはない。大量生産、経済効率優先の現代の刃物は、使いものにならん。「昔が良かった」と言うのは年寄りの証拠、だと決めつけるのはたやすいが、それは実態を肌で体験しようとしない頭でっかちの言いぐさだろう。
近代科学がもたらした「複製技術時代」は道具も芸術も、とことん劣悪なものにしてしまった。ほんとうは道具も芸術も個人的、個別的、具体的な場面でのみ生きてくる。同時に道具も芸術も、どんな場面にでも対応していけるだけの柔軟なふところの深さと幅を備えていなければ、一流にはなり得ない。「個別的かつ普遍的」。これを同時に満たすことこそがホンモノの道具と芸術の必須条件だ。しかもその力は、現代の品物のような使い捨てを前提としていないので、じつにしぶとい。いつまでも使える。現代の大量生産製品は決まった条件の下でのみ有効な働きをするだけで、その条件からちょっとでもズレると機能不全に陥ってしまうのだ。人間もまったく同様で、使い捨て可能な人間には死んでもなりたくない。誰がやっても同じ結果になるような、マクドナルド的仕事しかできないような現代人には用はないのである。
冒頭に引用した大学山岳部と私は何の関係もないので念のため。