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中高年は荒野をめざす? [2001/08/30]

中高年の登山者が増えているそうだ。そして若い人は山に登らなくなったらしい。聞くところによると登山者の8割がこの中高年だという。 そういえば、遭難事故を起こすのは近頃、爺さん婆さんばかりだ。何でこんな事になったのだろうか。これもやっぱり異常だね。中高年登山者の増える背景、青年が登山離れする理由、この二つに分けて考えてみよう。

中高年が増えた理由としては
1)車社会が拡大して山深くまでかんたんに自家用車で入り込めるようになった。
2)山小屋が旅館・ホテル並になって、重たいテントや食糧を背負っていく必要が無くなった。
3)平均寿命がのびたのでヒマで金のある元気な年寄りがあふれている。
さしあたりこんなところだろう。

それと、こうした中高年者のほとんどが山の初心者だそうだ。若いときからずっと山登りをつづけてきたベテランや、若いときにはよく登ったがしばらく遠ざかっていて再度登り始めたというリバイバル組は、全体からすると数少ないという。中高年登山の主役は初心者であるという点に注目しなければならない。裏返してみると、日本の多くの山が爺さん婆さんの初心者が登れるような山になってしまった、ということかもしれない。ある意味これは情けないことだ。そういう山は山じゃないのではないか?!!。やっぱり山は苦しいトレーニングを積んで、あれこれ面倒な計画準備をして、ずっしり肩にのしかかるザックを背負って、汚いやつだなと一般の通勤客、旅行客に白い目で見られながら、夜行列車か何かでやっとこさ目的地に近い駅にたどり着いて、とぼとぼと出発する、そういうのが山登りだ。そう思うのは、かつて若い頃山にお世話になったことのある今や中年の、たんなる戯言にすぎないだろうか・・・・。

では、若い人が少なくなったのはなぜか?
これは難しい。まず若い人がいわゆる体育会系の山登り組織に入るのを敬遠するようになった。かなり昔からその傾向があった。組織に拘束されたくない、ということ。山登りはいわゆるスポーツとちがってはっきりしたルールはない。今時の若い人はルールが既に決められていてそのための道具もちゃんとそろっているという状況でないと何もしない、何も出来ない、という傾向があるようだ。道具はすべてスポーツ店から買ったもの。端的に言えば今は金属バットがなければ絶対野球は始まらない。昔はバットの代用品たとえば竹バットがあれば野球は成立した。べつに9人X2の頭数がそろう必要もなかった。その辺の子供の遊びやスポーツに対する感覚は、モノの少なかった昔とあふれかえる今とではまったく別世界の感がある。それに同じ身体を使うにしても、その舞台は空き地や野山だった時代から整備された競技場、体育館に変わった。スキーもすべてが完備したスキー場で滑る以外はほとんど考えられない。たぶんこうした時代状況が若者の山離れを加速しているように思う。

高度経済成長以来の全国隅々まで都市化してしまった世界しか知らない人が増えた。若い人たちの幼い頃からの体験に自然界とのつきあいが欠けている。だいたいカブトムシやクワガタはデパートかホームセンターに買いに行く時代だ。そのうえ車社会になってしまったので、自分の足で長時間歩くというのは時間の無駄、労力の無駄ということになった。自然とのつきあいという話をするとき使われる「アウトドア・ライフ」という言葉自体、頭の古くさいわたしなどからすると耳にするだけで気持ち悪くなるが、アウトドア・ライフといえば「都市生活の快適さを車に満載して野山に出かけること」(わたしの辞書より)なのだから、テントや食糧背負い汗水垂らして山に登る、なんて発想は今時そもそも生まれてくるはずがない。都市化は止まることがないから、若い人の登山は減る一方ということになろう。ちょうどクワガタを探して山に入る子供がいなくなるのと同じように。

ということで今、山に登っている年代の人たちが本当に歳とって山に登らなくなると、山は人っ子ひとりいない静かな世界になるのかもしれない。それは歓迎すべきなのかどうか・・・むしろそういう時代になると、自然とのつきあい方について深く考える力は無くなってしまうような気がする。ナマの体験・経験がすっかり欠如した社会で、頭だけで自然について考えたって良い考えは浮かばないだろうから。(2001/08/30)