今年、元フォークルの加藤和彦が死んだ。
忌野清志郎も死んだ。清志郎といえば、わしらの年代だとRCサクセションの印象がつよい。
PPMのマリー・トラバースも死んだ。
忌野清志郎はいわゆる「フォーク」の人ではないから、ちょっと置いておいて。音楽をあまりジャンル分けするのはどうかとも思うが、日本でフォークといえば生ギター1本で自作曲をうたうというスタイルだっただろう。ボブ・ディランが教祖かな。その点、PPMのスタイルはまったく違うけれども、当時のふつうの中高生に与えた影響は大きかった。
秋のある日、夜の風呂に浸かっていると、ふと「500マイル」が口から出てきた。なぜだか理由は分からないし、風呂に入るといつも出てくる歌でもなかった。
If you miss the train I'm on,そうしたら、その何日かあと、マリー・トラバースが死んだというニュースがあった。
You will know that I am gone.
You can hear the whistle blow a hundred miles.
PPM は、1960年代のフォーク・ソング・ムーブメントを支えた柱の一つだった。PPM にはヒット曲も数多い。「悲惨な戦争」「パフ」「レモン・ツリー」「我が祖国」「悲しみのジェットプレイン」。。あの時代、生ギターをちょっとさわった人間なら誰でもが、一度は彼らの歌をうたってみただろう。あの男2人女1人というユニット・スタイルは当時はかなり新鮮なものだった。この「500マイル」は、日本の歌で言えば「北帰行」みたいなものか。地味な歌だが、やはりいつまでも心に残る歌だった。なんと、忌野清志郎も歌っていた。これは細野晴臣と坂本冬美との異色ユニット。
あのフォークの時代は、テレビが歌謡曲とグループサウンズの場だとすれば、ラジオがフォーク・ソングのメディアだった。それも深夜放送が、新しい歌が生まれて育つ場所になっていた。フォーク・クルセダースの「イムジン河」は、なかでもレコード発売直前に発売中止になった歌として、あまりにも有名になったが、この歌もあのころ、ラジオでは毎晩いつでも、どこかの民間放送で流れていたものだった。ラジオが中高生のメディアだった。
その頃、わしは西日本の日本海側にある町で暮らしていた。深夜放送は地元のラジオ局ではやっていなかったから、ラジオのダイヤルを、東京のニッポン放送や文化放送、TBSなどに合わせて聞いた。なにしろ電波が弱いので、夜中12時を回らないと聞こえない。しかも途中で弱くなったり聞こえなくなったりするのが普通だった。「イムジン河」もそんなラジオから聞こえてきた。
そういう土地では、ラジオをつければ北京放送、モスクワ放送、朝鮮放送ががんがんと入ってきた。北京とモスクワはもちろん日本向け日本語放送で、東京からのラジオ電波などよりはるかに強力、鮮明だったのだ。「偉大な指導者・毛沢東主席」ということばがいつも流れていたのを、いまでも思い出す。
大学は荒れていた。ベトナム戦争が激しかった。清志郎の「500マイル」が心に響かないのは、電気楽器を使ったこともある。けれども、いちばん大きな原因は、歌と時代が結びついていないことだ。「500マイル」は、PPM が歌った時代にこそ生きた歌になりえた。
日本のフォークも、もう完全に懐メロになった。思えば、40年も昔のことだ。今では考えられない、純朴な時代だったか。時間は、はるか遠く500マイルの彼方に過ぎ去った。日本の若者はラジオさえ聞かなくなった。