「定年帰農」という言葉をだれかが作ったらしい。勤めが定年を迎えたら、田舎に少しの農地を買ってまたは借りて畑仕事でのんびり自給生活しながら余生を過ごすのだそうだ。現役の農家としては、すこぶる不愉快な言葉だ。そういうのって、要するに「趣味の園芸」「年寄りの盆栽いじり」なのだが、それを「帰農」と称する感性にはあきれてしまう。第一、農作業は歳とってからすべきものか。第二、退職金や年金をもらいながらの「農」とはいったい何ものか。
農業県といわれる山形でさえ、5年間に1万戸近い農家が農家であることを止める。率にして5年で10%の減だという。これが、1990年代日本の現実なのだ。農業で生活費を稼いでいこうという人間がいない。正確に言えば、農家の息子のうちで後を継ぐ者がどんどん減っているということだ。現代社会では、世襲制という特殊な条件をもっている職業はそう多くはない。大多数の人が給与所得者になる途を選んだ。政治家の子供だってみんながみんな政治家になるわけではない。芸能人やプロ・スポーツマンでもおなじことだ。農家だってそういうことだから、不思議なことではないが、政界や芸能界へは親がその世界出身ではない者も新たに参入してくる。農業にはそれがほとんどない。その違いが農業者数の減少につながっている。
話は簡単で、土地が無ければ世襲ではない新規の就農者は増えようがないし、農家一般の所得がほかの職種より少ないから子供は家を離れてサラリーマンになる。とくに米主体の農家や野菜作りの農家は「食っていく」のが不可能になりつつある。農家なのに「食っていけない」とは笑い話か。野菜は消費量の3割から4割がすでに輸入物に取って代わられた。米の輸入量はまだ僅かだから影響はでていないが、それよりも米を日本人が食べなくなってきたことが最大の要因である。だいたい食べるものは他に何でもあるし、誰も力仕事をしなくなったから腹も空かない。外食をしたときに出てきた品をきれいに食べる人が一体どれくらいいるのだろうか。飲食街の翌朝がカラスのレストランになるのは当然なのだ。
こうして日本の食糧生産は衰退していき、大半が輸入品でまかなわれるようになる。産業構成上、これはやむを得ない流れかもしれない。ただ、注意しなくてはいけないのは、一億数千万人ぶんの食糧の輸入が意味するところのものである。たとえば工業原料でもそうなのだが、石油燃料を輸入して燃やせば排気ガスが大量に出て大気を汚染する。石油製品を使えば不燃ゴミが大量に出る。食糧も同じことで、汚い話だが糞尿が大量に出る。その糞尿は原産地は海外である。簡略に表現すると、食糧の輸入とは糞尿の輸入である。こう言えば、その問題の本質が見えてくるはずだ。「国産は高いから輸入すればいいじゃない」、ということは「安い外国産の糞尿を輸入しましょうよ」、というに等しいのであります。
食糧には昔学校で習ったように窒素、燐酸、カリが含まれている。肥料の三大要素だが、青果物も肉もこれらの要素で作られている。これらは適度な量なら必要なものだが、過剰になると環境を悪化させる危険物質だ。河川を汚染し湖沼や内海の富栄養化をもたらす。沿岸漁業にも深刻なダメージを与える。昭和で言うと30年代までは、日本は糞尿リサイクル社会だった。今は亡き「田舎の香水」を思い出そう。あれは日本の食の源だっただけでなく環境保全装置でもあった。そのとき臭いことを環境破壊と呼ぶか、今日のように臭くないことを環境がよいと呼ぶか、そこが文化の分かれ道だ。それもかなり重大な分かれ道のように思われる。なぜなら、臭くない、一見清潔、というやつが本当は一番危ないことを忘れてはならないからだ。推理小説の真犯人だって、そうではないか。