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狂ったカマキリ [2002/01/28]

コンピュータ・グラフィックスの利用が急激に広がって、テレビでもゲームでも映画でもどこにでもCG製のキャラクターが溢れている。いわゆる3Dの立体画像は精密化の一途にあり、キャラクターの表情や身の動きのひとつひとつには、コンピュータによるじっさいの人間の動作を分析したデータが反映されている。たしかにリアルではある。しかしあの不気味さは何だろう。それは、一見「リアル」だが実際は「生きていない」ことから来る不気味さのようだ。あたかも死体が動き回り、笑い、話しかけてくるような、そういう種類の不気味さである。だから、茶の間のテレビ画面にそれが登場すると、どことなく陰気な雰囲気になる。どんなに笑顔を見せていても、死のにおいが冷たく漂ってくる。

これと似たものに例の"アイボ"がある。ペット型ロボットおもちゃ。あれもまた、どんどん"進化"して実際の動物の仕草を上手にまねるようになるだろう。だがこれもまた死のペットだ。医療テクニックによって生命と死の垣根が曖昧になった現代で、人間が機械同様に処理され、死んでいるロボット・ペットがいつかは生命を持ちうるかのようにもてはやされる。死とは電源が切れた状態にすりかえられる。死んだ生き物も電池をとりかえればまた動き出す。コンピュータ・グラフィックスがどこまでも二次元空間で本物らしい生き物の動きを目指すのにたいして、アイボは三次元空間にバーチャルな生命物体を作ろうとする。どちらも生と死の混迷を映し出している。

一時爆発的に流行ったタマゴッチ。1998年のことだ。夜中に暗闇の中でピコピコ騒ぎ出すのには参った。あれももう人々の記憶から消え去ってしまった。しかしこれは質としては古いタイプのおもちゃだ。ことさらリアルであろうとはしていなかった。あの小さな液晶画面ではもとよりリアルな映像や動きを実現するのは難しい。そうではなく、あれが何か現実的な小動物をそのまま登場させる玩具だったとしたら、あのように子供に支持されなかっただろう。あの変な形の生き物?が寝たりウンコしたりご飯を食べたりする、そういう現実離れしたところに人気があったのだ。その点、似非リアリティを全面に出そうとするアイボとはまったく違う。アイボがもしウンコやシッコをしたらどんなものだろうか、アイボが究極のペットを目指すとしたら、それはそういう気持ち悪い姿に進化していくだろう。ソニーという会社は社長を始めとしてさすがに先進的でグロテスクな感覚の人々によって作られているらしい。

カマキリは生きている小動物しか食べないという。目の前を動く生き物だけに反応する。死んでいる虫に興味を示さない。わたしは試したことがないが、死んだ虫に糸を付けてカマキリの目の前で動かしてもダメだそうだ。カマキリは本物と偽物を見分ける。生きていても死んでいてもエサはエサだ、と思うのは人間の勝手だ。もし生きているものを捕らえるハンターとしての本質をカマキリから奪えば、あとには何も残らないのだ。そうなってしまったら、もうカマキリを廃業して死んだ生き物でも気にしない蟻かゴキブリになったほうがよい。リアリティとは結局そういうものなのだろう。

実物をどこまでもどこまでも模倣していけば、いつかは実物同様になる、コンピュータを駆使することによって仮想現実空間はより現実に近づいていく。そう思うのは技術屋のはかない夢だ。リアリティとは模倣からは実現できない。写真よりも似顔絵漫画のほうが本人によく似ているという現象はよくあることだ。肝心なのは模倣ではなく、エッセンスなのだ。すべてをこと細かく写すのではなく、核心を一閃のもとに切ってみせることなのだ。素晴らしい役者はそれを自分の肉体で見事にやってみせる。片やいかに優秀なCGデザイナーと言えども彼は役者ではない。自分の作った立体キャラクターに真に迫った演技をさせるような能力も技術も獲得することは出来ない。これはこうしたCGキャラクターの未来が暗いということだ。特殊撮影を駆使して死んだキャラクターが動き回る映画は、下手な役者が演じる舞台劇ほどのリアリティを得ることすら出来ない。昨今の娯楽映画はやたらCGに頼って作られている。この現象はとても寒々としている。映像技術屋が栄えて、映像文化が死んでいく。死んだCG映像がテレビやスクリーン上で死の舞踏をくり広げる。 そんなゴミのようなCG手法に頼っているメディア、産業もまたいずれ死んでいくことになろう。

また他方、そうした映像を「見る側」については次のように言えるだろう。実物と非常によく似ているが実物ではない。実物とほんのちょっとだけ違う。そのちょっとだけが実は非常に大きい違いといえる。テレビの中の犬に吠える犬は駄犬だ。もし、その微妙な違いに気付かなくなるようだと人間も危ない。感覚の鈍磨が起きているということになる。人間ならそういう感覚マヒに陥ってしまう恐れがとても強いように思うが、そんな感覚マヒした人間はやはり危ない人間なのではなかろうか。そしてその種の人間を現代社会は大量生産しているふうにも見える。社会面を賑わす残虐非情な事件の加害者のなかに、この種の生と死のあいだにあった区別の喪失を見つけることもできそうな気がする。それはカマキリであることを見失ったカマキリである。

[追加補記(4/29)] 宮崎監督のこんな記事がありました。