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中高年は遭難する   [2006/10/10]

三陸沖で座礁転覆したサンマ漁船の乗組員さん、ほとんど50歳代、60歳代だった。 北アルプスでも遭難だ。これも中高年グループだった。 この二つの典型について少し考えてみようか。50歳代の一人として。

若い人、といっても20,30代だが、その若い人たちはどこに行ったのだろう。

二つの遭難がもっている共通点は中高年ということだ。共通するのはそれだけ。あとは全然性格が違う。 片方は仕事、もう片方は遊び。 片方は男の世界、もう片方はオバサンのパーティ。 同じ年代でありながら、男と女はこんなにまで遠い。両極端にかけはなれている。

これが現代日本を照らし出している。それは三重の意味でシンボリックだ。 一つは若者が大自然に接触する機会をまったく放棄してしまったこと。 一つは農林水産業は追いつめられてしまったこと。その担い手のオジサンも追いつめられている。 一つは女は自由と消費をどこまでも追い求めていること。要するにオバサンは退屈している。

ニッポンの今と将来はかなり危ない。

ニッポン人は中高年になるとみんなサンマ船に乗って海に出ていくのだろうか? まさかね。ニッポン人は中高年になるとヒマとカネを持てあましてみんな山登りするのだろうか? まさかね。サンマ船に乗って命がけでサンマをとってきたってナンボになるっていうのか。そんなことを、これからのニッポン人が進んでやることだろうか。

ここが問題の核心だ。今の若い人は、年を取って会社勤めをやめても漁船に乗ったりはしない。今の若い人は年を取ったからと農業を始めたりはしない。今の若い人は定年退職したら急に思い立って北アルプスに向かうようなことはしない。わたしは、そう予想している。

今の若い人にとって、「自然」というものがどういう意味を持っているのか、身体のどこかにしみ込んでいるものがあるのか。それを見てみないとダメだろう。自然とは何か、それは時代によって、世代によって、まったくちがうはずだ。

今の時代の中高年というのは、子供のころにはまだまだ豊富だった身近の自然にふれながら遊んだ体験を持っている。自然体験とは、いつの時代も変わらないというものではない。今の時代の中高年は特殊な人種、特殊なニッポン人とみなした方がいい。こういう人たちがさらに年老いて死んでいくと、こういう人種は絶滅する。そういう特殊な滅びゆく世代なのだ。高度経済成長期と呼ばれる時代はこの世代が作り出し、この世代がそれを謳歌し、自らを育てはぐくんでいた自然環境を自ら食いつぶしていった。同時にこの経済的繁栄の時代に育てられた次の世代は、この時代を作り出した世代がもっていた自然観を初めから持たない世代として、次の時代を生きていくことになった。

管理された自然を体験してもそれは身体の底までしみ込まない。動物園ではもちろん、観光サファリパークで自然界の生き物の姿を理解することは出来ない。身体で自然におぼえた自然とアタマだけでおぼえる自然では、自然の感じ方がまるっきりちがう。現代はいろんな自然体験塾とかワンパク学校みたいなものがあって、その主催者の意図とか努力とかは痛いほど分かる。しかし、何か、ゼツボー的な感じがする。我が家の子供たちにしたって、彼らは現代ニッポンを生きているから、わたしの体感的な自然観とはまったくちがう感覚を持っている。

もう、後戻りなんか絶対にできないところまで、このニッポンは来てしまった。経済成長と引き替えに捨てたものの価値を、いまさら取り戻そうなんて無駄だ。

かくして、現代の中高年がさらに年老いて絶滅すると、もう、農業も漁業も、ニッポンからは消えて無くなるだろう。中高年の山登りブームも消えて無くなるだろう。消えたとして、それを嘆き悲しむニッポン人さえいないだろう。もうそういう「古い価値観」をこころに持ち続けているニッポン人はいなくなっているからだ。