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ゴジラ、ニューヨークを行く・・なぜアメリカは「愛」されるのか [2003/01/15]

アメリカはなぜ嫌われるのか、というのは今や余りにもありふれた設問になった。しかし、アメリカはなぜ愛されるのか、について論じるほうが本当はずっと必要だと思う。答えは「自由の国だからだ」と言ってしまえば済みそうだが、それでは芸がない。

東京ベクトルとニューヨーク・ベクトル

昔、わたしが小さい頃、守屋宏が歌っていた
♪♪ 可愛いあの子は東京へ行っちっち、ボクの気持ちも知りながら。
何で何で何で?どうしてどうしてどおして東京がそんなに良いンだろ?
ボクは泣いちっち、東京向いて泣いちっち。
ボクも行こう、あの子の住んでる東京へ ♪♪

おそらく東京をニューヨークと置き換えても歌として通用するはずだろう。戦後東京はこうした田舎の若者たちの心情に支えられて巨大化した。アメリカという国もまた、その20世紀とは世界中の青年のこれと同じ心情を吸い上げながら繁栄してきた歴史だったと言えるだろう。ある者は中南米やアジア、東ヨーロッパの貧しさに耐えかねて、ある者は全体主義国家の迫害から逃れるために、またある者は古い歴史と文化の窮屈さを嫌って・・・。この東京ベクトルとニューヨーク・ベクトルはまったく同方向を向いていた。

ゴジラ、ニューヨークを行く。

プロ野球巨人の松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースに入団することになった。近鉄の野茂が切り開いた道は大きかった。イチローの活躍がさらにそれを拡げた。このふたりはどちらもパ・リーグの選手だった。開拓者はマイナーから生まれる。

さて思い出して欲しいが、松井が星陵高校からプロ入りする前の本来の希望球団は阪神タイガースだったことを。だからフリーエージェント宣言をしたなら、本来ヤンキースではなく阪神に行くべきだった。だが、あの弱小球団に入って巨人を倒す、そういう生き方を彼は選ばなかった。たぶん思いつきもしなかっただろう。それは例えば、東京に出てバリバリ働いていたが田舎の両親を見るために仕事を捨てて帰郷する決意をした青年、という筋書きに似ている。松井の頭にそういう筋書きはありえなかった。大リーグ、しかもヤンキース。日本で言えば巨人ブランドだ。野茂の最初に入ったロサンゼルス・ドジャース、イチローの入ったシアトル・マリナーズと比べれば格上、名門中の名門、ブランドの中のブランドだ。松井のベクトルはとどのつまり守屋宏の歌った青年とまったく同じ方向にある。「可愛いあの子」を追いかけて行こう、と。期待はずれに終わる予感がするな。野茂やイチローみたいな「可愛いあの子」の尻を追いかけていくだけの男だから。

金正日の息子、東京ディズニーランドに現る。彼としては本場のディズニーランドへ行きたかったかも知れないが、どちらにしても、北朝鮮の人間も「アメリカ」へのあこがれを持っているという点で日本人と大差はない。いや日本人以上かもしれない。北朝鮮のこれからを占えるような気がする。

マクドナルド文化 VS ラーメン屋文化

マクドナルドは大好き、でもアメリカは大嫌い!
アメリカのポップミュージックが好き、でもアメリカは大嫌い!。
ハリウッド映画が大好き、でもアメリカは大嫌い!。

なぜ「好きだけど嫌い」が共存するのか? このアメリカという国家とアメリカという文化の二つは分けられるものだろうか? 別のものとして扱えるものだろうか?

ラーメンは大好き、だけど中国は好きじゃない。
キムチを食べたい、だけど朝鮮人は嫌い。

どこが違うか考えてみた。食べ物については、アメリカものは固有の巨大企業が売り出す商品だ。ラーメン、キムチは固有の企業にまったく結びついていない。アメリカものは時々食べるのは良い、つまりお菓子感覚だが、ラーメン、キムチは主食に近い、飽きることも少ない。表通りの中華料理店に入っても、路地裏の小汚いラーメン屋に入っても、マクドナルドみたいなラーメンが出てきたらわたしはゾッとする。日本中のラーメン屋がすべてアメリカ文化風のチェーン店になったら、地獄だ。たぶん日本人の多くがこのわたしの感情に賛同してくれるだろう。世界を制覇しているかに見えているアメリカ文化も、所詮はこの程度のものだ。

もう一つは、映画や音楽についても言えることだが、愛するアメリカはたいていアメリカの若者文化という点だ。若者つまり新しさと言い換えても良い。アメリカにも伝統的な文化はあるはずだが、それらは重要ではない。世界の興味を引くことはない。つねに新しいことがもてはやされる。要するにマックにしても音楽にしてもミッキーマウスにしても、ミーハー消費社会と一体のものとしてある。

ブロンド美人とマッカーサー

次に白人崇拝を見てみよう。青い目をして色白でブロンドの髪。アメリカの町には外国映画の美人女優みたいな女ばかりが住んでいるような幻想。アメリカに限らずヨーロッパに対しても言えることだが、なぜアメリカを愛するのかを考える上での大きい要素であることに変わりはない。これはアジア人つまりモンゴロイド特有の感覚なのだろうか。それとも日本や韓国など一部のアジア諸国に限られる現象なのだろうか。そのあたり、わたしは海外旅行などしたことがないので分からない。少なくとも日本人、とくに敗戦後の日本人には多かれ少なかれ白人崇拝があることを否定できないだろう。テレビのCMひとつ見ても、いまだに白人崇拝が消えない。問題はその理由だ。

古くはペリーの黒船来航、比較的新しくはマッカーサー占領軍の日本進駐。現在の50代以上の日本人はマッカーサー的なものに強烈に影響されている。強さ、豊かさ、目新しさに圧倒される。腹をすかしていた日本人には、チョコレートやパンといった本物の食べ物としてだけでなく文化としても五臓六腑に吸い込まれた。それをもたらしたのは白人を中心とする軍隊だった。そして音楽、映画、テレビが日本人の五感にアメリカン・ドリームを刷り込んでいく。豊かさと白い肌の色がそこではセットになっていた。しかしある年代以降の日本人はマッカーサーに縁がない。腹が結構満腹になってきた日本人にとっては別のアメリカを愛する理由を考える必要があるだろう。

英語やアルファベットを使う方が洒落て格好良くみえる現象。お役人が何かの新規事業や新規施設を企画するときはほとんど意味不明なヨコ文字を使う。駅ビルの名前や公共施設の名前で聞いたこともないカタカナが使われるのは日本全国津々浦々、あまりにも見慣れた姿だ。この意味不明という要素こそ実はもっとも重要な力なのだ。新しさの魅力にもこの意味不明という要素が欠かせない。意味がはっきりしているということは日常的ということだ。ありふれている、ということだ。それに対して意味不明は非日常をもたらす。新しさをもたらす。例えばポピュラー音楽の歌詞は日本語に直してしまうと違うものになる。意味がはっきりしてしまうと魅力が消える。映画は日本語字幕が読む間もなく流れていく程度だから許されているのであって、あれを全部日本の声優が吹き替えしてしまうのは許されない。非日常がただの日常になってしまうからだ。偽物になってしまうからだ。有り難さが無くなってしまう。日本人にとって本物とは意味不明でなければならない。

自由、暴力、拡張

なぜアメリカ文化は世界中に広がるのか、愛されるのか、その答えは簡単そうで簡単ではない。

アメリカと言っても実際は非常に広く多様な国のはずだ。ここにもわたしは行ったこと無いのでよう知らんのだが。ところがわたしたちの愛している、と思っているアメリカとは都市だ、大都会だ。都会とは何か? それは根っ子を無くした難民、移民が作り上げる町のことだ。それはニューヨークも東京も同じだ。アメリカはそれに加えて奴隷制度という強制的移民も大きく影響してきた。移民文化としての Made in USA。黒人がアメリカの文化形成に大きな貢献をしてきたことは明らかで、とくに音楽やスポーツといった感性、肉体に密着した文化については彼らの存在抜きにありえない。かつてアーサー・ヘイリーが書いてベストセラーになった『ルーツ』のように、根っ子を強制的に切り取られた黒人の歴史と社会的立場がアメリカの土地を舞台にして新しい文化を生み出した。アフリカの密林やサバンナではけっして生まれることの無かったものが、アメリカで生まれた。

欲望の解放。自由と暴力。
大地にフリーハンドで自分のテリトリーを描くことが出来る。そういう自由。その典型がアメリカの国境線だ。あんな直線の国境線で囲まれた国は世界のどこにもない。アメリカの政治、経済、文化、科学技術、などなどのスタイルは「荒野を開拓しインディアンを蹴散らしていく」、そういうものだ。他の国地域ではこういうスタイルは絶対とれない。長い歴史、文化をそれぞれ持つさまざまな民族がひしめきあうヨーロッパやアジアでは、アメリカン・スタイルはとりようがない。今混乱している中東諸国はヨーロッパの列強とりわけイギリスによって勝手に国境線が引かれた国々である。植民地を手放すときのこのツケが未だに民族問題を深刻なものにしている。他方で、アメリカ先住民というやっつけやすい人々が住む「新大陸」だったからこそ、「好き勝手」な自由が成立した。暴力で、あるいは自分の腕次第で、自分のテリトリーを自由に拡げていくことができた。自由を支えているのは暴力だ。自由・暴力・拡張、これらはアメリカにおける文明の根元にあるものだろう。いわば人間の心の奥に潜んでいる魔性をアメリカは解放してくれる。

スーパー・オタク合衆国

都会のように根っ子を失った世界はオタクの天国になっていく。アメリカという国家は世界に冠たるオタク国家だ。先日、ラジオでオタク評論家の何とかさんが言っていたが、オタクが成立する条件は親が子供にカネを与えるという文化風土があることだそうだ。子供にお小遣いをやらない文化風土の国ではオタクは育たないと言う。日本のように子供に大金を持たせることに何の抵抗も感じない国は、世界のなかでは少数派だそうだ。わたしはそれに加えて根っ子の切断を必要条件としてあげたい。自由に使えるカネを手にした子供たちは、世間を気にしなければいけない大人の常識世界と切り離された密室でオタクの種を育てていく。高度経済成長を遂げた後の日本でオタクがタケノコのごとく出現した理由はそういう背景があった。

アメリカという国をそういう目で見てみると、まさにそれが当てはまる。ベンチャー・ビジネスとはオタクに対する積極的投資によって初めて成り立つ。アメリカにはそのための豊富な資金があった。このオタク文化がけっこうな力を持っている。世界をリードし支配する。その最大の成果がアメリカの開発する軍事技術、新兵器だろう。戦争オタクと科学オタクにとってアメリカは天国。オタクの「自己実現」にとってこの国ほど住み良い国はおそらくあるまい。ナチの迫害を逃れた20世紀ヨーロッパの科学オタクたちがアメリカに亡命し、この国の庇護のもとで好きなだけのカネを与えてもらい自由に自己実現に励んできた。原爆もアポロ宇宙船もその象徴だ。同じように「自己実現」を目指すあらゆる種類のオタク人によって形作られている国、それがアメリカ。政治、経済、学術その他あらゆる分野で、世界の未来を左右しかねない、根っ子を持たないオタクたちが集まって形作られている国、それがアメリカ。スーパー・オタク合衆国だから自分たちが世界で一番だと信じている。他の国がどう思うかなんて気にしない。自分が正しいのだから正しいのだ。そこらあたりに、この国が「愛」される原動力はあるように思う。

(つづく、かもしれない。)