山形県白鷹町で、朝5時半の"目覚ましチャイム"が住民の苦情をうけて停止したという(朝日新聞2/20)。同町では1954年から、午前5時半、8時半、午後5時、午後9時の4回、毎日キンコンカンとチャイムを鳴らしてきたそうだ。役場を中心に5キロの範囲に届くように。午前5時半のものから順番に「起床」「町役場始業」「役場終業」「就寝」の意味で鳴らすのだという。役場の始業終業時刻を町中に音で知らせることの価値がどれほどあるのか、同町住民でない私の知る由もない。が、常識的に見てあんまり必要には思えないな。それはまだ良い方で、就寝時間ですよー、という夜9時のチャイムはどうにも余計なお世話としか感じられない。町民が長い間これに異議を唱えなかったとしたら、そっちの方が不思議だろう。それはともかく今回問題となったのは早朝の「起床」チャイムだ。
白鷹町はかつて町民の半分以上が農家だったという。そして朝5時半の起床チャイムには、農作業を始めましょうという意味合いが含まれていたそうだ。ところが今では、田舎の町でも日本のどこでも農家の割合はわずかなものになった。農作業に縁もゆかりもない人にとっては、起きろ寝ろと指図するようなチャイムを愉快でないと感じるのは自然かもしれない。
米沢市舘山地区でも時を告げるサイレンが毎日鳴る。白鷹と違って朝6時、正午、夕方6時の3回だ。役場の仕事時間の都合とは全然関係ない。農作業とも直接の結びつきはない。純粋に一日の区切りの時を告げているだけだ。小高い山の上から鳴り響く。農家にとって朝6時はけっして「早い時刻」でない。だいたい5月から10月にかけての農繁期には5時仕事開始がふつうだし、サクランボのシーズンだと4時半には出かける態勢に入っていなければならない。それに夏は暑い日中の仕事をなるべく避けて朝の涼しい時間帯に作業をやったほうが楽だ。ということで、農家は今の朝のサイレンは何の抵抗感もなく聞き流して過ごせる。故障などで鳴らないとかえって気になるくらいだ。それに山の上からだから遠くまで届くが、目を覚まさせるほどの大音響ではない。農家以外の人にとっても多分うるさくはないと思う。もちろん何事にもちょっとしたことが気になるたちの人にとっては迷惑である可能性が皆無とは言えない。都会でピアノ殺人があるように・・・。
しかし冬は別だ。11月、12月と日は短くなっていき、朝は6時半を過ぎてようやく薄明るくなるのが冬場だ。だから白鷹の5時半サイレンというのは、冬に限った場合「起きろー!!」と叫ぶには明らかに早すぎる。本当に真っ暗だからだ。白鷹町の苦情の主は県外から嫁いできた人だという。そういう人にとっては、音が大きい限りにおいては迷惑にちがいない。いやこれも多分個人差があるだろう。そんなに気になるほどの音量だったら、元々の住民だってそうそう我慢していなかったはずだ。50年も続いてきたということには、やっぱり気にならない人の方が大多数をしめていたことの証拠でもあろう。これはもう、そこに実際に住んでいる人が判定を下すほかない問題だが。
白鷹という個別の問題から離れて一般論で考えてみると・・・。チャイムとかサイレンとかを鳴らすことの是非はともかく、朝明るくなったら仕事を始め、暗くなったら家に帰る、これが農家の基本中の基本とする生活日課だ。思えば電気のなかった時代は、農家に限らずこの生活時間のサイクルで人々は過ごしてきたわけだ。清少納言だって毎日夜明けと共に宮仕えを開始した。これが本物の自然の「ライフスタイル」というやつだった。現代では自然の生活は滅びゆく運命だ。朝型人間とか夜型人間とかいったことが言われる。文明人はやっぱり夜型になる傾向を最初から持っているのだろうか。もともとヒトは夜行性の生き物ではなかったはずだから、夜型と言ってもほんとうの夜型なのではないが、都会では普通の人が日が暮れた後5時間も6時間も起きて騒いでいるわけで、生物学的には不思議な(異常な?)現象と言えるのかもしれない。夜型化していくことは生物学で説明可能なのか、それとも生物の仕組みを無視した純粋に人工的な文化現象なのだろうか。言葉を換えると、"夜の方が元気が出る人"というのは「遺伝子」レベルでそういうふうに設計されているのだろうか。そうではなくて文化的、後天的に外の環境たとえば電灯の普及がもたらしているのだろうか、いわば「ミーム」レベルとして。
注)「ミーム」というのは『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスが言いだした概念。なんだか観念的で取って付けたような概念なので私は無意味だと思っている。