新聞やテレビ報道をくわしく見ているわけでないから、事実誤認があるかもしれない。と、いちおう断っておく。
大阪のパチンコ屋に集まっている人にガソリンをかけて火を付けるというのは、ちょっと方向がおかしい。仕事がないとかカネがないとか、社会が悪いというのなら、そういう社会を代表するような特定のお金持ちや権力者を攻撃対象にえらぶのが合理的思考だろう。しかし、彼はそうしなかった。
「特定の誰か」をねらって、他人から見られないような場所、人通りの少ない時間帯に犯行におよぶ。これがふつうの犯罪だろう。しかし昨今の通り魔殺人とか無差別殺人とかは、あかるく賑やかな場所を犯行現場にえらぶ。それは、そこには「幸せそうな人々」がたくさんいるからだ。たまたまそこにいた人が犠牲になる。彼の心に見えるのは、不幸な自分と、幸福な群集のふたつしかない。しかも、その群集には顔が無い。男は世の中から孤立、断絶してしまっている。関係の糸がかんぜんに切れてしまっている。だから、彼には人々の「顔」はまったく見えない。群集の一人一人にそれぞれ違う顔があって、それぞれ違う人生があることがまったく見えない。つまり「誰でもいい」のだ。
さて、一見「幸せそうな人々」にガソリンをぶっかけて焼き殺す。ニッポンでこれを一人の男がやらかすと、無差別殺人という名の凶悪犯罪となる。自分だけが不幸で、幸せそうな社会が許せない。なんで自分だけこんな目にあわされなければならないのだ。誰でもいいから殺してやる。と。
ところが、新疆ウィグル自治区で、多くの群集が同じようなことをやると、暴動と呼ばれる。あるいは民族差別への抗議行動、経済格差をなくそうと立ち上がった美しい反乱として、世界の同情を買う。暴動というのは、だいたい無差別に、たまたま目についた人や建物、車を襲う。儲かっていそうな商店に焼き討ちをかける。衝動的な「鬱憤ばらし」であって、計画された政治行動ではない。結果として180人ほどの人が殺された。軍や治安警察が殺したわけではなく、死者のほとんどは群衆同士の無差別な殺しあいの結果だっただろう(たぶん。いや、外国からは警察の虐殺だという叫びもあるが、根拠があるとは思えない)。
ここで考える。
なぜ、ニッポンでは生活に苦しい者たちがあつまって「暴動」を起こさないのだろうか、と。なぜ、ニッポンでは、生活に苦しい男がたった一人で、パチンコ店に放火するのか。なぜニッポンでは、男がたった一人で秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込むのか。なぜニッポンでは、個室ビデオ店で男が死のうとして放火するのか。なぜ、みんな一人ぼっちなのか、と。
わしらの若いころは政治デモなんてものは日常茶飯事だった。しかも1960年代末あたりは、暴動、騒乱の空気さえ世の中にそこはかとなく漂っていた。いまのニッポンでは、街頭から政治的デモ行進はほとんど消えた。ましてや衝動的な集団の騒乱なんかはありえない。静かでじつに平和だ。目の前には一見ゆたかで明るく幸せな社会が広がっている。
けれども、いまのニッポンでは、人間はみんなバラバラ。人生のレールからうっかり外れた男は、ひたすら孤独でわびしい世界に墜落していく。サラ金地獄にはまりこんでいく。そして、たった一人の寒々とした部屋で、外の「幸せな社会」をうらみ、突発的に無差別殺人というかたちの抗議行動を爆発させるしかなくなった。そういうことなのだろうか。
暴動、もしくは無差別殺人の段。
こんなものを並べて同列あつかいするのはケシカラン。という、ありきたりの声もあるだろうことは承知。