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ネットワークと革命 ・・・「風説留」が世界を変える [2010/2/7]

「情報ネットワークの濃密さとは、政治闘争に加わった武士たちだけに見られる現象ではない。政争には直接関与しないものの、幕末政治に強い関心を寄せていた豪農、豪商、在村知識人らがそれぞれのネットワークから得た伝聞を書き記した『風説留』(情報記録)が、全国各地に数多く残されているのである」
(『明治維新』 坂野潤治・大野健一・共著、講談社刊)

古き良きジャーナリズムへの郷愁

昨今、世を騒がせるマスメディアの報道姿勢について、マスコミの自浄能力を期待する人々も多くいる。どこか新聞ジャーナリズムへの郷愁がただよってさえいる。ながいあいだ古臭いジャーナリズム世界で食ってきた人々の、古き良き時代。権力と対峙する正義の味方。それは、もはやたぶん取り戻すことのできない遠い遠い幻想になっただろう。自浄能力を期待するのは、原理的にムリだ。

いうまでもなくマスコミは権力のひとつであり、それは旧来からピラミッド型をした権力組織だった。国家権力の形に自分の形をぴったり合わせることによって呼吸してきたのが新聞社だ。だから新聞社は国家権力と相似形をなしている。言い換えれば、国家権力の影法師が新聞社だと見ていいだろう。国家権力が右手を挙げれば、影法師も右手を挙げる。国家権力が逆立ちすれば、新聞社も喜んで逆立ちするのだ。

それは現実の組織と人的配置をみるだけで納得されるだろう。各省庁、各部局から地方自治体にいたるまで、司法・行政・立法権力の各部署部署にすべて貼りついて、それらの記者を統合管理しているのが新聞社組織の肉体であり、神経系統なのだ。つまり、別のものとして剥がすことなど不可能な、まったくコインの裏表のような姿形をしているのが国家権力と新聞社組織だ。

官庁の記者クラブでは、記者会見とレクチャーが通常の行事になっている。レクチャーの方が回数として多く、役所が発表する資料を事前に担当者が解説してくれる。これには「しばり」があって、「何月何日の何時以降、解禁」というふうに、新聞社なら印刷発送していいタイミングの制限、テレビ局なら放送していい時刻、が役所側から指定されてくる。もちろんレクチャー無しのただの資料配付だけもある。

こういう記者クラブ制度というのは、官庁にとって、自分たちの広めたい情報を民間企業が無料で広報してくれるという、何とも手放しがたいメリットがある。役所自身が作る官報だの広報だのは、一般の人にとって面白味のない四角四面のものがほとんどだが、新聞やテレビ記者にエサを投げてやれば、彼らは喜んで、おもしろおかしい記事にしてくれることになる。官僚にとって記者クラブにいる記者は飼い慣らせば役に立つイヌだ。

もう一点、民間の企業を間に介在させることで、官庁側にとっては「客観性」を偽装することができるという大きなメリットがある。自分たちがむき出しの広報宣伝をするのではなく、新聞・テレビをクッション代わりに利用するのだ。つまり、ここでは役所とマスコミは役割分担した共生・補完関係にある。

真の権力には顔がない

かつて「権力」といえば特定の権力者個人を指すことがふつうだっただろう。いまでも特定の政治家は、顔が見える、声が聞こえる、という意味で大衆にとっていちばん分かりやすい権力の姿だろう。「権力者ツラ」した権力者がいろいろ目に浮かぶだろう。権力が栄えるのも衰退するのも、その特定の名前と顔を持った権力者と一体に語ることが出来る。

けれども、当然ながら権力は目に見えるものだけがすべてではない。むしろ目に見えない権力の方が圧倒的に強力で鞏固で、特定の個人を名指すことが出来ないという意味でひじょうに厄介で危険な存在だ。フランツ・カフカの小説には、そういう姿を現さない、掴みがたい、顔のない権力が登場する。こっちの方の権力は斬っても斬っても血を流さないし、すぐに再生してくる化け物だ。

担当検事、担当検察官の名前を公開することは「捜査妨害」である、という論理がまかりとおる。『週刊朝日』の2010年2月12日号が掲載した記事にたいして、東京地検の谷川恒太次席検事が抗議してきたという。抗議文には冒頭にこうある。「捜査に従事している現場の検事を名指しした上で、(中略)、などとする全く虚偽の事実が記載されている」。そして終わりに、「事情聴取の内容に関する記載も全くの虚偽であり、このような事実に反する記事は、読者に大きな誤解を与え、検察の信用を著しく失墜させるとともに、捜査に従事する現場検事の名誉を害するものであって、極めて遺憾」と抗議を締めくくっている。読んでいて、最後の一節は、笑いがこみ上げてくるような名文だ。

まあ、大新聞やテレビが流す「リーク」報道が「全くの虚偽」ではなく、一般新聞「読者に誤解を与え」てはいない、と谷川氏が主張しているかどうかは、問わないことにしよう。いずれにしても、現場の検事を名指ししたことが逆鱗に触れたらしいことは想像できる。検察は名前がないのだ。検事個人の名前は極秘事項なのだろう。これが、「顔のない国家権力」の生命線だ。つまり、みずからの匿名性によって国家権力は守られている。

この顔のない国家権力に対抗できるのは、マスメディアでありえないことは、国家権力とマスメディアが共生関係にある点からも明らかだ。マスメディアのような、国家権力と相似形の集権的権力構造をもった組織体が対応できるのは、個人や私的団体に対してだけだろう。個人や私的権力を批判することしかマスメディアにはできない。たぶん、それはマスメディアそのものの遺伝子的な限界とでも言ったらいいかも知れない。新聞やテレビの報道姿勢に自浄能力を期待すること自体、原理的にムリな注文だというのはそういうことだ。

新聞もテレビも、個人が大好きだ。個人は持ち上げやすく、個人はたたきつぶしやすい。ヒーローに祭り上げやすく、極悪人に仕立てやすい。なるべく個人としてユニークな個性的な自己主張の強そうな人物ほど、そういうターゲットに仕立てやすい。新聞やテレビの上を流れるニュース情報と呼ばれるものを見れば分かるだろう。スキャンダル。個人を公開リンチにかけるのが、マスメディアの十八番だ。これは「やめられない、止まらない」の美味しさ。一度味わうと、もうダメらしい。新聞もテレビも権力なので、その権力を行使したがるのは当然だ。権力を行使しやすい対象をみつけると徹底的にリンチを加える。総理大臣だろうと与党幹事長だろうと、自民党だろうと民主党だろうと、殺人容疑者だろうと誰だろうと、リンチを喜んでくれる人がいると思えば実行するのだ。リンチのネタなどどうでも良く、おもしろおかしさだけあればいい。

しかし、マスメディアは、真の権力、顔のない権力のまえでは沈黙する。

衰退メディア

新聞は基本的に衰退メディアであって、これを存続させなければいけない理由はない。佐渡島のトキ・センターで人工増殖してやる自然科学的根拠も社会的な公益性もない。要らないものは無くなる。それが自然の流れ、歴史の必然というものだ。朝日新聞と日本経済新聞は去年、赤字に転落した。毎日、産経はもっと以前からだ。公開していない読売新聞も状況は同じだろう。各社とも売上高は右肩下がりをつづけている。広告収入も毎年落ちつづけてきて、ついに去年、新聞はネットに逆転された。

もちろん、新聞社もテレビ局もインターネット上に自社ニュースサイトを開いている。しかしネットで生き残るとしても、もはやマスメディアとしての権力を行使することの出来ない、弱小組織として生きながらえる道が残っているだけだ。なぜなら、マスメディアは本質的に中央集権型の情報配信システムであり、佐々木俊尚氏の表現を借りれば「垂直統合モデル」のメディアだ。すべてが横並びのインターネットの地平線とは、まるで相容れない。インターネットには中心がない。中央がない。網の目状のネットワークがさえぎるもの無しに広がっているばかりだ。そんな世界に、寡占的なピラミッド型権力としての「マスコミ」など在りようもない。

この1年、ネット上を中心にわき上がるマスコミ・検察批判にたいして、大新聞社の社説・論説の狼狽ぶりは痛々しいほどだった。とくに2010年1月、2月の状況は、滅んでいくものの悲痛な叫びに満ちている。西松建設疑惑に始まって、小沢一郎代議士、石川知裕代議士をめぐる事件報道は、マスメディアの没落を決定づける歴史的なターニングポイントになった。

新聞ジャーナリズムに牧歌的な郷愁をおぼえる、古いタイプのジャーナリストは、そろそろ退場するときが来ている。もはや、まったく新しいタイプのジャーナリズムが生まれ育つ時代なのだ。

オープンソースと革命

革命はつねに、ピラミッド型の旧体制権力構造に対して、中心を持たないネットワーク型の運動が攻撃・蜂起すことによって起きる。ネットワーク型の運動はネットワーク型の情報メディアに支えられている。 冒頭に引用した『明治維新』はつぎのように続けている。

「さらにそうした知識人らが集まって情報の交換と確認を繰り返すという形式で伝播した。情報の大量生産・大量消費ではなく、情報を需要する人自身が骨折って集めたものを交換し合うという、中心を持たない私的結節点の網状の広がりであった。」

1999年に発表されたエリック・S・レイモンドの『伽藍とバザール』は、オープンソースの優位をうたってあまりにも有名になった。

「インターネットのかぼそい糸だけで結ばれた、地球全体に散らばった数千人の開発者たちが片手間にハッキングするだけで、超一流の OS が魔法みたいに編み出されてしまうなんて、ほんの 5 年前でさえだれも想像すらできなかった」(山形浩生・訳)

「伽藍」方式つまり大聖堂のような集権的、権威的で閉鎖的な組織のなかで、これまた特権的な性格を持つ特殊な集団=聖職者が作り出すコンピュータ・オペレーティング・システム Microsoft Windows にたいして、そうではなく、「バザール」方式によるシステム開発のメリットを主張した。バザールつまり自由市場(いちば)のように、売り手や買い手がわいわいと入り乱れて雑然としたなかで取引が進む。そこには特権階級も命令するものもいない。全部が開かれていて全部が自由だが、そこにはちゃんと秩序が保たれている。

それから10年。インターネットというメディアは世界のあらゆる分野に浸透した。表通りだけでなく狭い路地裏まで、ネットワークの小径がつながった。ソースをオープンにして、それを共有しながら誰でもが自由に参加して何かを作り上げていく。そういうスタイルが広がった。

ちなみに、この文章を書いている筆者自身、オープンソース方式で作り上げられたオペレーティング・システム=Linux の上で、これも同じオープンな性格を持つ強力なソフトウェア Emacs をつかって文章を編集し、さらに同様の手法で開発されたブラウザ Firefox で表示させている。インターネット上に発信する手段も、同様のオープンソース・ソフトウェアだ。

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの『マルチチュード』も、このコンピュータ界から生まれた思想・スタイルに触発されながら、つぎのように書いた。

「マルチチュードによる民主主義は、ひとつにはオープンソース社会として理解することができるだろう、すなわちそのソースコードが公開され、全員が共同してバグを解消したり、より良く新しい社会プログラムを創造したりできる社会として」
(『マルチチュード』 幾島幸子・訳、日本放送出版協会刊)

インターネットの奔流

こうした考え方はメディア・テクノロジーそのものの技術革新にも影響を与え、それがまたコミュニケーションのあり方にフィードバックされるだろう。これは誰も止めることができない。現実を見ればそれは明らかだ。テキスト情報を提供する Blogに、映像情報ツールとしての YouTube、USTREAM などが加わったこと、それらを支える通信基盤の整備が進んだことで、まったく新しいネットワークの奔流を生み出している。旧体制のピラミッド構造体を倒すのは、新体制が組織化したピラミッド構造体ではない。主役は、地平線、水平線にひろがる中心を持たないネットワーク組織だ。そこには、もうマスメディアの出番は用意されていない。

ところで、ひとつの大きな疑問が湧いてくる。 2大政党制というのはひょっとして誤った制度目標ではないのか、と。単純に、政権が代わったからといって日本の現状ではピラミッドそのものが入れ替わるわけではない。国家権力の存在は、この期に及んでも揺らいでいるように思えない。あるいは、「政権交代」「2大政党制」というスタイルを確立しさえすれば、それだけで果たして真の民主国家が担保されるものなのか。さらに、ネットワーク型の社会と2大政党制との関係はいったいどうなるのか、どうあるべきなのか、と。


追加補足(2012年10月):わたし自身が反省しなければいけないのだが、上記の雑文はメディアとしてのインターネットをあまりにも楽観的に評価しすぎていた。3.11以後の原子力発電をめぐるツイッターその他の荒れ方、デマの氾濫、脊髄反射的な書き込みを見ると、絶望的なものを感じる。誤解、曲解を招くのが当然の、わずか140字への崇拝。ことばの垂れ流し状態に加えて、プロとアマチュア、専門家と大衆の境界があいまいになったこと、発言力が悪い意味で「平等」になったこと、のマイナス面の大きさには呆然とするのみ。