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「もったいない」は犯罪である ・・・[2008/5/10]

ケニアのワンガリ・マータイは「もったいない」でノーベル平和賞を受賞した。
コイズミくんとコイケちゃんは「もったいない」精神を吹聴してまわった。
ルー大柴はみんなのうた「MOTTAINAI」を Sing した。
船場吉兆は「もったいない」で犯罪人になった。

どこで間違ったのか。

「安心、安全」主義者は、どんどん捨てることを奨励している。
まだ食べられるのに、賞味期限がどうの消費期限がどうのと言ってポイポイ廃棄処分。
「もったいない」と心に思うものなら、その邪な心を抱いたものは死刑である。「食の安全」をはやしたてるマスコミが死刑執行人だ。
食べ物を扱うものは、もったいないから再利用しよう、などとは努々考えてはいけない。使い回しなどもってのほか。
なのだそうだ。不二家のときも同じだった。

冠婚葬祭やパーティなどで出された仕出し料理、オードブルなど、いっぱい余ることがよくある。もったいないからお土産に持って帰りたい、と店(会場)のウェートレス、ウェータに頼んでも断られるのが、昨今ではニッポンの常識になった。
要するに、持って帰った料理で食中毒、なんてニュースネタになるのが恐ろしいからだ。保健所から営業停止!処分。

かくして世の中、夜が明けたら美味しそうな生ゴミの山。カラスとルンペンの天国かもしれない。
「もったいない」を本当に理解して実践しているのは、世の中の嫌われ者、彼らだけだ。

ところで、本当の犯罪人は、
自分たちが注文して出てきた料理に手も付けず、毫も「もったいない」と思わず、
そのまんま残飯にしてしまう、船場吉兆の客だ。
彼らは、膳を前にして、板前の気持ちも、いのちがけで魚をとってきた漁師のことも、
お百姓さんへの感謝も、自然の恵みのありがたさも、まったく思いやるこころを持たない。

人間に食べられるために刺身にされたはずの魚に、箸もつけずに席を立った客よ。
魚や鳥や牛はただ残飯として生ゴミにされるために殺されたのか、それだけのために。
残さず食べてやるのが、人間としての、いのちある生き物に対する礼儀というもの。
「いただきます」とは、そういうことだ。

よって、船場吉兆の客こそが、飽食ニッポンの真の犯罪者なのだ。

船場吉兆や不二家を叩いたことで、飲食店、食品工場の残飯生ゴミ量が、さらにニッポン全国何万トンと増えるだろう。残飯発生の主犯、客の罪はまるで問われない。メタボな文明国はますます下腹が出て繁栄するだろう。

ところで普通、ラーメンを食べるとわたしは汁まで飲む。汁まで飲むと塩分の取りすぎだ、などという健康評論家がいるが、あれはバカだ(笑)。
健康志向より腹をいっぱいにすることの方が大切に決まっている。塩分だの何だのと言うこと自体が贅沢病なのであって、身体を使わない、塩噴く汗もきらう、知的生活者のくだらなさを自白している。

第一、ラーメンの汁を残せばそれは流しに捨てるしかない。捨てれば確実に環境汚染だ。そんなことをする前に人間の消化器を通してやって生物学的に浄化するのが、真に「地球に優しい」ライフスタイルなのだ。エコロジー的には、汁も絶対飲むべきだ。人の健康より地球環境の方を大切にしろ。なんちゃって。

わたしは東京神田に行くことが時々あるが、たいてい「いもや」という天丼屋に寄って昼飯を食べる。ここは路地の奥にある、目立たない店だ。
天丼を残さずきれいに食べると店のおやじは客を率直に誉めたたえる。逆に残すと代金(残すことへのペナルティ)を余分に取られそうな雰囲気さえある。その単純明快さがいい。わたしの20代のころからそうだったから、もう30年くらいその「社訓」は変わらず続いている。

こういう、店と客が共有する倫理観というものが世界でいちばん大事なのだ。
それが店にも客の側にも欠けたとき、「犯罪」が起きる。
社会が崩れていく。


わざわざ注釈を入れるまでもないが、念のため。
使い回しをしたって別に法的に問題なわけではない。腐ったものを出すわけでもないから、安全そのものだ。たんに船場吉兆の客、前の客に出して引っ込めた料理をあらためて食べさせられる後から来た客、が気分的に損をするというだけの、「精神的な問題」があるだけだ。まあ、どっちにしても、船場吉兆の客はしょせん純粋に料理を食べに来る客ではないだろうから(笑)、自業自得というべきか。

「もったいない」で、インターネット上をさらっと眺めてみた。おばあちゃんの「もったいない」は美しく、船場吉兆の女将の「もったいない」は汚い、そんなことを言って区別しようとしている人がいるらしい。本質的に何も違わないだろう。詭弁というか自己欺瞞というか。なぜ商売人がもったいないと言って悪いのか。商売人や企業経営者がもったいないと思わなくなったら、それこそが世も末。そもそも、古来からの商家のもったいない精神こそが日本経済を支えてきたのではないのか。『もったいないの倫理と日本型資本主義の精神』、なのだ。

使い回しを黙認するのが正しい選択だ。世の中は再利用で成り立っている。再利用そのものを絶対悪などとして排斥非難するのは結局、自分の首を絞めることにしかならない。ほどほどの再利用は、あって当然、自然なこと。人間(客)はそれを前提に対処していけばいいのだ。この皿は「使い回し」っぽいなあ、と料理を遠ざけるのも良し。ときには見て見ぬふりをして食するも良し。その程度の、こころの余裕、必要じゃありませんかネ。一切認めない、というのはむしろビョーキ、精神的な清潔病であって、こちらのほうが異常なヒステリー社会につながっていく。今回の一件に対する世の中の反応には、ニッポンのそういう精神病理が映し出されているだろう。