農業には「豊作貧乏」という言葉がある。今風に言えばデフレーションということになるのかな。豊作はモノの世界、貧乏はカネの世界で、この二つが分裂している状況を表す。日本のいわゆる民謡には豊年満作を祝い願う文句が当たり前に出てくるが、言うまでもなく豊作が人々の喜びであった麗しい時代の名残だ。今時の百姓で豊作を純粋に祝う者はおそらく一人もいないだろう。民謡が民衆の実感を離れてしまっては廃れるしかあるまい。民衆の思いとかけ離れた民謡はもはや死んだ歌でしかないのだから。
もう久しい以前からどうしようもなく米が余って困っている。主食の米ですらそうなのだから野菜や果実は、一部特殊な品目を除いてすべてこの豊作貧乏の原理が当てはまる。生産過剰な分野を捨てて、まだ希少価値のある作目への乗り換えを誰も考えようとする。これはどんな産業でも同じである。ところがみんな一斉に同じことを考えるものだから、乗り換えた先に群衆が殺到して将棋倒しやら何やらパニックを起こす。そこでまたまた大暴落というパターン。うまい話はそうそう転がっているものではない。
BSE(狂牛病)騒ぎで牛肉消費が激減したという。一方で牛肉が食べられなくなって飢えている人も栄養失調になっている人も日本にいない。これを誰も不思議と思わないが、じつは非常に不思議なことなのだ。ある食べ物を突然みんなが食べなくなる、食べなくても決して誰も飢えない。べつに牛肉を食べなくても他に食べ物がいくらでもある、という世の中だから不思議に感じない。要するに飽食日本だからこそこういう「ぜいたく」が成り立つのだ。世界には飢えが絶え間なく存在するというのに。数年前に起きた米の不作騒動のさいも実際には日本人の腹を満たす程度の米は充分にあった。現代の日本とは幸か不幸かそういう世の中になってしまっている。では牛肉を避けて買ってくる食べ物は牛肉より安全か、というとこれがかなり怪しい。むしろもっと危険性の高い食料を平気で口にしていたりするのだ。
日本人なら誰でも分かっていることとは思うが、身の回りそこいらじゅうモノが溢れている。すべてがこれでもかと言うほど過剰だ。モノだけでなくサービスも過剰なので、世の中が身動きできないくらい窮屈になっている。「付加価値を高める」といったもっともらしい理屈で日本の「優秀な」労働者が努力した結果のひとつだ。わたしの幼い頃、家の中はほとんど何もなかった。たいがい押入に収まる程度の品物があるだけで、畳の上にはテーブルと座布団くらいしかなかった。だから掃除も箒でさっさと掃けばよく、廊下は雑巾でだっだっだっと拭けば済んだ。なんとシンプルだっただろう。なんと気持ちがすっきりしていただろう。いまはもうひどい。家の中も家の外もゴミまたゴミ。手が付けられない。
『農の未来』で書いたように、食糧の輸入とは糞尿の輸入であり、石油の輸入とは排気ガスと燃えないゴミ(石油化学製品)の大量輸入だった。アジアの国々からは超安い衣料品、靴、生活雑貨、家電製品、ありとあらゆる工業製品がなだれ込んでいる。携帯電話やパソコンという IT の主役たちの主要部品を含むハードウェアはほとんど台湾その他のアジア各国製。国産品は無いに等しい。外国製品の流入ではデフレの原因、国内産業衰退の原因、という面が目立ちがちだが、これら生活用品は要するにいずれすべてゴミになる。つまりこれもまた、ゴミの大量輸入なのだ。これが日本における自由主義経済の本質中の本質だ。日本国内にはゴミしか残らない。しかも処理処分の困難なゴミばかりが蓄積していく。
あるいは、例えばファックス電話機。あれにはいろいろ不必要な機能がいっぱいあるが、まず機能を使う前提として、あの何十ページもあるマニュアルをとても読む気がしない。何でもっと単純にしないのだろうか。他社製品との競争上の必然なのだろうか、これもできますあれもできますと。携帯電話というのも使ったことはないが、たぶんあれも同じだろう。iモードのメールというやつも何だか下らない機能に思えるし、携帯電話でホームページ閲覧というのもナンセンスこの上ないと思う。家庭電化製品は何かあるとピッピッ騒ぐ。それくらいならまだ良いが、ことばでああだこうだと指図し始める。町を歩けば必要ないアナウンス。都会の駅では例によってドアが閉まりますだのなんだのと。利用者の便宜を図っているはずのサービスが度が過ぎると、かえって利用者に混乱を与える。利用者が使いこなせないモノをいっぱい並べて「こんなにたくさんのサービスしています」と言われたって、全然意味が無い。ほんとうに必要ある時だけアナウンスしなさいな、よけいなお世話はいい加減にしてくれ、と文句も付けたくなる。
目の前には無駄のかたまりパーソナル・コンピュータ様が鎮座ましましている。キーボードを見れば、一度も叩いたことのないキーがいくつもあるだろう。とくに最近の日本の「一流メーカー」のキーボードには上の方に必要とも思えないキーがずらりと並んでいる。中をのぞいてみれば、OSがプレインストールされているのは良いとして、不必要なソフト、しかも中身は中途半端なソフトがいっぱい突っ込んである。メーカー品を買った場合、まずこの下らないソフトをアンインストールすることから始めなければならない。要らないものは要らないのだ。こんなのはユーザへの便宜でも何でもない。ちょっとパソコンを使っていれば分かることなのだが、本当に必要なソフト、役に立つソフト、優秀なソフト、というのは買ってきたパソコンにはほとんど入っていない。必要と思うソフトはユーザが自分で判断して店で買うかインターネットで仕入れればいいのだ。そのほうがずっとすっきり合理的になる。いや、それができないユーザは困るじゃないか? と心の優しい方々は心配される。そこです。初心者が困るといけないからという一言を認めてしまうと、このゴミの山の世の中がまた始まってしまうのです。自分で出来ることは自分で、自己責任、という言葉の意味をよく考えて欲しい。
ことほど左様に過保護が日本の社会を覆い尽くしている。過剰がもたらしている害毒はたんに経済的な側面だけではない。指示待ち症候群の若者を作ってきたのは一体誰なのだ、とここで言っても良いだろう。育児、教育にも過剰サービスが溢れている。教育・発育面で過剰なモノ状況、過剰なサービスが子供から重要な何かを奪ってしまっている。たとえばオモチャ屋へ行ってみるとよく分かる。まず、いわゆるゲーム機系統のオモチャが売り場を占拠している。端的に言えばボタンだけのオモチャだ。中に仕込まれたチップは複雑なプログラムかも知れないが、子供はただ画面に反応してボタンを押すだけ。ようするに一方的に与えられるオモチャをただ操作するだけ。操作テクニックを磨くことが遊びの中核になっている。自分で創るという要素はまったくない。どこかの誰かが創ってくれたプログラムに従って動くだけの人間。ここでも指示待ち人間を作り出している。これは子供に対するある種の去勢だ。これでは人間バカになる一方だ。モノ作りニッポンも科学技術立国ニッポンも絵に描いた餅と言うべきだろう。日本人はモノ作りに秀でていて細かいところまでよく気がつくと言われてきた。その優秀さが逆に子供からモノ作りの技能を奪ってしまうというパラドクスをなんとしようか。
子供の遊びの形態の変化がもたらしている問題については、このページの『中高年は荒野を目指す?』にも少し書いた。これは非常に深刻な問題だ。大人の世界でいうと一日中パソコンをいじっている姿だ。一日中携帯電話でおしゃべりしている姿だ。しかもそのパソコンはマイクロソフトがゴテゴテとつくって用意したWindowsパソコン。携帯とパソコンとゲーム機でボタンを押しているだけの哀しき人生が、この時代の若者たちの行く手にある。
[追加補足]「哀しき人生」と書いたが、この時代の若者にとっては、ちっとも「哀しくない」らしいので、まあ筆者も単に年を取っただけで、時代に対応できないことを暴露しているのかもしれない。
こういう過剰サービスが経済の成長分野だったりするから目も当てられない。景気をよくするには過剰の上に過剰を積み上げていく必要がある。誰がこれを止められるのか。このにっちもさっちもいかない過剰状態、かつてジョルジュ・バタイユが言った「呪われた部分」に取り囲まれて身動きできない今日、日本の経済社会に未来の成長があるなどと誰が約束できるというのだろう。「一方にあるのは、アングロ・サクソン的な自由な個人主義的資本主義の自己拡張運動であり、他方にあるのは、民族と血を規定としたファシズムの自己拡張運動なのであった。戦後世界の本質は、ファシズムが否定された結果として、過剰性が、資本の自己拡張という形でしか表現できなくなった点にある。1989年以降のソ連・東欧社会主義の崩壊がそれを決定づけた」(佐伯啓思『貨幣 欲望 資本主義』より)。あらゆるものが過剰であること、そしてそのはけ口が見いだせないこと、これが現在の日本社会を覆う閉塞感の正体だろう。
数字をいじくり回すのは得意だが、こうした目の前にある素朴かつ重大な時代状況がまったく見えていないのが、日本の政財界のお偉方、学者先生、エコノミストと称する方々だ。いっこうに古くさい経済観測を改める気配がない。考える能がおそらく無いのだろう。勉強のし過ぎというやつかもしれない。頭のいい人たちは常に過ちを犯す、しかも取り返しのつかないような過ちを。"The Best and the Brightest"(デイビッド・ハルバースタム)。今の日本の経済状況を招いたのはいったい誰だったか。とりわけ金融機関のトップがいかに能なしであったか。そう考えてくると、優秀な方々ほど無能であるという真理に突き当たりそうだ。
既得権益にしがみついているのは皆な同じかと思う。誰かさんではないが、言っている本人が「抵抗勢力」だった、というのは真に至言だった。あの人は改革者などではない。独自性のかけらもないアナクロニズムを絵にしたような人間だ。ブッシュ米国大統領が日本の国会で議員に対して、あるいは中国清華大学で学生に向かって、みずから誇って見せたアメリカの「成功」と「自由」、「競争」の勝利それ自体が、じつは21世紀にあっては時代錯誤の、無効で、末期的で、ほんらいそれこそが乗り越えなけれぱならない対象としての、20世紀型アメリカ資本主義社会なのだった。ところが、これを日本が追随していくことが「改革だ」と思いこんでいる人たちが、今日の日本では正しい人、かっこいい「構造改革派」ということになっている。それはもちろん「改革」ではない。たんなるサルの物まねだ。これからの社会がどういう方向に進むべきかのビジョンを自分で考えることなく、アメリカ流価値観とアメリカ流"グローバル"経済モデルを吹聴していることほど楽なことはない。さらにお粗末なことに、ブッシュ政権が苦し紛れに提唱した京都議定書に代わる温暖化防止対策に力を得て、日本でもこの際京都議定書をホゴにしましょうと経団連が騒ぎ出している。小泉氏もアメリカの政策を「建設的な提案」と評価したりしているのだから、まあ呆れてものが言えないとはこのことだろう。
これらアメリカ型モデルの時代錯誤性については、さらに考えてみる必要があるだろう。