ここ何年か前から感じていることだが、女は粗暴になってきているらしい。 車を運転しながら、行き交うドライバーをいつも見ていると、20代、30代の女性ドライバーの運転が妙に粗暴であることに気づかされる。前はここまでひどい感じはなかった。何かが荒い。角がとんがっている。それと同時にタバコを手にしての運転が目に付く。タバコドライバーのほうは、明らかに生活のストレスを抱え込んでいるふうに見える。もちろんこれらの女性タバコドライバーは会社勤めだ。フロントガラスの向こうに心が荒れすさんでいる「働く女」の姿が透けて見えそうだ。
比較的若い女が主役の異様な殺人が目立つことについては、いろんな議論があり得るだろう。下に参考としてあげてある。
福岡の看護婦グループによる連続・夫殺人事件。何人の夫が殺されたんだったかなあ。 和歌山毒入りカレー事件。これはどこか納得できない、というか、事実がよく見えない事件だった。主役の女は秋田の母親連続子殺し事件に登場する母親とどこか共通するものがある。どちらもマスコミを積極的に意識して、まるで女優のようにテレビカメラの前で振る舞った。
参考1:「粗暴犯や知能犯といったこれまでは女性が行うことの少なかった犯罪における女性の占める割合の上昇がみられる」・・・『平成4年版警察白書』
参考2:「女性犯罪」に比して「男性犯罪」が言われることは少ないという事情は、多くの犯罪が男性によって行われており、それゆえ犯罪行為者が女性であるというだけで犯罪研究上のトピックになることを示している。・・・『日本における犯罪現象/吉岡一男』
こういう時代状況を前提にして、昨今の殺人事件を見てみよう。
最近、世を騒がせる事件の特徴はファミリーだろう。 まあ、事件が「家族」に関わるものだから、それゆえによりニュース性が高く、世を騒がせやすいとも言えるのだ。現代のファミリー犯罪を特徴づけているのは次のようなことだ。
一つは犯罪者と被害者の関係についてのもので、親による子殺しと妻による夫殺しという2種類のパターン。もうひとつは犯罪の方法手段についてのもので、薬物などを使った殺人とバラバラ殺人というパターン。
ファミリー犯罪の特徴とは次のようなことだ。凶悪な犯罪者と善良な被害者という二元論的な関係とはまったく違っていて、外から侵入した悪意の人物が犯人ではない。安全で平穏な家庭に土足で踏み込んだ暴漢ではない。内にいる誰かが内にいる別の誰かを殺すのだ。家庭は初めから平穏ではない。「事件」はずっと前から始まっている。家族であること自体がもう不安定で危険な状態なのであって、いつ凶悪な事件が起きてもおかしくはない。家族でなければ殺し合うこともなかっただろうに、家族として同じ家に住んでいるが故に殺人にまで発展する。誰もが殺人犯になりうる。誰もが被害者になりうる。どちらが死ぬかはロシアン・ルーレットのごとくだ。
まず家庭内バラバラ殺人について。渋谷歯科医宅兄妹事件とこれも渋谷のマンションで起きた外資系金融企業夫妻事件。
これは、かんたんに言ってしまうと、オスが暴力的にメスを支配しようとしているからだ。 メスは昔のように従順に堪え忍ぶメスではないにも関わらず。オスは依然として大昔の感覚から抜け出せず、抜け出せないオスが狭い狭い家庭の中で権力にしがみつこうとしている。手っ取り早く暴力を振るう。こうなるとオスとメスはどちらが殺すか殺されるかという局面に追いつめられるだろう。無能なオスと粗暴なメスが出会ったとき、そこに家庭内殺人は起きる。あえて言えば、家庭内の狭く限定された世界のなわばりをめぐる争いであり、負けた方が殺されて廃棄物となって外に放り出される。たいていが家庭内で殺されるのは夫の方だ。
夫婦の場合は、程度が軽ければ熟年離婚で済むだろう。程度が重ければ、たいてい老いた妻が老いた夫を殺す。長年の恨み辛み。家庭内で物事に決着をつけようとすると妻が夫を殺す。逆に家庭から妻が逃げ出して家庭の外で物事に決着をつけようとすると、逃げ出した妻を未練がましく女々しい元夫が追いかけていって殺す。大体こういうのが典型的なパターンだろう。いずれの場合も無能で暴力的な夫が登場人物だ。今回の事件では、熟年まで待っていられなかった妻がもうひとりの主人公になった。世の中の何万何十万という夫婦が背筋を凍らせたに違いない。この程度の冷たい関係の夫婦はどこにでもいるはずだからだ。表はきれい事を装っているが。
殺人が起きたとき、殺した側も殺された側も、同じ家に住む住人だから、殺した側にとって死体はたちまち目障りな粗大ゴミと化す。外から来た犯人ならば、その現場を立ち去ればよい。しかし内の人間だから立ち去れない。死体と同居するしかない。それはもはや死体ですらない。あまりにも大きいので切り分けて始末しなければならないゴミなのだ。分割の場となるのはたいていが風呂場だ。分割された部分品はたちまちビニル袋に入れられてゴミとして廃棄される運命が定められている。
都市空間にうかぶ閉鎖された家庭の一室。密室に押し込まれた崩壊家族。それがこれら舞台と登場人物のすべてだ。歯科医師家庭の兄妹事件と、高学歴夫婦事件と、バラバラ殺人は事件がお互いに影響を受けながら連鎖的に起こったのではない。それぞれが無関係に独立した事件として、しかしほぼ同時期に起こった。これに対して昨今のイジメ自殺のようにニュースが引き金になって連鎖的に起きていると思われるもある。しかし、家庭内バラバラ殺人はそうではない。もし共通するものがあるとすれば、それは時代の空気、としか言いようがないものだろう。その空気を吸っているものは、皆、相手を邪魔なゴミとして廃棄したいという潜在欲求に突き動かされている。
兄弟姉妹の場合は、いい加減成人していけば別々の住居でそれぞれ勝手に暮らしていけばよい。しかし、そういう年齢に入っているにもかかわらず一つ屋根の下でいつまでも暮らしている。そこにゆがみが出来るのは自然だろう。昔の大家族も成人が多く同居していた。あの時代は家業たとえば農作業や自営業で家族が共同で働くというかたちがあった。同居には必然性があった。現代は家族にそういう共同性はない。不自然なゆえにゆがみが出来る。ここでも凶暴なメスと無能なオスの組み合わせが悲劇を生む。どちらが加害者でどちらが被害者でということはまずない。どちらも加害者だ。犯罪学にはたしか被害者学とかいう分野があるはずだ。被害者には被害者になりやすい特性がある、と。もちろん全部の事件がそうということはあり得ないが、殺された側のほうが必ずしも純粋無垢ではない場合があるということだ。つねに被害者が真っ白で加害者が真っ黒、ということはないということだ。世の中は往々にして殺された側の方がほんらいは極悪人だったりする。まあ当たり前だけどね。
ファミリーにからむ事件としては、もうひとつの代表パターンに幼児虐待、虐待致死があって、こっちのほうはちょっとふつうでは理解できない。自分たちの子供をリンチにかけることで夫婦間のつながりを何とか維持しておくわけだから。そういう男女、ほとんど20歳代か30歳代だが、彼らの精神発達の幼稚さがすべてと言ってもいい。要するにたんなる阿呆かな。とにかく家族のなかの位置づけとして子は邪魔者、ゴミになる。ふつうは逆で、子供を可愛がるというところで夫婦がどうにか離れずにいるわけで、だから子はかすがいのはずだった。しかし、それも崩れた。これもまた、密室とそのなかで崩壊中の核家族の物語だ。
夫婦そろってパチンコしている間に車に残された乳児が太陽にゆでられて死ぬ。これも根っ子は同じだろう。積極的な虐待ではないが、いわば消極的な虐待だ。または無意識のうちの虐待と言ってもいいかもしれない。子供は未だ若い自分たちが「遊ぶ」うえで邪魔な存在でしかない。たいていが少人数の孤立した家族が主役だ。あるいは、いわゆる母子家庭が虐待の舞台になる。この狭く密閉された住居空間のなかでは、ストレスが一番向けやすいところに向かっていく。一番向けやすいのは子供しかない。すでに破綻している夫婦のいけにえになる。いけにえにしたところで、とっくに崩壊している夫婦関係はまともな姿になりようがないのだが。