雪が非常に少ない冬だ。雪対策の仕事が楽で良いようなものの、少なすぎるのも気持ち悪い。それに厳冬期は雪国の農家にとっては骨休めのゆったりした季節でもある。程々の雪が降れば、程々に自宅でゆっくり充電できる。畑の枝に積もった雪を落とす作業はかなりの重労働だが、これだって特別の大雪でない限り毎日毎日やらなければならないものではない。それが雪が極端に少ないと春の雪解けも早まるわけで、その日程に合わせるとなれば当然果樹の剪定などを早めに進める必要が出る。で、遊びに出かけたり自宅でゆっくりしていられなくなる。
私の場合は仕事がないときは本読みかパソコンいじりだ。私がパソコンをいじり始めた最初は古いノートパソコンでだった。あれは何年前だったかな。1993、4年ごろかなあ。妻が買って使っていたのだが、事情があってやめてしまった機械を、引き取ったのだった。普通の家庭とはたぶん逆だろう。パソコンと言ったって単なるワープロとしてだけだ。まだ MS-DOS の黒い画面で、しかも初期の液晶ディスプレイはひどく暗く、部屋をあまり明るくすると何が書いてあるか読めないほどだった。ときどき印刷するための文章を書くぐらいで、パソコンそのものに興味は無かった。以前は妻が何やらキーボードに打ち込んでいるのを遠目に、コンピュータを使うのは馬鹿の証拠、なんてうそぶいていたものだ。いじり始めたと言っても年に数えるほどの日数だけのことで、普段はさわりもしなかった。当然、Windows95 が発売されたときにも私の視野には一切入ってこなかった。
そこに変化が起きたのは、知人に中古のWindows95マシンをもらってからだった。98年の暮れのこと。それから結構遊んだ。ハードディスクを一発お釈迦にしたこともあった。自分でパソコンの中をいろいろと繋いだり外したりもせざるを得なかった。この時もらったマシンはハードディスク、メモリ、CPU のどれ一つとしてもらったときのままの部品は無い。つまり中身は全然別の機械になっている。私もいちおう工学部の落ちこぼれなので、多少の機械いじりは苦にならない。今そのもらったマシンは子供のものになった。もうスペックとしては子供用としても見劣りがしていて、今時のパソコンにとうてい太刀打ちできない。間もなくご用済みになるだろう。この機械から数えれば現在の主力機は3代目になる。この間、Windowsが起動しなくなってアワを食ったことも1回や2回でない。しかしその度にそれは皆いい勉強になった。私などは典型的にパソコンにはまった口と言えるだろう。
しかし最初に機械をくれた知人が言っていた言葉を今でも覚えている。その知人は1980年代末にコンピュータ産業界に関わって会社を起こし、ずっと仕事をしてきた人だ。パソコンに詳しいやつにまともな人間はあまりいない、と。何をもって「まともな人間」というかは諸説あるかもしれない。が、何となく分かるような気がする。コンピュータをいじっていると、どうも人間がおかしくなるような危惧は確かにある。パソコンを使っているときに働いている大脳の部分は、普段の生活で使っている部分とかなり違う場所のように感じる。
昨年、『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)という本が出版されたとき、インターネット上でこの本が袋叩きになったことがある。[サイコドクターあばれ旅]では精神科医が批判。今でもこの話は続いている。たとえば[スラッシュドットジャパン]。もちろんインターネット上に出てくる意見、感想だから、それらを主張する人は皆パソコンを日常的に使っている人たちだ。たいがい、そういう人たちは同時にテレビゲーム系の遊びに慣れ親しんでいる人種でもあるといえるだろう。だから必然的に、ゲームやコンピュータを批判する勢力に反発することになる。この『ゲーム脳の恐怖』については私自身、本をよんでいないので評価しない。したがって批判していた彼らの論も私はその是非の判断をできない。どちらも科学的根拠、合理的論理において自分たちの主張の正しさを展開していた。どことなく漫画が子供の教育に良いか悪いかという昔からある論議の焼き直しみたいな気はする。
脳のしくみが変わってしまうかどうかの「科学的論争」はおおいに結構だ。私としては、ゲームばかりしている、とか、パソコンにはまってしまった、とかいう状態はやはり健全ではないと考えている。昔、寺山修司の『書を捨てよ、街に出よう』というのがあった。それに倣えば「ゲーム機捨てよ、街に出よう」とか「パソコン捨てよ、畑に出よう」とかいうスローガンが思いつく。アルコール依存症やギャンブル依存症があるように、ゲーム依存症やパソコン依存症だってあるだろう。まあ現代社会はコンピュータ依存症状態にあって、これがないと夜も昼も明けない。インターネットのブロードバンド化で一般家庭もパソコン漬けになる日は遠くなくなった。インターネット上にある各種の「掲示板」はインターネット依存症患者の巣窟だ、なんてことを書くとヤバイかなあ・・・。アハハのハ。
余談だが、精神科医ぐらいヤブの多い業界もないようだから気を付けないといけない。「精神科医」というとみんなすごい知識と教養と才能をもつ高級な人だろうと思ってしまうし、何か凶悪殺人などの社会的重大事件が起きるたびにマスコミからお呼びがかかってもてはやされることが多い。事件の背景を精神医学的装いでズバリと分析して見せてくれたりする。しかし所詮ただの人間。心を扱う医者だから偉い、というものじゃない。ましてホームページを開くような文化的精神科医というのは怪しいね。ホームページ開いているブンカ的農家と同様にうさんくさい。そんな暇あるのかねえ、と言いたくなる。
完全に蛇足:精神科医療というのは心の医療ではない。現在は、医者が患者の心を読み解くといったカウンセリングを除けば、薬物治療がほとんどすべてと言っていい。代表的な症状の鬱病、統合失調症(旧名:精神分裂病)はみな薬物治療で対処される。向精神薬と呼ばれる化学物質を脳に送り込んで脳神経の伝達機能を調整する。色んな脳内物質を化学的にコントロールする。いわば脳味噌に加える調味料の種類と分量を考えて処方し、ちょうどいい味加減に仕上げるのが精神科医の仕事だ。それは「精神」という言葉から連想される形而上的世界、文学的世界、宗教的世界とは無縁といえる。