豚インフルエンザに対する免疫力がないことよりも、マスメディアが垂れ流す情報に対する免疫抵抗力が欠けていることの方がずっと深刻な問題だ。
情報をコントロールするものは世界を制する
ここのところ、あまりにも同じような話が多い。どうも、ニッポン人ほど情報免疫力の欠けた国民は、世界でも珍しいのではないか。豚インフルエンザ騒ぎは、この情報免疫力が足りないことの危うさを、またまた示すことになったのではないか。
これは情報とか報道とかでメシを食ったことのある者ならすぐ分かることだが、そうでない一般の人はただのマスメディア情報の受け手にすぎないから、情報操作というものの危険を感覚的に理解できないらしい。この危険から自分を守るためには、お上(かみ)の流す情報への抵抗力がぜったいに必要だ。たとえば、3日間、かんたんな同じフレーズを大声でくり返すことで、国民をかんぜんな催眠状態に落とすことが出来る。かつて小泉くんはこれを見事に実行した。新聞とテレビを最大限利用し、一般国民を味方につけ、仮想敵をでっちあげた。「抵抗勢力」だ。郵政選挙の大勝利はそうしてもたらされた。最近で言えば「小沢辞めろ」はまさしくこれだっただろう。新聞とテレビが総動員されて、検察権力による「辞めろ」大キャンペーンが張られた。
こういうとき、ナチス・ドイツの情報相ゲッベルスを思い出すのもいいだろう。情報を操作し、情報をコントロールするものは世界を制する。まず、被害者意識をたくみに利用する。自分たちは被害者だ、と思わせる。だれかが我々を苦しめている、と思わせる。そいつらは自分たちの財産を奪いとって利益をむさぼっている、と思わせる。たとえばユダヤ人、たとえば抵抗勢力、たとえば霞ヶ関の高級官僚、たとえばゼネコン「金権」政治家。そして、やつらをやっつけろ、と叫ぶ。ぶっ壊せ、と絶叫する。
こういう、国民を催眠状態に落として誘導していくためには、必要条件がある。その条件は、中央集権的な全国一律のマスコミが確立されていること、新聞・テレビはいつも真実を報道しているという信仰が国民にあること。多くの家庭が新聞を毎日配達してもらい、多くの家庭が毎日毎晩テレビを欠かさず見ていること。つまり、上からの情報支配がかんたんに出来る体制が完成しているのが、このニッポンという国と言えるだろう。
免疫を高める
それはそうとして、情報操作への免疫を高めるにはどうしたらいいか。最低限、いつも情報は斜めに読むよう心がけなければならない。ふつうの人はタテかヨコにしか読まない。しかしそれでは情報の後ろにあるものは見えない。ニュース報道は「作られている」ということ。情報にはかならずバイアスがかかっていること。情報の送り手は情報を作って、それをあるバイアスをかけて受け手に送り出してくるということ。それが見えない。
バイアスというと分かりにくいが、たとえばこういうことだ。新聞記者はまず記事を書く。とうぜん記者の主観が文章に反映する。それは、まあ、いいだろう。そこから先が問題だ。編集局デスクあるいは整理部と呼ばれるところが記事の扱いを決める。ボツか、ベタ記事か、それ以上か。ベタ記事というのは新聞の一段分の小さい見出しがつく記事のことだ。記事の基本はこのベタ記事だ。これを大見出しのついた記事にするケースが出てくる。大見出しをつける、ということは記事そのものに別の価値を上乗せすることだ。この記事は大ニュースだぞ、という付加価値。これがバイアスの典型だ。
新聞の紙面はこうして、ある意図をもって作り上げられる。4段抜き、5段抜きの大見出しがつく記事と目立たないただのベタ記事とが、新聞社の価値観で振り分けられる。新聞社のデスクは、こっちの記事のほうがこっちの記事より価値が高いぞ、と勝手に判断して紙面を編集する。しかし、もともとの情報というものは、見出しを全部取り去ったところにある。新聞を広げて、見出しをぜんぶ切り抜くか消してしまって見れば、そこに、バイアスがかけられる前の情報が見えるはずだ。素のままの情報が見えるはずだ。
安全保障上の深刻なマイナス
ところで、豚はテポドンと酷似している。危機に異常な過剰反応するという意味でよく似ている。豚インフルでもまた、マスコミ報道が日本人をかんぜんに催眠状態におとしいれた。そのテレビも新聞も、自分自身を制御することすらできない。客観的に自分を見直すことすらできない。ただひたすら大騒ぎをするだけの、烏合のメディアになり果てた。
豚にしろテポドンにしろ、危機はマスメディアが大騒ぎするほどの危機だったのか。政府が厳戒態勢をとるほどの危機だったのか。韓国メディアはニッポン人のテポドンへの対応を冷やかに批判した。平和ボケ・ニッポンの過剰反応を笑った。ミサイル迎撃の大スペクタクル。脅威脅威の大合唱。そして今回の豚騒ぎ。豚でこれほどまでに国民、政府、マスコミあげての大騒ぎをした国はニッポン以外にはない。
危機ではなかったとは言わない。しかし、度が過ぎているんじゃないの。正気なの? ということだ。
ものごとを慎重に、最悪の場合を想定して、最大限の予防対策をとるのが正しい、責任ある立場だ、という考え方もある。そういう人は必ず「備えあれば憂いなし」ということわざを持ち出すだろう。
けれども、必要以上に過剰反応することは有害無益にもなるのだ。かんたんに言えば、ほんのちょっとの「毒」をまいてやればニッポン人は大混乱するということを、世界にさらけだした。「毒」はほんものの毒でなくてもいい。「毒もどき」でもニッポン人は大騒ぎしてくれる。ちょっとのことで過剰反応する国家は、他国から見れば気持ち悪い人たちだろう。同時に、他国から見ればひじょうに攻めやすい国家だ。国民ひとりひとりの情報免疫力が欠けているので、いとも容易に情報操作することができるからだ。こういう「もろさ」を世界に宣伝するのは、ニッポンの安全保障上、まことによろしくない。おバカ国家を世界に宣言するようなものなのだ。
養殖池の雑魚
養殖池の雑魚状態というものがある。
お上が水面にエサをまく。すると、ワッとサカナが集まる。口を大きく開けて殺到する。これを毎日毎日くりかえす。サカナは条件反射で、何も考えずに反応するようになる。自分でエサを探す努力をしなくても、お上がエサをくれるので、サカナの脳味噌はどんどん退化していく。ある日、エサのなかにちょっとだけ毒餌をまぜてやる。ちょっとだけでいい。