2007年を一字で表せば、「偽」だという。人が為すのが「偽」という漢字だ。天にも自然にも「偽」はない。天と自然にあるのはすべて「真」つまりホンモノだけだ。「偽」があるのは人間の世界に限られる。天然自然界には、「偽」とは似て非なる「擬」というものがある。昆虫や植物が見せる擬態がその典型だ。姿を何かに似せる。弱い者が強い者の姿に似せて自分の身体を作る。あるいは、何か他の虫や動物の姿に似せてエサを呼び寄せる。人間が名前だとかレッテルとかを偽装するのとはわけが違う。
人とモノ、モノと人、モノを介した人と人との関係が希薄になった世界では、かならずニセモノが横行する。モノそのものに人間が向き合わなくなった世界では、モノにつけられたレッテル、名前だけが、そのものを判断する唯一のモノサシになる。モノ自体の具体的な価値ではなく、名前、ブランド、能書き、という抽象のほうに価値が置かれるようになったのが、現代社会だろう。これが偽がはびこる背景にある。
モノそのものの性質、品質を人間が改変するのは容易ではない。不味いお菓子を美味くするのは困難だ。くさった牛乳を元に戻すことは出来ないが、包装紙やお菓子のネーミングを変えるだけで美味しそうな商品に簡単に変わる。ときには製造年月日を書き換えればいい。モノにつけられたレッテルは簡単に書き換えられる。はがして貼り替えればいいだけのことだ。だから、偽表示がはびこる。表示は変わるが中身が変わるわけではない。
名は体を表す、というのはウソだろう。名は体を覆い隠す、というのが真実だろう。誰にも偽装を止める力はない。そもそも、ブランドとか品質表示とかしか信じなくなってしまった、その病的な社会、病的な消費生活にこそすべての原因があるのだ。こういうブランド信仰、レッテル信仰の社会がある限り、「偽」の絶えることは絶対にない。むしろ、ますます偽表示は我が世を謳歌し、ニセモノが世界を制覇していくのだ。
偽を防ぐためと称してとられる方策は、ことごとく裏をかかれる運命にある。表示を事細かく法制化して、表示を義務づければ義務づけるほど、モノ自体よりも表示の方に価値が移動していく。これは底なし沼にはまる道だ。その道を進んでいくと、品物が見えなくなる。品物自体が見えなくなるくらい、「品質表示だらけの商品」になる。まるで耳成法一(みみなしほういち)だ。品名、原材料名、重量、製造年月日、消費期限、賞味期限、原産地、製造者名、加工者名・・。細かく書けば書くほど「正確」にそのモノを表すようになると思うのは、実に美しくかつ愚かしい錯覚・誤解だ。現実は、書けば書くほどに、お経のように分けが分からなくなっていく。そして仕方なく、分けも分からないお経を「信」じるしかなくなっていくのだ。
こうもウソ表示が多いと何を信じていいか分からない、といった街の声がテレビで報道されていた。「誰かエライ人にレッテルを貼ってもらわないとそのものの価値を自分で判断できないのですよ」、これらの人々はそう告白している。何が信じられるかも見失ってしまうほど、現代の消費者は無能化したというわけだ。じつに寒々とした風景。偽装がはびこるのが寒々としているのではなく、物事を自分の目、耳、舌、鼻、手足でじかに判断できない消費人間が、大量生産されていることの方が寒々としているのだ。
解決への最も近い道は、表示を無くしていくことだ。表示を精密に正確にしていくことではない。全く逆に、表示は大雑把に、かんたんに、できるなら一切レッテルを貼らないことこそ、「偽表示」の泥沼から抜け出す唯一の方法だ。当たり前だね。表示そのものがなければ偽表示もありえない。言葉でモノの価値を見るのではなく、表示で判断するのではなく、自分の五感でモノに触れてすべてを判断する。それこそが社会に力を与え、活力を回復させ、人とモノの関係が生き返る。そういう未来につながるのだ。ちょっと無理か。