組織と不祥事隠し。背景にある集団主義。
高校野球の季節はとっくに終わったが、今年の夏も「不祥事隠し」が世間を騒がせた。高知・明徳義塾高校の大会出場辞退と北海道・駒大苫小牧高校の全国制覇である。
高校生ともなれば、もっとも優先して教育しなければならないのは集団的規律ではなく個人の自立だ。個人の自立の前にまず集団の中での規律を守らせる、というのが優先される世界があるとしたら、それは幼稚園か小学校レベルの話だろう。集団至上主義は10代後半の青少年がめざすべき価値観ではない。個人としての自己責任という観念をいかに身につけていくか。この年代では、それをまず考えねばならない。
まっとうなアタマの人間なら次のような疑問を感じるはずだ。チームの中の誰かのしでかした行為の責任をともにかぶることが何の教育になるのだろうか、と。違法な行為、倫理に反する行為をした者はその行為において自ら責任をとらねばならない。それをあたかも組織全体が悪かったかのように責任をとらせることは、ことの本質から目をそらせるだけと思われる。自立した個人の育成という教育の本来の目標とする方向をすっかり忘れて、何でもかんでも連帯責任を押しつける。こういう個人の自立を阻害するような価値意識でもって「教育」を語り、高校野球を「教育の場」にしようとすること自体が、とんでもなく間違っているだろう。集団主義的な発想しかできない「教育」論者こそがもう一度教育されなおさねばならない。
集団、組織として責任をとらせようとする社会的雰囲気のもとでは、ほんらい個人の責任としてとらえるべきことまで連帯して責任をとらせようとする方向に人々は反応する。結果どういうことが起きているかというと、「不祥事」を隠そうとする内部の力が働く。組織の中に押し込めてしまおうとする。なぜなら表に出れば組織として責任を追及されるからだ。この集団主義社会では、そんなのは組織の責任じゃない、と大声を出すことは罪悪だ。こういう社会では、自分は悪いことをしていないのに自分も連帯して責任をとらせられると分かっているから、人はそれを隠そうとする。当然だろう。自分に直接の罪のない者に責任をかぶせようとする不条理な力に対して、弱い個人が出来ることはそれを外部に知られないようにすることだけだ。
連帯して責任をとらせる仕組みを押しつけることを「教育の一環」としているような、愚かな「教育者」が幅を利かしているのが高校スポーツ界だ。高校野球は教育の一環だ、などと唱えている「教育者」のアタマの中ほど、その手のバカげた価値観が満ちあふれている。その教育者もじつは内心、世間の目を一番気にしているから、ほんらい個人の責任として対処するのがスジであっても、組織に責任があるかのように言わなければならない。そういう強迫観念に支配されている。これが不祥事を隠す社会の力学構造だ。個人より集団を優先してきた社会の構造的な病なのだ。言うまでもないが、これは高校野球だけの話ではない。多くの企業犯罪もまったく同じ力学で生み出されている。
集団主義が原因で起きてきた事件を集団主義で解決できると考えるのは妄想である。そもそも集団内の暴力事件は個人の自立が欠ける集団の中で起きるものだろう。個人が個人の自己責任というものを十分理解し身につけているならば、集団内のいじめやリンチはおのずから抑制されるだろう。それが「教育」の目指すべき姿だ。