年賀状を出すのをやめた。
思えば何十年か前、年賀状など出していなかった。いつから出すようになったか覚えていないが、少なくとも30歳までは、そんなもの出していなかったはずだ。10代のころはもちろん出していなかった。 他人のことをとやかく言うつもりはないが、自分にとって、こういうものが全然意味を持たない、自分と関係ない年中行事に戻ったということだろう。若いころと同じように。
日本人にとって、東アジアの人間にとって、西洋暦で新年を祝うのはおかしい。 旧暦(太陰太陽暦)で祝うのがもっとも日本人らしい生き方といえる。今年は西洋暦1月26日がその日に当たる。西洋暦で1月1日というのは、カレンダーにそう書いてあるからだ。空を見ても山を眺めても、川に佇んでも森を見ても、どこにも「新年」とは書いてない。まして雪国では、こんなのとても新年だの新春だの言えたものではない。
中国人が西洋暦ではなく春節で正月を祝うのが、まさしく伝統文化と言えるものだろう。日本人が西洋暦でやるのは、ただペリーの黒船がやって来たからだ。ただそれだけの理由で伝統を捨てた。なんて、伝統を大切にしない民族なのだろう。年賀状を出す度に、日本人は一年に一度くらい、そういうことを考えてみたらどうか。
百歩譲って西洋暦を基準に考えるとしても、日本人にとって一年の区切り目は4月1日だろう。この日にこそ新年の抱負がいちばん似合っている。春こそ新年、始まりのときだからだ。
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ちょっと補足。
年賀葉書であいさつするという「伝統文化」なんてものはない。参考:年賀状博物館
伝統といっても高々明治時代からだ。しかも葉書を出すというのは特殊な人たちだけだった。ふつうの人がやることになったのはずっと後だ。
こういうのは、クリスマスイブにケーキを買うとか、バレンタインデーにチョコレートを贈るとか、そういうのとまったく同じ。ほんらいは意味があったことでも時が経つうちに形だけが残って、中身がなくなる。そういうパターンだ。お菓子屋さんだけ儲かる。ケーキなんてめったに食べられなかった時代はそれなりに華やいだ雰囲気を味わえたものだが、いまの飽食の時代には、クリスマスケーキの味さえ薄くなった。ありがた味がなくなった。
年賀状もそのとおりで、形だけ生き残っているが、もう形だけだから、多くの人が仕方無しに毎年暮れになると葉書のことを心配して、中身のないことにアタマを悩ませるようになる。。それは、義理チョコならぬ、義理年賀状というやつだ。たんに数をばらまくだけが目的になった。もちろん、年賀葉書の発売を待ちきれずに、局に並ぶお年寄もいるらしいし、年賀状を人生の生きがいにするのも人それぞれ、自由だ。しかし、年末年始に日本中を行き来する年賀葉書のほとんどは「仕方無しに書いて出す」葉書だろう。ちっともおめでたくない。喜ぶのは郵便局だけだ。民営化したんだったかなあ。ただの独占企業になっただけだろうに。そして、この郵政民営化というやつも、後ろにまたまた黒船アメリカの影がちらついていた。
というようなことで、ただの一民間企業でしかない郵便会社の売上げを増やすために年賀葉書がある。そんなの、やってられん。