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男と女の犯罪学 ・・・[2007/2/25]

日々の犯罪報道を見ていて感じるのは、男と女の殺人における性的傾向の違いだ。

男は恋する相手が自分を拒絶すると暴力に訴え、ついにはその相手を殺してしまう。最近ではストーカーといわれる行為がだいたいこれに当たる。また付き合っていた女に別れ話を持ちかけられると、これまた殺してしまう。一方の女はどうかと言えば、恋する男が他の女のほうに乗り換えようとすると、その男を恨んで殺意を抱くのではなく三角関係の一方の端である女のほうを攻撃する。こういう傾向があるように思われる。

もちろん、マスコミによって報道されるのは世にあまたある犯罪のごく一部にすぎないから、報道の印象だけですべてを判定していけないのは当然だ。だから、わたしの見方は偏っているのかも知れない。そういう前提で、ちょっと無責任に考えてみた。

なぜこうした差があるのか。それはおそらく男女の性のあり方が深く絡んでいるだろう。

男にとって性とは相手の女を所有すること、所有するための行動原理として働くものだろう。一時的所有を強姦と言い、長期的所有を結婚という。そして究極の所有は殺害となる。殺害は対象の抹殺ではなくあくまで対象の所有の変形に過ぎない。消してしまうことが目的ではなくて、いわば所有権を永久に誰にも渡さないための手段が殺害だ。肉体は消えてもその所有権は残るというわけだ。女はその生命までも男に所有されてしまう。じっさいは所有したことにならないが、男は観念的な生き物だから、「命を奪うこと=所有」という等式が成り立つのだ。所有していたつもりの女が自分の手元から逃げようとすると、男は未練がましい動物である本性を発揮して、女にすがりついていく。世の演歌にうたわれている話とは全くの逆。男の方が未練に泣きすがるのだ。捨てないで、と。そしてそれでも女が拒めば命を奪うことで女が他人の元へ走るのを阻止する。

女の方はちょっと難しい。男は、女が別の男に走ったとしても寝取った相手の男を殺すことはほとんど無い。事女に関する限り男たちはお互い友好的なのだ。ところが女はなぜか違う。競争相手としての女に殺意をいだく。もっとも、女が男を殺すには腕力が足りないから実行しないと言う見方も出来る。それは間違いないだろうが、わたしはそういう肉体的・物理的な理由だけでもって女が女殺しに向かうとは思わない。たぶん女にとって男は所有の対象ではない。恋愛も結婚も男を所有することではない。男が確保した巣テリトリーを所有することだ。そのテリトリーを維持する上での危機が起これば、女は逆上する。自分に敵対する競争相手を破壊しに向かう。もし男を殺してしまえばテリトリーも同時に失ってしまうのであって、それは自殺行為になることを女は直感的に知っているのだろう。

これと似たような心理に次の例が挙げられる。女は化粧したり服装にこったりするが、それは男に対してのアピールではなく他の女たちへの存在誇示である場合がほとんどだ。女の視線はつねに競争相手としての女たちに向けられている。嫉妬という漢字が女扁で形作られているのは理由のないことではないのだ。

ところで最近は、女性の経済的自立もどんどん進んだ。それにともなってテリトリーを夫に確保してもらう必要も薄くなってきた。こういう社会では上に書いたような性差もまた薄れていくような気がする。それが良いことかどうかは知らない。

と、まあ、偏見に満ちあふれた文章で不愉快になった方にはお詫びいたします。