剪定作業がようやく終わった。あとは接ぎ木をして、それから雪が消えしだい、切った枝を始末するための焚き火をするというスケジュールだ。。
高校野球を見ながらいつも感じることがある。地方の代表になる高校の野球部 でその地方に生まれて育った球児がどの程度いるのか、という点だ。公立高校 を除いて多くの私立高校の場合、いわゆる地元出身者はそう多くないのが実体だろう。 つまり選手の原産地を表示すれば、今の高校野球はまず成り立たなくなるのではないか? 甲子園に出てくるような学校は、全国各地の有望な中学生をかきあつめてチー ムを作っていることが多い。いわゆる野球留学組である。これは、このごろ世間を騒がすことの多い「産地表示のウソ」の典型的な例だ。そういうウソの上に甲子園の情念とドラマが成立している。スコアボードの選手名の下に出身県(出身中学)を書き加えたら、甲子園を見る時の新しい楽しみができそうな気がする。ちなみに昨年夏の優勝校、高知の明徳義塾は100人を超す野球部員のうち地元出身者はわずかに3人だったそうだ。
ここで、産地を表示することの価値がどこまであるのかを、もう一度考えてみる必要があるかもしれない。高校野球はお祭りだから、インチキ表示も許されるが、ここのところ産地を偽ってカネを儲けようという企業がやり玉に挙げられている。チキンフーズも日本ハムも輸入ものを国産だと嘘をついた。一般に「国産」と名前が付くと高く売れるという日本の社会風土がある。国産の方が安ものと受け取られるのはワイン、映画、クラシック音楽・・、あと何があったかなあ・・。外国製の方が高級だと見られる場合、国産の方が品質がよいとされる場合、入り乱れている。
農産物で産地を表示する意味があったのは、もともと農産物が地面に育つもので あって、その土地の自然条件にいやおうなく左右されるという本質に負ってい るからだった。ローカルであることが疑うことのできないほど有効である範囲においてだった。 産地によって農産物の品質に明らかな違いがある、という事実が生きている範囲においてだった。原産地表示の意味があった。そうした違いは産地による格付けを産み、産地ブランドが生まれた。青森のリンゴ、山形のサクランボ、新潟県南魚沼郡のコシヒカリ・・・ 逆にダイオキシン騒ぎで所沢の野菜が売れなくなるとか、東海村の核臨界事故で茨城県の干し芋が敬遠されるとか、産地が災いする例も見られるようになってきた。 農産物の3、4割が輸入品で占められ、水産物の半分が輸入品になっている現在は、産地表示の意味にも変化が生じてきた。 こうした農産物の産地表示の明示性と匿名性については、後でもうちょっと深く考えてみたい。
ちなみに、トーマス・フリードマンの『レクサスとオリーブの木』(草思社刊)は経済のグローバル化に抵抗する側の人々をさげすむかのように、地面にしがみついて離れようとしないオリーブの木として批判した。トヨタの高級乗用車「レクサス」こそがすべての人にとっての憧れであり、経済社会の目標であるかのように誉めたたえた。国境を越えて飛び交うマネーこそが経済を活性化させる原動力だというのだ。その伝で言うと、高校野球の部員も都道府県の境目を飛び越えて、地元生粋の野球少年を甲子園から閉め出し、甲子園の野球のレベルを向上させ、産地をもたない高級乗用車だけがグランドを駆けめぐることになる。そこでは地域の代表なんてどうでもよい。ただ、優秀な選手が甲子園に出てこればいいというわけだ。へたくそな田舎のオリーブの野球少年などお呼びでない、というわけだ。
さてさて、あなたの、「品質」は、「表示どおり」、ですか? 年齢、生まれ、職業、性別、学歴、趣味、性格、、、。