西松建設政治献金事件で、小沢一郎の公設第一秘書逮捕の話題がかけめぐった。例によって新聞とテレビが、東京地検特捜部の情報操作に乗った。
水戸黄門ストーリー
表向き、検察とマスメディアは「政治とカネ」の枠組みでストーリーを展開している。「政治とカネ」の枠組みで大衆にこびるのはマスメディアだが、その脚本は検察官僚の制作によるものだから、東京地検特捜部自体が大衆受けを狙って情報を操ろうとしているのは言うまでもないだろう。多くの日本人は、テレビドラマ『水戸黄門』が好きだ。悪役に仕立てられた代官を助さん角さんが徹底的になぶり倒すのを期待して、わくわくしながら待っている。ただの善悪二元論であれば良く、正義が悪を倒せば安心する。むずかしい理屈はいっさい要らない。そもそも、「国策捜査」という耳慣れない言葉や、ややこしい構造のドラマは一般大衆受けしないし、ひねりの効いたシリアス・ドラマでは、視聴率も上がるわけがないのだった。
この「政治とカネ」のストーリーとはどういうものかは、以下のページに詳しい。この人の解説はとても説得力がある。
田中良昭 『政治とカネの本当の話』1 / 『政治とカネの本当の話』2
年度末の恒例行事
小沢一郎は、公設第一秘書の大久保氏が逮捕された翌日の記者会見で、これまで逮捕されるようなことがなかった事例で検察が秘書を逮捕したことを怒った。
それは、こういう話にたとえることができるかもしれない。小沢一郎の秘書が50キロ制限の道路を50数キロで走っていたのを逮捕された。59キロだったかもしれない。51キロだったかもしれない。車の後部座席には小沢が乗っていた。乗っていた小沢もスピードのオーバーをとうぜん知っていたにちがいない。もしかして「早く走れ」と命令していたかもしれない。けしからん。というわけだ。
日本の年度末は、予算消化のための公共工事がバタバタと始まって、道路があちこち掘り返される。これは全国どこでも見慣れた早春の風景だった。年度末は、交通警察の検問があちこちに張られて、シートベルト非装着やスピード違反でやられたりするものだ。これも日本でよくある季節の恒例行事だ。彼らも仕事をしているふりをしないといけないし、警官もノルマや点数を稼がないと昇進で差がついてしまう。だから年度末は特に、わたしたちもパくられないよう気をつけたほうがいい、ということになる。検察庁もまったく同様の行動原理で動く。誰かを摘発、起訴しなければ自分たちの存在価値がなくなるからだ。彼らが純粋に正義感で動いていると信じるのもいいが、現実はテレビドラマほどには美しくはない。
小沢の車が拘束されて、スピードが1キロオーバーだ、いや10キロだ、と道路の真ん中で取締官とすったもんだしている。その結果、道路は大渋滞。みんな迷惑。しかし取締官にとってはスピードの1キロ2キロの違いだけが大事だ。その仕事に対する勤務評定が大切なのだ。こうしたモチベーションで動いている国家公務員が行使する国家権力、その権力のお神輿をかついで騒いでいる正義のテレビや新聞。マスコミの記者諸氏はみんな「法定制限速度」をしっかりと守って車を運転しているのだろう。素晴らしいことだ。
そういえば、どこかで小沢一郎は「明治以来の日本の統治機構をつくりかえる」と主張していたのを思い出した。統治機構とは、霞ヶ関、巨大な官僚主導の支配システムのことだ。その中枢ともいえる検察官僚が、小沢に先制攻撃をかけてきた。そう見れば、小沢一郎が4日の記者会見で「国家権力」を非難した意味もわかるというものだ。
国策捜査?
ところで、2005年に出版されて話題になった『国家の罠』は、「国策捜査」ということばを世間に印象づけた非常に面白い本だったが、今回の西松建設事件を考える上でいろんな示唆に富んでいる。
佐藤優(外務省官僚)は鈴木宗男自民党代議士(当時)とともに東京地検特捜部によって逮捕された。2002年、小泉政権のもとでだった。世界はアメリカのアフガニスタン侵攻後の激動期にあった。タリバン政権を早々につぶしたブッシュ政権は、つぎのターゲットをイラクのフセインに定めて動いていた。佐藤の書くところでは、逮捕されたのはいわば「地政学論」派、ロシア・スクール派の流れに属する人たちだった。この事件で、ロシアとの関係改善派が政界と外務省から追放された。
佐藤は自分たちの逮捕につながった、国家権力による「国策捜査」の目的(歴史的必然性)を次の2点として総括している。
1.ケインズ型公平配分政策からハイエク型傾斜配分政策(新自由主義)への転換。
2.アメリカ、ロシア、中国との関係のバランスを取りながらの国際協調主義から排外的ナショナリズムの強化への転換。
ここで小泉政権の政治手法をもういちど思い出さなければならない。靖国参拝による中国、韓国への挑発的行為。東アジア地域での孤立的ナショナリズムと、その裏腹にお互いのむすびつきを強調したブッシュ政権との癒着関係があった。それは、日本人の中にある嫌中国感情を利用した大衆へのアジア蔑視デマゴーグ。一国行動主義に走ったブッシュ政権への完全な追随。そして竹中平蔵を登用した「官から民へ」の規制緩和路線の強行。自己責任論の吹聴。世界の単純な二分法で善玉と悪玉を色分けすること。改革側と抵抗勢力との色分けによる反対勢力の追放。
日米、日中、トライアングル
同じような視点で見てみれば、今回の小沢事件については、捜査の背景に、田中角栄を逐い落とし葬り去ったロッキード事件に近いものを感じさせることになるだろう。かつて、角栄は「アメリカという虎の尾を踏んでしまった」と言われた。日中外交に活期をもたらした角栄は、ある意味で対米従属を脱しようと動いた最初の政治家だった。世界を回って首相自らが資源外交を展開した。それまで保守政権の主流は戦後の日米関係の基盤を築いた宰相吉田茂やCIAに支えられた岸信介の系列(吉田も岸も高級官僚の系列だ)とはまったく別の、日本の土着的な、非官僚の流れから出てきたのが田中角栄だった。
小沢一郎は外交政策で見れば、中国重視派、日米対等関係派といえる。先日のクリントン国務長官の来日前後にも、「日米と日中は二等辺三角形だ」という小沢の発言が伝えられた。それは昔の小沢からすれば大きく変身した姿とも言えることだった。なぜなら、1993年に小沢が出した『日本改造計画』では、外交安全保障政策として湾岸戦争のさいに日本が国際的評価を得られなかったことを受けて、アメリカの政策に協力する体制作りをとくに強調していたからだ。あの湾岸戦争や米ソ冷戦終了直後の時代、そうした考え方があったのはやむをえないことだっただろう。それからもうかなりの年月が経った。国際環境は大きく様変わりした。とくにアジアにあっての中国の経済発展は冷戦時代からはまったく想像できない。とうぜん小沢もまた時代とともに変わってきたということになるだろう。
加えて、鈴木宗男代議士の場合と同じように、やはり小沢もまた田中角栄以来の「地方の利益」を重視する政治家の代表的な存在と言える。もともとが大都市型の政治家ではない。
こういう、外交関係や国内政治のバランス、政治家と官僚の力関係の、その流れを大きく変えることをねらって「国策捜査」が発動される。それが佐藤優の主張するところの『国家の罠』ということになる。内政外交の流れを作りかえるための手段でいちばん国民の支持や共感を得やすいのが、「カネ」のスキャンダルだ。マスメディアが大々的にカネ、カネ、カネと連呼すれば、その攻撃対象とされた政治家や企業や個人はどんなに力があっても有能であっても無実であっても社会的に抹殺できる。法的責任であれ、道義的責任であれ、抹殺しようとする側にとって理由はどうにでも作れる。観客としての「大衆」が味方してくれるのだから、これほど楽なことはない。
「非国民」としての小沢一郎
それにしても、毎日新聞とか朝日新聞とかの世論調査では、小沢はやめろ、と言う人が国民の2人に1人だそうだ。この「調査」というのを聞いてゾッとしないわけにいかなかった。突然の秘書の逮捕からわずか3,4日あとに実行された調査だ。これを見ると、検察とか公安警察とかとマスコミが組んで3日も騒げば、まだよく分からない理由であってもひとりの個人を明日にでも死刑にできるらしい。50%以上の多数決で決めてしまえることらしい。まったくおぞましい国。恐ろしい国民だ。こういう状態を暗黒社会というのではないか。国家検察のテロリズム、マスコミのファッショというのではないか。
昭和の戦争はこんなふうに国民の無責任、無関心な態度からはじまった。自分のアタマで何も考えないで国家権力に付和雷同する庶民が、国策に疑問を持つものを「非国民」とののしることになった。ドイツでは秘密警察ゲシュタポに密告された「ユダヤ人」はガス室におくられた。現代の日本社会にとって「非国民」は小沢一郎らしい。民主主義もこうなるとお終いだろう。小泉劇場以来、一般人がマスコミによってたちまち煽動される空気が世の中に深く広がってしまった。
今回は、総選挙でたんに政権交代に影響するしないという短期的な問題ではなかった。表向きの自民党 VS 民主党の対立でないのはもちろん、小沢 VS 霞ヶ関の対立だけでもないということ。誰でも分かるように、アメリカとの関係をどうするかという国の基本的な在り方を左右するほどの大きい問題にまでつながっている。「国策捜査」の仕掛け人は、政権交代を嫌う特定党派(森派の某人物)というよりも、最後まで正体を見せない、「顔のない国家権力」それ自体なのかもしれないね。