▲ Index

荒野とインディアン・・21世紀の分水嶺2 [2003/02/21]

最近このページを読み直してみて、あまりに稚拙な文章に恥ずかしい思いをした。そのうち書き直そう。


時代を象徴する出来事というものがある。わたしたちが普段の生活のなかでははっきりと意識していなかった時代の性格を、突然起こった事件が目の前に示してくれることがある。この2月にはそうした出来事が続いた。スペースシャトル・コロンビアの空中分解事故と国連安全保障理事会でのイラク査察継続の決定だ。そのどちらも超大国アメリカの威信を深く傷つける事件だった。

核と宇宙という未開の荒野

わたしは別のページで、アメリカという国家のスタイルは「荒野を開拓しインディアンを蹴散らしていく」と表現した。

荒野とは、もともとは「新大陸」そのものだった。もちろんヨーロッパから侵入した人々にとっての「新大陸」であって、あの大陸には遙かに以前からモンゴロイド系の先住民が多数生活している旧大陸ではあった。その「新大陸」を東から西へと開拓者魂(フロンティア・スピリット)とともに制圧していったのがアメリカの歴史、と簡単に言ってもいいだろう。しかし地理上の開拓は19世紀までに終わった。20世紀はその大陸の上でアメリカの文明を完成させていく世紀だった。地理上の荒野に代わるものとして、アメリカには石油を始めとする鉱工業分野と、豊富な資源に支えられた自由市場経済、そしてヨーロッパからうけついだ科学技術の分野があった。それらが開拓すべき新たな荒野になった。

そして20世紀後半は、核と宇宙が国家としてめざす重要な未開の荒野となってきた。いずれも国家の威信に直結する巨大プロジェクトとして、アメリカの開拓者精神を発揚するためにうち立てられたのだった。もちろんそこには対立するソビエト連邦へのつよい意識があった。核と宇宙の荒野を先に征することが国家的使命になっていった。核が生み出し育てたのがコンピュータを中心とする情報技術だった。アメリカの核関連研究開発施設に世界の1,2を争うスーパーコンピュータがある。核爆発のシミュレーションには超高速コンピュータが不可欠だからだ。またインターネットはアメリカ全土に広がる軍事研究施設、核基地などを情報で結びつける重要な機能として発達した歴史を持つ。現代のマイクロ電子技術、情報技術は核開発が先導し核開発とともに歩んできた。

核開発は宇宙開発と並んでアメリカのアメリカたる部分を牽引しつづける推進エンジンだった。その荒野を拓きつづけるフロンティアとしてのスペースシャトルの事故。1979年のスリーマイル島原子力発電所の炉心溶融事故、そして1986年のチャレンジャー号大爆発事故ですでにそれは予告されていたわけだが、コロンビア号の空中分解で荒野を拓くフロンティアの挫折は決定的になった。もしコロンビアの事故原因が特定できない事態になれば、いよいよ深刻なアメリカになるにちがいない。荒野の喪失である。

掃討すべきインディアン

荒野がそれだとすれば、その荒野に潜んで開拓者に襲いかかってくる野蛮人としてインディアンがいた。それはかつては共産主義国家、現代においては例えば「自由と正義」の開拓者アメリカを脅かすイラク、イラン、北朝鮮。ブッシュ大統領の一般教書演説は、ここに掃討すべき荒野のインディアンのリストを設定してみせた。だが、アメリカが昨年9月以降、実際に大規模な兵力をイラク周辺に集結させ始めるにつれて世界は大きく動く。イラクへの軍事攻撃に対して世界的反戦の波が急速に高まった。そして大衆レベルばかりでなく、ドイツとフランス、それにベルギー政府がとった態度がこれまでの世界の力の構図を一変させ始めた。

日本では、アメリカ通の外交評論家、外交政策アドバイザーの多くが東京大学卒業の元官僚であったり学者であったりする。そして判子で押したようにアメリカに留学した経験を持つ。アメリカの政権中枢に人脈が少なくない。かれらは日本にあってもそのアメリカの視点からしか世界を見ようとしない。アメリカの視点こそが最も正しく世界をとらえうるものと信じて疑わない。アメリカの外交戦略理論、核抑止理論、軍事理論。エリート・コースを歩いてきた人間によくありがちな「通」意識で思考が占有されているので、「通」からすれば常識外れで下劣な、論理性があるとも思えないような、しかしまったく新しい流れが足元で始まっていてもそれが見えない。思考と感性そのものが保守的で硬いので、幹線道路から外れた曲がりくねって薄暗い路地裏で起きている小さな動きを受信する能力に欠けている。そのかれらが政府や自民党の外交政策に進言している。

国連安全保障理事会が圧倒的多数でイラク査察継続を決議したとき、かれら日本の外交エリートは腰を抜かしたことだろう。孤立したのはアメリカとイギリスの開戦派のほうだったのだから。結果として日米英が他の国と対立するという図式になった。重要なのはこの対立が昨日今日の一時的な事件ではない点だ。1990年代、ソ連崩壊と湾岸戦争以後、北大西洋条約機構NATO軍のユーゴ(コソボ)空爆を経て9.11、アフガン侵攻にまで至るこの10年ほどの間に、それははっきりとした姿形を現してきた。アメリカの軍事力行使に明け暮れた10年の間に、ヨーロッパとくに歴史的に列強でもあったフランス、ドイツに反米意識がゆっくりとしかし確実に強まってきたのだった。そもそも1991年12月ソビエト連邦が崩壊したとき、同時にアメリカの崩壊も始まっていたと考えるべきかも知れない。その同じ年の2月には湾岸戦争が多国籍軍を主導したアメリカの一方的勝利で終わっていた。この一年を境にして、世界は唯一の超大国の一極化へと向かうととらえる考えが主流になっていったが、果たして実際はどうだったのか。

『帝国以後』

9.11はヨーロッパ諸国にとっても「アメリカは世界から嫌われている」のだという事実を衝撃的に再認識させる出来事だった。嫌われるアメリカと嫌われていないヨーロッパの図式を欧州各国は意識したに違いないのだ。アメリカと我々は違うのだという自覚が強まったに違いないのだ。 昨年末の総選挙中、ドイツ環境相はブッシュはヒトラーと同じだと発言してアメリカ政府の反発を買った。今年に入っても欧州連合EU議会での対イラク攻撃反対の風、さらに北大西洋条約機構NATOでのトルコ防衛をめぐる仏独などの対米非協力表明と続く。仏独にロシアまでも加わることで流れはさらに加速する。

仏独に対するラムズフェルド国防長官の「古くさい欧州」発言には、アメリカ人の多くがいだいていると思われる対ヨーロッパ観がそのまま反映されていた。おそらくアジアやアフリカに対しては、貧乏で文化的にも政治的にも遅れている「下等なアジア」「下等なアフリカ」、という表現になるだろうが(笑い)・・・。

こうした動きのなかでフランスの人類学者エマニュエル・トッドの『帝国以後』が話題になっている。邦訳出版は今年4月なのでまだ読めないが、朝日新聞2月8日のインタビュー記事で彼はこう言っている。「われわれが目撃しているのは、帝国としての米国の崩壊過程だ」。ラムズフェルドの発言は「仏独を推進役として『大国』になりつつある『新しい欧州』への恐怖感を示している」と。

そして2月15日の国連安全保障理事会がこの両者にとっての大舞台になった。ドビルパンとパウエル対決である。言うまでもないが、これでアメリカとヨーロッパが一気に対立するようになるわけではない。右に左に揺れ動くかも知れない。しかし、それでも、大きな流れは止まることはないだろう。インディアンを叩くつもりだったアメリカの目の前に予想外の横槍が入ってきているというわけだ。

コペルニクス的転回

20世紀アメリカの拡大を飛躍的に進めたのは、アメリカの外にある二つの条件だった。ひとつは二度の世界大戦の戦場としてヨーロッパが経済的にも文化的にも疲弊しつくしたこと、もうひとつはロシア革命に始まった社会主義圏の成立がいわゆる自由主義圏の代表としてのアメリカの地位を高めたこと。

ヨーロッパ大陸は前世紀後半以降、それまで続いてきたお互いが殺し合う戦争状態から脱することに成功した。そして1992年マーストリヒトに集まった主要国は、経済統合のために欧州連合EUを成立させるところまでたどり着いた。EUは経済面にとどまらずさらに政治的な一体化をめざして進んでいくだろう。他方、ソ連は崩壊した。「東側」は消滅した。これは一見、西側代表選手アメリカの大勝利に見えた。けれども、「東」が消滅するということは「西側」も消滅することと同義だった。ここでコペルニクス的転回が起きる。ソ連の存在はアメリカの存在を支えるつっかい棒だった。つっかい棒は外された。こうしてアメリカを支えるふたつの国際的な条件、"弱いヨーロッパ"と"強いソ連"が消滅していく。これが1990年代に起きた最も重要な変動だった。現れてきたのは超大国としてのアメリカの強大化ではなく、意外にもそれとは逆の「帝国衰退」の始まりだったのだ。

20世紀を通じて肥大化しきったこの超大国を外から支える力はすでに失われようとしている。支えようと必至にもがいているのはイギリスと日本ぐらいなものだ。イギリス・ブレア政権はヨーロッパ大陸の動きがまったく見えず、日本の小泉政権は中国と朝鮮半島を中核とするアジア大陸のダイナミックな動きがまったく見えていない。これは笑いたくなるほどよく似た構図だ。大陸の端に位置するふたつの島国がまったく同じスタンスを取らざるを得なくなっている。大陸に背を向けて大西洋と太平洋の彼方の大国ばかりを見ている。それは哀れな時代錯誤というものだろう。

軍隊は戦争をすることで初めて軍隊になれる

広々とした荒野を見失い、邪悪なインディアンを殲滅できなくなれば、それはアメリカの危機を意味する。とはいえ帝国を外から支える条件が消失したとしても、アメリカの内なる力がすぐさま急に失われることはないだろう。自由、暴力、拡張というアメリカの文明スタイルを止めることは出来ない。それはアメリカの命に等しいものだからだ。もちろん戦争をするなという世界の声が彼らを抑止することが出来ないのは、かれらが合理的価値観で行動しているのではないからだ。かれらは一種の精神病状態にあると言ってもよいかもしれない。社会的適応に失敗しているにもかかわらずその自覚に欠ける状態を精神病と定義すれば、アメリカは重度の精神病患者にほかならない。

しかもソ連崩壊によって、アメリカの持つ軍事力のポテンシャル・エネルギーはその行き場をなくした真空に宙ぶらりんになった。過剰な軍事力の向け先が無くなってしまった。これほど危険なことはない。ジョルジュ・バタイユ風に言う「呪われた部分」はアメリカの内臓に腫瘍として太った大ナマコのように横たわっている。これを切開して取り除こうとすれば、世界のどこかで戦争を起こさざるを得ない。ドイツの世論調査で半数以上の人が、世界平和への最大の脅威はアメリカであると答えているという。イラクを挙げたのはその半分だったという。軍事力の行使をしない軍隊は軍隊ではあり得ない。軍隊は戦争をすることで初めて軍隊になれる。かれらの最新兵器で武装した世界最強の軍隊は、そのエネルギーのはけ口を常に見つけださねばならない。かれらの世界最強の軍隊を維持しているのは、これまた世界最大の軍需産業だ。かれらは世界に緊張を求めている。

「わたし」を映すゆがんだ鏡

さて、ここまでわたしは「かれら」と言ってきた。わたしは世の中に「かれら」と「わたし」があるかのように言っている。批判の対象としての「かれら」だ。しかし本当はちがう。わたしたちの心の中には、アメリカ的な「自由、暴力、拡張」の欲望が潜んでいる。そのことを忘れるわけにはいかない。その欲望はアメリカという国のかたちで「かれら」に投影されているにすぎない。つまりアメリカは「わたし」を映しているゆがんだ鏡というべきものなのだ。鏡に映っている自分のみにくさ。わたしたちの分身ドッペルゲンガーとしてのアメリカ。ここに、日本人としての意思表示をする、そのむずかしさの原因があるだろう。日本がアメリカなるものを抑止することの難しさがここにあるだろう。核と宇宙がもたらした革新技術によって今、わたしたちは「便利」な情報技術生活を楽しむことが出来ている。アメリカが資源とエネルギーを浪費しているおかげで日本経済が潤っているという面がきわめて強いことを自覚しなくてはならない。アメリカの生み出した消費社会をわたしたちも楽しく受け入れてきた。(注1)

その「かれら」は余りにも大きく成長しすぎた。わたしたちの欲望が「かれら」を大きく育ててしまった。暴走するアメリカを制御することは不可能だろうか。自由、暴力、拡張の欲望を抑え込もうとしても無駄だ、とニヒリズムに陥ることはたぶん精神的な自殺に等しいだろう。今日の小泉政権のようにアメリカに追随するだけの無能な国家・政権はすでに死んでいると断定できる。この政権は、国際関係のなかでみずからの存在意義をアピールするチャンスをむざむざ捨て去ってしまった。日本にとって必要なのはアメリカからの視点つまり「衰退する帝国」にすり寄ることで生き延びようと言う小泉純一郎流ではない。逆に「帝国」に距離をおいた新しい力をうち立てようとしているアジアからの視点なのだ。中国と朝鮮半島は遠からず必ずその方向でまとまっていくだろう。そしてアメリカを抑制する力と意思のない日本は、やがてアジアから遠く取り残されていくことになるだろう。日米安全保障条約体制という東西冷戦時代の遺物(注2)を後生大事に抱え込んだままの政治指導者が日本の舵取りをつづけている限り、そこには転落の坂道が待っていることだろう。これが21世紀の分水嶺の意味するものだ。

(注1):ミュージシャンの坂本龍一は9.11以降のアメリカ人の姿を見て憂い顔を見せているらしい。彼はニューヨークに暮らしながら音楽活動を続けている。彼自身のうちにある「アメリカ」を彼はどれほど意識しているのだろうか。彼の生活スタイルのうちにある自由、暴力、拡張の志向に向き合えないようでは彼に救いはない。

(注2):日米安保条約はアメリカが日本を守るためにあるのではなく、日本の軍事力をコントロールし日本を服従させるためにあることを別のページでも書いた。それを有り難がってアメリカに感謝している日本人とは、いかがなものか。